ヒーローという言葉の意味を知らない僕たちは。

第1話 治と皆

「おーい皆、ビッグニュースだ。明日からこのクラスに新しい仲間が増えるぞ」

　小学校六年生の、夏の日の帰りの会。カーテン越しに柔らかい日差しが届く教室の中、担任の先生が俺達三組に属する生徒へ告げた。新しい仲間が増える。先生の言葉を理解するのに、俺を含めた皆はそう時間を要しなかっただろう。それはつまり、このクラスに転校生がやって来るという事。

　クラスメート達が湧き立つ――そんな中、俺は窓際の席で頬杖を突き、特に興奮する事も無くボーっとしていた。

　ふーん転校生か、どんな子が来るんだろう？　と、その時。

「治、ねえ治ってば！」

　スーパーボールが弾むような、無邪気で清涼感に満ちた声と共に、背中に何かが触れる感触。振り返らずとも俺には分かった。後ろに座っているあいつが俺の背中をつついているのだと。

「転校生だって、どんな子だろう？　男の子かな？　女の子かな？」

　振り返る。声の主は椅子からランドセル越しに身を乗り出し、俺の顔をじっと見つめていた。

「俺に分かる訳無いだろ……」

　もっともらしく、かつ簡潔に返答した。

　するとそいつ、赤みが強い茶色のショートの髪と大粒のくりりとした瞳、そして水色のヘアピンが印象的な少女は、「ふーん」などと気の抜けたような声を発しつつ、腰を椅子へ戻す。

「でもさでもさ、転校生なんて初めてじゃない？　楽しみだよね」

　周りに、ハートマークや音符マークでも撒きそうな笑顔を、彼女――『暮橋奈々』は俺に向ける。

　どんな因果故か、こいつとは一年生の頃から同じクラスだ。奈々はとにかく、『天真爛漫』という言葉をそのまま形にしたような子で、いつも幸せそうにニコニコしてる。

「俺は初めてじゃないけどな、一年の頃にお前が転校して来たから」

「あ、そっか。あたしも転校生だったもんね。てへ、忘れてた」

　何故か舌を出して、奈々はまた笑った。

　もう何度、この笑顔を見て来たのだろうか。転校してきたばかりの頃とは本当に様変わりしたものだ。あの頃は僅かも笑う事なんて無く、いつでも独りで居たというのに。

「ほら皆静かに。これからその転校生の事で、とても大事な事を話すから」

　先生が手を叩くと、皆話すのをやめて注目する。俺も奈々から視線を外し、先生に向き直った。俺達を一瞥するように視線を動かすと、先生は真剣な面持ちで発する。

「明日、このクラスに仲間入りする子はな、実は病気なんだ」

　奈々を含めた数人が、「えっ……！？」と怪訝な声を発したのが耳に入る。教室中にどよめきが流れるが、それも数秒。先生がまた手を叩くと、やはり皆静まった。

「その子は本当なら、病気の子専用のクラスに入る予定だったんだが……親御さんの希望で、この六年三組に仲間入りする事になった」

　俺も含めて、皆先生の話に耳を傾けている。

「皆、よく覚えておいてくれ。病気だと言っても、あの子は皆と何も変わらないんだ。絶対に病気の事をからかったりしてはいけない。これから配る学級通信にも書いてあるから、必ず親に見せるように」

　先生は、俺達に学級通信を配った。その見出しには、『六年三組に新しい仲間がやってくる』と大きく書かれていて、小難しげな事が長々と書かれている。

　本当は病気の子が行くクラスに入る筈だったのに、この六年三組に来る事になった転校生。今の時点では、男子か女子かすらも分からないその子。どんな子なのだろう。仲良くなれるだろうか、友達になれるだろうか？　そんな事を考えつつ、俺はランドセルに学級通信を押し込む。

