第500衝 君帰の鑑連
「今、義統は二十六か」
「義鎮は五十五、六、七だったかな」
「ワシは百を超えるまで何の問題も無く長生きすると思っていたが、この有様である。貴様らも健康には留意するように」
病の床から起き上がれなくなった鑑連、傍に限られた幹部連のみを置き、語り続ける。声の調子はハッキリしており、死に瀕している人のものとは思われない。
だが、鑑連が死を迎えようとしていることは、誰の目から見ても明らかであった。衰えを加速させていたその身体からは、正気は失われていた。
「後藤家信も動かない。その兄弟も動かない。龍造寺上総介は南に行っただけ。つまらんヤツらだった」
「興醒めもいいところだ」
「ワシを最も理解していたのが秋月のガキとは、本当に嗤えるよ」
合いの手を入れる類の話でもなく、応じる者はいない。
「ワシは強くなりすぎてしまった!無敵の苦しみというものを思い知ったぞ!だから敵無くして死ぬのだ」
「敵ばかりではない。豊後の同胞どもすら、無敵なワシを避けた」
「ワシに徳がないからとでも言うのかね?と言って向こう側の連中が徳を持っているわけでも無いのだ!」
しかし全員、その言葉に意識を向けている。名将鑑連の最期なのだ。何かありがたい至言を聞くことができるのではないか、という思いによる。
「……そんな中、ワシを容れた連中には名誉を得る幸運が訪れるだろうよ。断言しても良い」
その時が来たようだ。備中には、吉弘一族の顔が浮かんだが、他の者はどうだろうか?などと考えていると、鑑連の辻説法が自嘲に変わった。
「真の敵は佐嘉勢などではなく薩摩勢。このことをずっと言い続けてきたのに、最後の敵が薩摩の野蛮人どもでないとは!皮肉を通り越している。クックックッ」
「薩摩勢も当主の統率が効いていて面白くない。結局、島津兵庫頭も突出しなかった、これからはワカらんが。あの野蛮人どもを迎撃して、罠にハメられる者はいるだろうか?」
「なんにせよ、軍勢を持つ者どもがこうも消極的では、関白勢到来が全てを押し流すに決まっている。あの安芸勢すらが従っている。四国も平定したと、誰かから聞いたな。備中だったか?」
話す内容は取り止めもなく、人生の走馬灯を眺めているのかもしれない。
比較的に穏やかな辻説法が繰り返される中、病室に小野甥が入って来た。すると、鑑連はその気配を的確に感じ取り、横たわったまま首を動かすことなく話しかけた。
「小野。貴様の残酷で無情な提案も、無駄に終わるようだな」
小野甥曰く、
「左様ですな。しかし私は、殿が戦場で敗れるとは一切考えておりませんでした。それと同じように、まさか、殿が病にお倒れになるとも考えてはおりませんでした」
「病ではない。寿命だ。ワシの魂の強さに、肉体が耐えられなかっただけだ。病気で死ぬワシか」
皮肉な笑みを浮かべる鑑連
「貴様の提案が間違っていたわけではない。つまり、その提案を容れたワシも同様なのだ。忘れるなよ」
「はい」
「で、状況は」
「秋月勢は由布様が迎撃中です。帰還した軍勢の再編成を、内田殿と薦野殿が行っておりますが、それ以外、筑後は水を打ったように静かです」
「ワシの死を待っているのだろ」
「秋月種実以外は、まず間違いなく」
「秋月のガキだって、ワシが死ねば嬉しいに決まってるさ、クックックッ。死を待ち望まれるのも悪くない」
心底そう思ってか、鑑連はしばらく嗤い続けた。そして唐突に、
「鎮理はいるか」
「はい」
鎮理は鑑連の一番近くで、手拭いを差している。鑑連から正常な視力は失われつつあった。
「家督の後継者として、ワシの後は豊後の甥だが、ワシ個人の後継者は貴様の倅だ。知っているか?」
「はい」
「良い倅に恵まれた貴様は、本当に幸福者だな」
「私個人の息子について言えば、才はあっても欲は無く、戸次様のようにギラギラしていない。今を緩やかに受け入れていますので、先々が心配です」
