第八話 味方


「どうしよう……」

「むにゃむにゃ」


 私は階段の中程で心を抱きしめ、そのまま停まっていた。どうしようもないと、固まって。無垢にも柔らかく眠っている心の姿ばかりが救いだ。

 そう、私は好きな襲田さんに、攻撃を加えるどころか文句を言うことすら出来なかった。大好きな心が害されようとしたのに。それなのに、満足そうに消えていった、暗がりの彼女に、私は怯えてしまったのだ。


 私は、弱い。幾ら力を持っていようとも、心が弱すぎた。だから、私はまた、強いものを持った人に怯えてしまう。


 そう、ふつふつと沸き起こるものを溢れさせ、彼の面を鬼のように変えてしまっているそれは、強い怒気。何時、聞いたのだろう。そして、間に合わなかったことに、どれだけ腹を立てているのだろうか。

 何時しか、沢井永大君が、上階から私を見下ろしていた。しかしその目は、心しか映していない。がに股で降り、のぞき込んで心の無事を確認した彼は、一瞥もせずに言った。


「どうしたもこうしたも、ないだろ」

「沢井、君……」

「あの餓鬼、ぶちのめす」


 それは、本気。握った拳は、容易く解かれることはないだろう。彼は、心狂いの獣。きっと、あんなに小さな女の子では、抗うことは出来ない。


「止めて!」


 暴力なんて、振るう方、振るわれる方、両方にとって良いものではない。私は糾弾される沢井君に、ぼろぼろになった襲田さんを想像して叫び声を上げた。

 そんな私を、沢井君は白々しいものと見る。棘のような視線が、私に突き刺さった。


「心が突き落とされたのは、お前のせいだろう。俺が原因の言葉を聞いてやる理由もないな」

「でも……あの子、きっと、追い詰められてて……そう。ただ私のせい、なんだ」


 想う。言っていることがおかしかった。おかしかったということは、歪んだせい。どれだけのストレスが愛らしい彼女の内を醜くしたのか。きっと、そこに傷を作って黒く染まった思いを溢れさせてしまったのが、私なのだろう。

 だから、私がどうにかしなければいけない。けれど、恐怖で咄嗟に正せなかった私が一人で、何が出来るのか。

 震える私に溜息を吐いてから、沢井君は告げる。


「はぁ。なら、解決するまで原因のお前は当分心に近づくな。そのくらい出来るだろう?」

「それ、は……」


 きっと、そのくらいはやらなくてはいけない。けれども、どうしてか私は中々うんとはいえなかった。情は時に絡んでどうにもままならない。それが、依存に近いものであっては尚更に。

 今更心と離れることなんて、嫌だった。でも、そんな私を知って、沢井君は言う。


「はっ。元々、大須さんはおかしな心を自分の異常隠しにするために近寄った、それだけだった筈だろ?」


 それをどうして知っているのか。愕然とする私の前で、沢井君はそっと、心の首と膝裏に手を入れ、お姫様抱っこの形で持ち上げた。


「それじゃあ、俺は心を保健室へ連れてくよ」

「むにゃ、うーん。永大ちゃん?」

「はいはい。俺だよ」


 寝言を呟く心は沢井君の手により除かれていく。それでも私はやっぱり、動けなかった。




「それで、私はどうするべきか、か」

「うん……」


 私は大切な家族の前で頷く。相談内容に、父の精悍さと母の美しさのいいとこ取りをした容姿の美丈夫が眉を寄せた。そう、彼は私のお兄さん。大須龍夫という名の人間の角である。

 お兄さんは人として限界の能力を保持しているのだけれども、それとは別に、ただ単に優れた人間でもあった。故に、相談相手には最適であるだろうと、その帰宅を待ったのである。


 夜遅く、帰ってきたお兄さんは、しかし疲れも見せずに私の相談に応じてくれた。耳たぶのピアスを弄り、少しばかり思案してからお兄さんは言う。


「いや、聞いたけれどさ。別段どうしようもない、訳ではないぞ?」

「そう?」


 学校では沢井君の威嚇に遭い、家では単に留守番続きで、私はつい先ほどまで久方ぶりに、独りを味わっていたばかり。故に、その苦みを取ることが出来るであろう、お兄さんが示す方策は気になった。

 僅か、身を乗り出してしまうくらいには。


「ああ。要は、滴。お前はその二人共が好きで、片方が片方に悪いことをしたけれど、後で二人共と仲を取り戻したい訳だよな」

「……うん」

「なら、やることは一つだな。確か、襲田とかいったよな。その子は悪いことをしたのだから滴が嵐山の娘に謝らさせろ。きっとそれが一番の禊で近道だ」


 襲田さんに、反省してもらい、謝罪をさせる。それは、悪行を水に流すための最低限の世の習わし。私も最初、そうしてもらうことを考えた。


「それは……」

「怖いか」


 でも、私は震えてしまう。これまでずっと、罪悪感からなるべく人を避けてきて、それで耐性なんてものは育ててこなかった。だから、自分に向けられたものではなかろうと、襲田さんの強い悪意に怯えてしまったのである。

 そんな弱くて情けない様を見て、お兄さんは言った。


「……オレもさ。あんまり滴のことを見てやれなかったのを、正直申し訳ないと思ってるんだよ。一緒に色んなところに行って、色んな人と出会うようにしてやった方がよかったな」

「それは……お兄さん、大変だったから……」

「まあ、世界に注目されるっていうのは生半可ではなかったし、迷惑をかけないように家族から離れるのも、悪手とは言い切れなかったところはあっただろう」


 お兄さんは、天才。私達の様に鬼才ではない。故に、一度は世界に認められた。全てが度を越して優れた人間である、と。

 だが、幼い頃から過去の記録の歴史を打ち破り続けたお兄さんは、成長して極まり、そうして疑われるようになった。曰く、あれは人ではないと。見下げ果てたことに、無遠慮に持ち上げた全ては、お兄さんを見捨てたのだった。