「さあ行こう治、今日は三時集合だよ！」

　帰りの会が終わり、俺は明日やってくる転校生に想いを馳せつつ、奈々と共に教室を後にした。

　　◇　◇　◇

「ほう、転校生か……」

　百点満点を取った漢字テストを見せると褒めてくれて、続いて学級通信を見せると、じいちゃんは顎の髭に触りながら言った。

　数秒、学級通信を見た後。じいちゃんは視線を俺に移す。

「……治、この転校生の子とも仲良く出来るな？」

　じいちゃんがどうしてそう訊くのかは、何となく想像がつく。

　病気の子だからと言っても虐めてはいけない、仲間外れにしてはいけない。他の誰とも変わりなく接してやれ、言葉に出さなくても分かる。じいちゃんはそう言っているんだ。

　じいちゃんに答えようとした時、

「お爺ちゃん、治にそんな事言う必要ありませんよ」

　熱いお茶の入った湯呑をじいちゃんの前に置きつつ、横からばあちゃんが言う。

　じいちゃんは「お、ありがとう」と返し、湯呑を両手で取った。

「奈々ちゃんの時も、リアム君の時も、光彦君の時だって……この子は味方してあげたじゃありませんか」

「よく覚えてるねばあちゃん、そんな古い事」

　俺が返すと、ばあちゃんは優しげに笑みを浮かべた。

「忘れるもんですか、お前の優しさの証を……」

　おっとりとしていて、年寄りのイメージに合致する……それでも穏やかさを内包していて、優しげなばあちゃんの喋り方。もう慣れていた筈なのに、そんな事を言われると何だか照れくさくなってくる。

　照れ隠しをするように、俺は手提げバッグを持って玄関へ向かう。

「じゃ、行ってくるから」

　靴を履きつつじいちゃんとばあちゃんを見て、俺は告げる。

　先に返ってきたのは、ばあちゃんの声だった。

「行ってらっしゃい治。車に気を付けてね」

「しっかり練習するんだぞ、バンドリーダー」

　じいちゃんが、親指を立てて俺に言う。俺は同じように、じいちゃんに向かってサムズアップしながら、

「ああ！」

　そう返し、俺は夏の日差しを受けながら駆け出した。いつものあの場所へと。

　◇　◇　◇

　夏の放課後ってのは、正しく遊びの宝庫そのもの。

　公園で友達と野球やドッジボールをするも良し。林に行ってきれいな蝶や、かっこいいクワガタやカブトムシを探すってのもあり。携帯ゲーム機を持ち寄って、皆とポケモンの対戦ってのもグーだ。

　けど、俺がそんな虹色の時間を最も多く費やして足を運んでいるのは、公園でも林でもないし、ポケモンもそんなにガチにはやらない。

　ここ、ミュージックハウス翼の音楽スタジオだ。この場所の独特のにおいは、初めて来た時から変わらない。外の場所から切り離された、足を踏み入れるだけで気持ちが湧き立つような、興奮するような感覚。とにかく居ても立っても居られなくなるんだ。

　そんな高揚感とも何とも分からない気持ちに包まれながら、俺はドラムベンチに腰掛け、愛用のスティックを両手にドラムセットに向かっている。

　左足でハイハットペダルを踏み、右手でハイハットシンバルやライドシンバルを、左手でスネアを、右足でバスドラムを鳴らす。時にハイタムやロータムでフィルインを奏で、二枚のクラッシュシンバルを打ち鳴らしてアクセントをつける。

　頬に汗を伝わらせながら、俺はドラムを叩いてリズムを打ち出す。数分という時間があっと言う間に過ぎ去って、演奏が終了する。すると拍手をしながら、その人は俺の所へ歩み寄ってきた。

「さすがだね治、日々上手くなってるよ」

　背が高くて眼鏡をかけて、茶色い髪にくるくるのパーマをかけた男の人。

「そうすかね？　ふー汗かいた……」

　手の甲で汗を拭いつつ俺は応じると、その人は「うんうん」と頷く。

　この人は『やっちさん』、本当の名前は『坂垣康則』さん。年齢は三十代中盤くらいで、結婚してて奥さんも娘さんも居る人だ。そして何より……やっちさんは今俺が居る場所、音楽教室兼ライヴハウス、『ミュージックハウス翼』のオーナー、つまり一番偉い人だ。

