(4) 元トップジョッキー岡平悠一の目

 

 2周目に入る。馬主席にいる岡平師は、タイムシーフの管理調教師としての目でレースを見つめていた。せっかくライバルたちが、「タイムシーフ挑戦者決定戦」とも言うべき前哨戦を繰り広げてくれているのだ。そしてまた、それを俯瞰できる立場にいるのだ。これを参考にさせていただかない手はないというものだ。

 

 おそらく弥生も一生懸命見つめているだろうが、と岡平師は思う。彼女には実績がない。一流ジョッキーたちの心理が分からないのだ。しかし岡平師は、レース中に彼らが思うことが分かる。リーディング・ジョッキーの取得回数、通算勝ち星、最高連対率、GⅠレース勝利数、重賞勝利数は、南條慶に抜かされるまですべて岡平師が持っていたのだ。それほどの実績を残した名ジョッキーだったのだ。だから、一流たち独特の、現場での思考が読めるのだ。

 

 ここはじっくりレースを観て、有馬記念に活かさなければならない。岡平師は今回の有馬記念だけは、自らの禁を破り、師匠として弥生にアドバイスを送ろうと思っていた。

 

 フレアはじっとシクタンの1馬身うしろで、スタンド前を通過していく。岡平師は全体が分かるよう、双眼鏡をはずして眼下を見た。

 

 フレアの南條としては、早く動きたいところだろう。南條はフレアがどれほどの能力を持っているのか、そしてどういった乗り方をすればそれが最も引き出せるのか、たった2戦の騎乗でほぼ掴んでいるにちがいない。初めから先頭にたたなくても、途中からハナにたつのがいい。そしてちょっとペースを上げれば、つぶれるのを怖れて他の8頭が追わずに控えてしまうかもしれない。そうなれば得意の離し逃げに持ち込める。ハイペースでない離し逃げができれば、あの馬の能力であればだれも追いつけない。相手と見ているどん尻強襲のシルバーソードが、こりゃどう考えたって追いつけないよというくらいの差を、直線までにつけてしまうことだろう。

 

 しかしフレアはまだ抑えている。スタンド前で動けば、大歓声でかかってしまい、大暴走になってしまう怖れがある。おそらくは1コーナーに入ってから動き出すのだろう。コーナーで動けば外を回らなければならず、距離のロスを強いられる。しかしそんな程度のロスなど、フレアには関係ないと見ているはずだ。少なくとも自分なら関係ないと見る。岡平師はそう思った。

 

 一馬の8番手はマルクを見ているからだと、これは手に取るように分かった。岡平師と一馬はしょっちゅう話をする間がらだ。日ごろからマルクに注目していることも、いや、もっと言えば、執拗に追っている、ということを聞かされているのだ。一馬の今の気持ちは、このレースに勝つ負けることよりも、このレースでマルクからなにか一つ掴むという方を優先させているのだろう。その掴もうとするものが、マルクの追い出しのタイミングなのだ。じっとお尻に神経を張り詰め、乗っているにちがいない。

 

 分からないのは、アルフォンソだった。もし自分なら、と岡平師は考える。フレアの半馬身うしろにぴったり付き、少しでも消耗させるようにするだろう、と……。

 

 岡平師がトップの者の思考を分かるといっても、それは一般的に、ということだ。もっともトップの者の一般的というのもヘンな言い方だが。しかし、各ジョッキーの個人的な感情までは分からない。たしかに、一馬の個人的な考えは、意思の疎通が取れているから分かる。だが、日ごろ付き合いのないアルフォンソの気持ちまでは分からなかった。

 

 アルフォンソは、このレース、フレアになんか負けてもいいと思っていた。フレアは自分の気持ちから切り離していたのだ。しかし、なにがなんでもシルバーソードには先着したい思いがあった。敵をシルバーソードに限定して臨んでいるのだった。

 

 アルフォンソとマルクとの確執など知らない岡平師は、アルフォンソのそんな気持ちなど分からない。だからなぜフレアに楽をさせているのかと首を捻るばかりだった。

 

 アルフォンソとしては、このレースで8着にやぶれたとしても9着シルバーソードだったら満足だった。逆に、1着だったとしてもシルバーソードが1着同着だったら許せなかった。そんな偏った思いを持つアルフォンソなので、フレアなど眼中になかった。行くなら行け、という程度の思いだった。当然行ったところで追うつもりはない。

 

 レースは第1コーナーに入り、フレアが楽な手応えでがシクタンに並びかけた。

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