(2) GⅠを渇望する一馬

 

 アルゼンチン共和国杯の翌日、弥生はトレセン内で一馬と会った。

 

 偶然ではない。一馬から、会おうと連絡があったのだ。

 

「よっ」

 

 いつもの軽い感じのあいさつだが、なんとなく違った印象を受ける。

 

「なんか、顔つきが変わったね」

 

 弥生は頭に浮かんだ言葉を、なんのフィルターもかけずに言った。

 

「えっ、そうかな?」

 

「うん。引き締まった感じ」

 

 弥生にはそう見えた。元々体重管理に厳しいジョッキーなので、痩せて引き締まってはいた。でも、今年勝ちまくってトップジョッキーの一角と位置付けられているだけあって、目に映らないなにかを纏っていた。

 

「そうかなぁ」

 

 しかし一馬は、自分では分からなかった。

 

「きっとたくさん勝っていて、貫禄がついたんじゃないかな」

 

「貫禄?」

 

「あ、痩せてる一馬には、似合わない言葉だよね。えっと、そう、風格だっ! 風格」

 

「うーん、自分では分からないな」

 

 一馬は首を傾げた。

 

「それにしても、すごい勝ち星の量産だよね。5月から復帰して、それでリーディングトップ10に入ってるんだから」

 

 この年、他のジョッキーより4ヶ月の差があるというのに、一馬は10月からリーディングのトップ10に入り込んでいる。間もなく100勝に到達する勢いだ。ウイークデーに地方にも積極的に乗りに行っているので、通算して120勝を超えていた。

 

「もし一馬がさ、怪我なくて1月から出ていたら、リーディング狙えたよね。今年のこの勢いは」

 

 弥生は続けた。勝率、連対率はマルク、イアンに続いて3位なのだ。

 

「どうかな。マルクは今年も200勝超えのペースだからな。マルクを上回るまでいくかな。あと、やっぱり今年はGⅠレースを勝ってないからな。自分にとっては不満だらけの成績だよ」

 

 ジョッキーが怪我で戦線離脱することで、これがとても響く。後遺症でも残らない限り、騎乗技術はすぐに復活できるのだ。元々感覚と素質を備えているのだから。しかし手放したお手馬は、ジョッキーが現場に復帰したからといって帰ってこない。また、イチから構築しなければならないのだ。

 

 ましてや一馬の場合はまだ若手で、馬主との太いパイプが築けていなかった。昨年高松宮記念をプレゼントしてくれた快速馬も、今やイアンのお手馬で先々月のスプリンターズ・ステークスを快勝していた。

 

「でも、GⅡやGⅢはけっこう勝ってるじゃない」

 

 弥生は励ます。いや、励ますというより、うらやましさもこもっている。勝ち星が少なくて大レースで目立っている弥生は、世間から、たまたまいい馬に当たったという評価を受けているのだ。一馬の高い連対率が、心からうらやましかった。

 

「まぁけっこう勝ってるよな。でも重賞の勝ち星は多くても、ローカルが多いからな」

 

「ローカルでも勝てばいいじゃない!」

 

 今年北海道で辛酸をなめた記憶が、弥生の頭に浮かび上がる。

 

「ローカルで重賞勝っても、GⅠにはつながらないからな、なかなか」

 

 ローカルでの重賞ウイナーは、GⅠレースではほとんど好走しない。

 

「でも、シトリンフレームは京都大賞典勝ったじゃない!?」

 

「たしかにな。でも、さらにGⅠを勝つって器じゃないな。調子が戻ったら中日新聞杯使うみたいだよ。有馬じゃなくてさ」

 

 そこで一馬はクスクスと笑った。

 

「杭山さんらしいね」

 

「うん。あの人ローカル好きだから」

 

 今度は2人で笑った。

 

「もうな、10ヶ月休んでる間に、お手馬は全部なくなっちゃったよ。トレミーのチャンスも活かせなかったし」

 

 弥生は笑顔が吹き飛んでしまった。毎日王冠で惨敗したトレミーはアルフォンソの手綱で秋の天皇賞で2着と復活していた。次は同じくアルフォンソの騎乗でジャパンカップに向かうということだ。

 

「トレミーのこともあるから、ジャパンカップにはなんとしても有力馬で出たかったんだ。キヨマサ、次走ジャパンカップだぜ。馬主と先生が決めたからな」

 

「ホントに!」

 

 よかったね、と続けようとした弥生はすんでのところで言葉を呑み込んだ。タイムシーフが出ればライバルとなるのだ。

 

「ボルタは中日新聞杯だって。シトリンフレームと当たるかもね」

 

 弥生は別の話題に切り替えた。

 

「ローカルなら負けねぇよ」

 

「ローカル開催を見下してたくせに!」

 

「いやいや、見下してはいないよ。でもまずなにより、今はジャパンカップだな。とにかく、とにかく、とにかく、GⅠレースを勝ちたいんだ!! 弥生がホントにうらやましい」

 

「そんなぁ」

 

「今週もGⅠだろ。エリザベスで、ほら秋華賞逃げ切ったあのエクレア」

 

「シトリンエクレールだよ! GⅠ馬くらい名前覚えてよ」

 

「おれ覚えらんないんだよ。自分の馬だって覚えらんないんだから。なんだっけな、乗る馬?」

 

 一馬はヴィクトリアマイルで16番人気で2着に突っ込んできたコネココマチに乗る。

 

「ともに、ベストを尽くそうねっ!」

 

「あぁ、今週のネコはともかく、ジャパンカップのキヨマサならトレミーどころかタイムシーフやフレアも負かせるぜ。ダービーと同じ東京2400メートルを沸かしてやるっ!!」

 

「沸かし方、教えてあげようか~」

 

「うわぁ、腹立つぅ!」

 

「えへへっ」

 

 さらに30分ほど雑談をして、2人はそれぞれの厩舎に戻っていった。

 

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