「クックックッ。貴様も似たようなものではないか。鎮信はもっとギラついていた」
愉快そうに笑った鑑連だが、
「統虎は大丈夫だ。心配ない」
「ありがとうございます」
「備中」
声を掛けられて驚いた備中、言葉無く近くに膝を滑らせると、鑑連はこの気配に対して苦笑しつつ、
「ワシの千鳥は貴様から統虎に渡せ。小筒も忘れずにな」
大役である。
「はい……」
「その他の身の回りの物をどうするかは貴様が適切に判断しろ」
「は、はい」
これは鑑連から備中への別れの言葉であろう。感謝の念も、忠節への報酬も込められていた。それを完全に理解できた備中であった。
背後で小野甥が何事か報告を受けている。何か使者が来たらしい。
「どうした」
「義統公から、殿宛に書状です」
「またか」
「殿の快癒を必死に願っておいでです」
「そうか」
珍しく、素直かつ嬉し気に笑った鑑連。
「豊後勢追加の筑後出兵は消える。だが、関白の九州入りは止まらない。織田右府の後継者として僅かな疑いも残したくはないだろうからな」
「筑後に兵を出さなかったことは力を温存したとも言える。代償として、豊後は侵略者どもに焼かれるだろう。豊後こそが戦場になる時が来た。努力次第では焼け落ちた後の故郷は残るだろう」
「それも長くは保てんかもしれんがな」
そこには、諦念が流れていた。鑑連らしくない振る舞いが続く。
「そうか。今、義統は二十六か」
そしてなんと、鑑連がため息をついた。
「ヤツの将来の為に出来る限りのことをしてやりたかったが、気の毒なことだ。ところで備中」
「はい!」
この流れでか、とさすがに驚き正座したまま小さく跳ね上がった備中。鑑連は笑いながら曰く、
「坊主どもは、人は死に臨む時こそ真実を語ると言うが、知っているか?」
「は、はい。ぞ、存じております」
「今のワシを見て、その通りだと思うか?」
「はい。い、いや、一部は、い、いいえ」
「クックックッ、この野郎」
鑑連はさらに大きく笑い、
「龍樹の教えだったかな、全ては空。そう人に説きながら、しかし自分は死に際まで快楽を堪能する破戒僧もワシは知っている。詐欺師の所業だが、今はそれが悪いとは思わん。無論、そんなヤツらが説く魂の平安などワシは絶対に信じないがね」
今度は嗤い出す。
「ところで、吉利支丹宗は人の臨終をどのように扱うのかな」
「さ、さてそれは……」
「知っている者は」
吉利支丹門徒の居ない戸次武士の中には、当然誰もいない。
「く、朽網様に聞いて参ります」
「早くな」
備中が部屋を出ると、そこには朽網殿が立っていた。さほど驚かなかった備中、たぶん話を聞いていただろう朽網殿を、無言で部屋の中に誘った。
「おや」
鎮理の後へ静かに腰を下ろした朽網殿は、鑑連へ話をする。
「吉利支丹になる際に、聖体拝領という儀式をパードレが施してくれる。死後に復活した救世主イエースス・キリストスの血と肉体に見立てたものを食するのだ。それを得る事で、死後の復活が約束される」
「いつ復活する?」
「この世の終わりに、神の審判が行われるとき」
「末法のようなものか。で、それはいつだ」
「末法とは全然違って……まあ、ワカらないが、そう遠くない未来」
「で、その救世主はいつ復活した?」
「三日後らしい」
「で、何処にいるのだ」
「神の座する所だ」
「ふーん、で、審判の後は?」
「肉体が復活して魂と結び合わされた後、善人とされたなら天国へ昇っていける。そこでは永遠の幸福が待っている」
「悪人とされたら?」
「……そうならないよう、吉利支丹は善行に励むのだ」
「クックックッ、地獄に落ちるのだな。永遠の地獄が待っていると。まあワシには関係ない話だ」
それ以上、説明することがなくなった朽網殿に、鑑連は曰く、
「だが、復活が保証されるというのは、確かに耳に心地よいな」
「鑑連殿」
「もしワシが三日後に蘇ることができたなら、地獄に落ちるより速く、佐嘉勢どころか薩摩勢も、あるいは関白勢すらも撃退できるだろうに」