 しかし、人でなしの私が断じよう。お兄さんは、人間でしかなかった、と。


 ずっとお兄さんは、全てを恨みながらも、認めて守らんと働いている。そして、私のために、額に皺作り、深い悔悛を表情に出すことすら厭わない。この人はそんなにも、優しいのだから。

 お兄さんは、語り続ける。


「でも、家族なのだから、もう少し構ってやっても良かった筈だ。せめて、安心できるくらいに愛を教えてあげとけばなあ」

「愛……」

「いや、それでも、難しいか。自分だけ、ずっと空に、変なのが見えるんじゃあなあ。同じでない他人を信じ切れないのは、自然。よく、滴は気を狂わせずに頑張っていると思うよ」


 私は、お兄さんの言葉に、何も返すことが出来ない。だって、それはあまりに図星だったのだから。

 私はきっと、誰も信じ切れなくて、寂しい。優しさや、劣るものから得られる安心ばかりが、求めるものだった。


「感覚器異常。辛いよな。まあ大須家ではありがちな障害ではあるが……しかし、健全でしかないオレは、それを羨ましく思ったこともある」

「そんな……こんなの、嫌なだけだよ?」

「分かっているけれど、分かってやれないのが辛かったんだ」


 優れて、天上に近い所にいる、ハズレの大須であるお兄さんは、泣きそうな顔をしながら言う。

 共感こそ、その人に寄り添うことであるのならば、私は決してされない。けれども、こうも思って貰って、揺らがないことなどあるものか。私は、目尻が湿潤するのを覚える。


 そして、微笑みながら発された次の言葉に、私はそれを零したのだった。


「安心しろ。オレはずっと、滴の味方だ」

「……ありがとう、お兄さん!」


 私は、涙を流しながら、抱きしめる。強く強く、自分の限界まで。魔に触れて感覚器ごとスケールを引き伸ばされた私の抱擁は、万力よりも恐ろしい。


 けれども、そんな私の信じられない力を、お兄さんばかりは、受け止めてくれた。




 後は、私達の作戦会議。気を良くして少し大きくさせた私は、お兄さんと襲田さんに語るべき言葉を模索し始めた。少年のように奔放に、にやりとした笑顔で彼は話す。


「で、どうガツンと言ってやるか、一緒に台詞を考えてみるか。何だか、楽しくなってきたな」

「お兄さん……遊びじゃないんだから」

「分かってる分かってる」


 そう、私は本気。どうしようもなく何時も真剣であるが、今回ばかりは成功させたいからこそ本当に頑張るつもりだった。

 好きが、好きあってくれたら、とても嬉しい。仲違いなんて、やはりつまらないのだ。それを、大好きなお兄さんのお蔭で私は心から理解できた。


 そのまま、ああだこうだ。適当なものを思いつかずに、雑談を交えて夜更かししていると、また、あの音が私の耳に這入った。


「あ」


 それは、絶望のための福音。頂きますの、音色。私にだけ聞こえる、どちゃりというような異音が、大きく辺りに轟いた。


「堕ちた……」

「ふうん……アレの一つが、落ちてきたのか。……滴、どうする?」

「行かないと……でも、心が居ない。私独りじゃ……」


 私は、焦る。果たして、心を呼んで良いものなのか。何も解決せずに、負担を強いた相手を頼るなんて、間違ってはいないか。しかし、不正解程度で人命救助を怠っても良いものか。

 答えが見つからず、ただ目を走らせる私に向かって、お兄さんは平然と言う。


「悩むか」

「……悩んでいる暇、本当はないのに……」


 そう、刻一刻、どころか一瞬で人の命なんて亡くなるもの。助ける時間なんて、きっと僅か。急いだところでどうしようもなかったことだって、経験しているのに。それでも、二の足を踏む、そんな自分が憎い。


「知っているからとはいえ、野生の怪物の食事に関する責任はない。そもそも、今までずっと見逃してきたんだろう? 今更、一人くらい守れなかったところで、心を痛めることはないだろ?」


 お兄さんは、きっと全てを見据えて言っているのだろう。私の過去と今。大体を上から眺めて、見捨てたところで問題ないと、口にした。

 けれども、それでも。そんな彼の中の仮想ではない私は。どうしようもなく、戦いたいのだった。叫びが、喉から転び出る。


「でも、私は、助ける喜びを知ったの! 魔物に対する嫌悪も、もっと深く知った! だから私はもう、自分を裏切れない!」


 私は、魔物が心から嫌いで、思いの外、人間が好きだったようだ。苦労した後、人々の幸せを眺めた時に、私は良かったと思った。それが、忘れられない。忘れてはいけない。


 それが隣人に対する愛だというのであれば、きっとそうなのだろう。


「よし、じゃあ、行くか。幾ら優れていようとも、人の耳に音が届く距離だ。バイクなら直ぐだろ」


 そして、全てを識っていたかのように、言を聞いたお兄さんは、ひらりとその身を翻し、玄関へと迷いなく向かっていく。不明と戦う。その怖さを、きっと判らない筈がないのに。それでも、真っ直ぐに彼は歩んでいる。

 それが不思議で、私はその名を呼ぶ。


「龍夫、お兄さん?」

「なあに。妹のためなら、魔法青年くらい、やってやるさ」


 ひらひらの衣装だけはごめんだがな、と振り返ったお兄さんはニヒルに笑んで言った。


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