　やっちさんは、俺以外のバンドメンバーの方を向き、

「それにリアム君、光彦君、奈々ちゃん……皆すごいな、ぴったりと息が合ってる」

　そんなやっちさんの言葉を、そいつは素直に受け取らない。

「いや、まだまだ……もっと改善の余地はあります」

　エレキギターをスタンドへ置きつつ言ったのは、『阿嶋リアム』。俺と同学年つまり小六で、隣のクラスの生徒だ。

　リアムって名前が片仮名なのは、別にキラキラネームとかそういうんじゃない。リアムはハーフなんだ。母さんが日本人で、父さんが……どこだか忘れたけど、何とかって外国の出身。瞳の色が青くてちょっと独特な顔立ちをしてるのも、そのせいだ。

　俺はドラムベンチから腰を上げつつ、笑い交じりにリアムに言う。

「リアムお前、褒められてんだから素直に受け取りゃいーだろ」

　例によって、リアムは首を横に振った。

「現状で満足してたらダメだ、もっと上を目指さないと」

　リアムの事を出来るだけ短く言えば、生真面目で完璧主義な奴。普段は物静かでクールな奴なんだが、バンドの事になるととにかく細かい……というか、口うるさい。嫌いじゃなんだが、正直俺はこいつには苦手意識がある

　ちなみに担当パートはリズムギターとリードボーカル……そう、ギターを弾きながら歌うだなんて事をやってのける、中々凄い奴なのだ。もう少し融通が効けばいいんだけどな。

　ぴらぴらと手を振りながら言ったのは、バンドの紅一点とも言えるこいつだ。

「まーまー、楽しくできればそれでいいじゃない？」

　奈々だ。

　リアムと同じように、こいつもギターを首から提げている。といってもこいつの担当はリードギター、楽曲の主旋律を担当するパートだ。ちなみに部分的にではあれどピアノも担当し、その際はギターを提げたままピアノを弾くという形になる。

　Tシャツにジーンズという出で立ち、さらに短い髪形もあって、ギターを弾いてる時のこいつはまるで男の子みたいだ。

　続いてもう一人が口を開く。

「そうですよ、楽しくやりましょう」

　こいつは『守村光彦』。

　長さ一センチくらいの坊主頭に眼鏡、ロボットアニメで主人公のサポート役的な立ち位置に居そうな奴、という表現がしっくり来るだろうか。メンバーの中で唯一学年が同じではなく一個下、つまり小五だ。

　光彦の担当楽器はベース、ドラムの俺と同様に低音のリズムを刻むパートだ。

「さて、少しばかり休憩すっか」

　俺が提案すると、皆楽器を手放してスタジオ内の休憩スペースに設置されたベンチに腰掛ける。やっちさんが一度スタジオから出ていき、スーパーのレジ袋を片手に戻ってきた。

「差し入れだよ、皆で分けてね」

　袋の中身は、バニラ味のアイスバーが全部で四本。俺達は嬉々として、やっちさんにお礼を言いつつ一人一本ずつ受け取った。

　そしてやっちさんも含めて五人で、ベンチに座ったまま取り留めのない会話を交わす。話題は主に音楽に関する事、他には学校での事、あとは勉強の事……そして、奈々がその話題を持ち出した。

「そういえば治、明日あたし達のクラスに転校生が来るんだよね」

　全員、興味を引かれたような面持ちになった。

　リアムが問うてくる。

「そうなのか？　治」

　俺は頷いて、

「ああ、今日の帰りの会で先生から聞かされたよ」

　続いて光彦が、いつものお堅い敬語で尋ねてきた。

「どんな人なんですか？」

　俺はバニラのほのかな甘みを堪能しつつ、

「分からん。けど先生の話じゃその子は病気なんだとさ、本来は病気の子が行くクラスに入る予定だったんだけど、親の都合で俺らのクラスに来る事になったらしいぜ」

「病気って……」

　光彦がそう発したが、それ以上言葉を重ねる事はなかった。

　やっちさんが言う。

「まあ何にせよ、治も奈々ちゃんも仲良くしてあげなよ。ああそうだ治、何だったらその転校生の子、バンドへ誘ってあげたらどうかな？」

　思いもしない提案に、俺は思わず吹き出して笑った。

「気が早いっすよやっちさん、まだ会ってもいないんですから」

　スタジオが俺達の笑い声で包まれる。そんな中、俺はふと天窓の向こうの青空を見つめた。

　明日会う事になる新しいクラスメイトに、俺は思いを馳せる。