「鑑連殿、急ぎパードレを呼ぼうか」
「ほう、打算無しでか」
「無頼者のそなただ。何者も信じてはおるまいが、何か一つ、信じるものが得られれば、この先の不安も薄れることもあるだろう」
「だが、ワシが吉利支丹になったとして駆け込み組ではないか。吉利支丹の神から祝福されるとは思えんがな」
「そんなことはない。パードレ達は死に瀕して救いを求めた者達幾人にも功徳を施してきた。中には坊主すらいたのだ」
「そうか」
ややあって、
「せっかくの申し出だが遠慮しよう。何故かと言えば、信じるものくらい、ワシにだってあるからさ」
「それは?」
「それはだな、クックックッ!」
鑑連は嗤い続けた。その声は往時の如く張りに満ち満ちており、誰もが今際の際とは信じられない思いになる。
答えが無いまま、その嗤い声もしばらくして止んだ。戸次鑑連、数え七十三歳の最期であった。
この筑後奪回作戦は全てが上手く行かなかったばかりか、鑑連の命までも奪うこととなった。戸次武士にとっては無念の他には何も残らない。夏の終わりには希望に満ちていたが、秋には一転。明るい未来は見通せず、士気も下がる一方である。
これは他の諸将も同様だ。失意に沈む戸次武士らに、朽網殿は通告する。
「我々は豊後へ帰還する。戸次殿が世を去った以上、この作戦は中止となったと見做さねばならない」
「そうせよと、義統公は仰られてはいないはずだ」
怒気を含んだ内田の反論を、老将は冷笑する。
「我らの軍事力は失われた。これから豊後を守るため、我々は関白を頼りにせねばならないだろう。その手段は、フランシスコ様のみがお持ちである」
それでも内田は食い下がる。
「義統公の援軍の行方について、橋爪様からまだ正式な回答が無い」
「応えが無いのが応えであろう」
やり切れない感情が、堪え切れない内田を狂わせる。
「貴方も、親家公同様、身勝手にも豊後を見捨てるのか」
「これから関白勢が来る!豊後は守りきって見せる!」
「関白の幕下で、独立は失われよう!」
「控えろ下郎め!」
「おいおいおいおい備中聞いたか!勝てぬ将が何か言っているぞ!」
「もうおよしなさい!」
薦野が怒鳴り合う二人の間に割って入る。その後では、顔面蒼白の座主が頭を抱えていた。
「佐嘉勢が戻ってくる!薩摩勢もやってくる!もう、おしまいだ!何もかもおしまいだ!」
絶望の嘆きが高良山に響き渡る中、言葉無く備中に近づいた小野甥。その顔は憔悴してはいたが、眼光は鋭く、まさに正気そのもの。鑑連に似た顔つきをしていた。この全ての様を、備中は目に焼き付けていた。自分は鑑連の遺した者のためにも、決して自失しない、と。
鑑連の遺臣達に、もはや、筑後で為しえることは何も残っていなかった。戸次勢の筑前帰還が始まった。行きと異なるのは、総大将を勤めた男が亡骸となっていることである。
由布によりまとめられた戸次隊は、混沌に沈む高良山を最後に出発、筑前への帰還を開始した。
葬送部隊は、筑後川を越え、宝満川を越える。すると、西には筑紫勢の旗が、東には秋月勢の旗が翻っていた。
乱世にあって、その勁さから目下九州で最も偉大になった男の死を、彼らはみな知っていたのだ。その内の幾人かは、悼む心も持っていた。
鑑連の敵たちは、葬列を見守り続けた。誰一人、攻撃を行わない。天正六年以前も以降も、戦えば必ず負ける最強の将の死とその帰還に敬意を払っていた。もう、かの男と戦わなくても良い、という安堵を伴って。
復讐心は無かった。戸次鑑連の死が時代を動かす大きな衝撃となることを、誰もが予感していたから、報復すら忘れ去られた。
戸次隊は筑前に入った。葬列が見えなくなるまで、秋空の下、彼らは立ち会い続けていた。
(了)
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