第一話 子犬
人はアレを除いて、生きている。私は、アレを覗いて生きている。それが、大きな違い。
青を隅っこに追いやって不確定未確認に蠢く空を見たくはなくて、私はなるだけ下を向いて歩く。人との距離は充分で、ゴミは端に退かれているがために、硬いばかりの歩道に注目点は何処にもない。だから、ただ歩くだけに不安はなくて、視界の端にローファーやシューズがちらほら映ってこようとも、靴の持ち主達に近寄ることもなく、ただ孤独な歩みを続ける。
私が黙って先に進むために踏みつけ続けているここ、
「
ただ、私は彼女のことを心配する。あの癖っ毛を定刻通りに見ることが出来るかどうか、その確率はきっと半々程度。漫ろで、惑いっぱなしな彼女は、何かに囚われると目的なんてそっちのけ。よく猫に連れられて迷う心を見つけるのは、私の仕事だった。
「動物じゃなくても、何かあったら直ぐそっちに気が向いちゃって、元に戻れなくなっちゃうし……あんなに、助けが必要な子って、珍しいよね」
「羨ましい、とはもう思わないけれど」
保護によって生存している可愛い可愛い、無垢な子供。そうなりたいと、思わなくなったのは、何時の日のことだろう。何となく、お兄さんの顔が頭に過ぎった。
「ま、今日も友達を、やりましょうか」
ちょっと前まで色々と思惑が合った関係でも、それは終わっていて。今はただ、彼女のことが好きなのだ。ならば、仲良くするのが当たり前。ただ、それがこれまで中々出来なかった。
つい、天を仰ぐ。捻れて癒着し、崩れた体を重ねる連なり。あんな風にはなりたくなかったから。
「人とアレは違う……よくよく判っていたつもりだったのにね」
下を向きスマホを立ち上げ、到着時刻に狂いがないことを確かめながら、私は少し、足を早めた。この人の海の中、孤独でなくなるために。
商店街の手前。人が交差する、目的地たる映画館との中間地点。そこに辿り着いたことに気付いた私は伏せていた顔を上げる。すると、そこには期待していた彼女の姿が見つかった。
「おはよう、すてっきー。あはは。今日も綺麗だねー」
「おはよう、心。もう来てたんだ」
「えっへん。そう何度も遅刻するこころちゃんじゃあ、ないのです!」
目の前で両手に作られたピースが左右に揺れる。そして、なんのてらいな無さそうな、満面の笑顔が、眩しい。
何処かで誰から学んだのか、典型的なアホの子路線を進んでいる、こんな少女こそ私の友達。誰も使わない、
「……
「ぎくっ」
「心ってホント、オノマトペ好きだよねえ。それって、言葉にするものじゃないよ?」
「小野さん?」
「話題にしているのはどっちかというと、小野さんよりも沢井君の方ね」
最愛の友で、私は遊ぶ。心に言葉を差し出す度に、クエッションマークが空に飛んだ。無闇に周囲を明るくしようと浅学をひけらかすような私と心は好対照。分からない、それでも彼女は平気で笑っている。
「すてっきーにはバレバレだー。そう、こころちゃんは、今日も
「彼ったら、甲斐甲斐しいことこの上ない人だよね。私なら、こんなに面倒な幼馴染が居たら、とうの昔に括っちゃっているかも」
「くび?」
「心、首に巻いたチョーカー今日も似合ってるね」
「うんっ。何しろ、すてっきーがくれた誕生日プレゼントだから、似合わない筈ないもの。何時だって着けちゃうよ」
それは、冗談の類。本命をバッグに隠し、プレゼントと偽って差し出したまるで飼い犬を縛るために用いるような赤いチョーカー。それを喜んで受け取って己の一部のようにしてしまった心は、やはり阿呆。だがそれはとても可愛らしい、抜けっぷりだった。
「心が学校にまで着けてきた時は、ちょっと焦ったなあ……」
「もうやらないよ! だって、皆にワンちゃん扱いされるのは疲れるからねっ」
「指摘されるその都度わんわん言って返して、校則違反を指摘しに来た先生にまで犬語で喋ろうとして怒られる、そんな思春期女子は、多分心しか居ないよ」
「そう、こころちゃんはオンリーワン! わんわん!」
「お、珍しく間違えていないね」
頭に手の平を二つ立てて犬の耳を型取り、心はふざけ続ける。こうして見ると、ぱっちりお目々に、櫛が先に音を上げそうな程に自由奔放な髪、私を見上げる低身長、そんな要素が愛らしく纏まっているのが不思議だ。まるで、子犬のよう。だから、私は彼
女を怖がらず抱けるのだろう。
「お手」
「わん」
「ほら、ぎゅっと繋いで……さあ、何時までも遊んでいないで行きましょうか。映画はあと少し、定刻通りに始まるでしょうから」
「わわっ、わん!」
「まだ言うの……」
人の海は割れてはいないが、しかし隙間だらけで通りやすい。やたらめったら目のいい私は、それを見逃さずに、通っていく。左手に感じる温もりを忘れずに。
そう、悪辣にも星の光どころか空気すら頂くその天辺を無視して、私は地べたを茶色いわんわん言う少女と共に歩く。また一つが、そこから零れ落ちたことに気付きながら。
「面白かったねー」
「うぅ……心、どうして貴女はアレだけ素晴らしい内容を見て、泣いていないのよ……」
「うーん。あれって悲しかったんだ……分かんなかった!」
「そうね。共感力の欠けている心に、理解力の足りないワンちゃんに相応の感想を求めるのは間違いだったわね……ぐす」
在り来りの悲劇も、重ね連ねて強調して、そして無駄を極限まで廃せれば、それはもう傑作に至るのは当たり前。話題通り、近年稀に見る素晴らしい映画を見た私はグスグスと泣いて、心はヘラヘラと笑った。どうして私はこの子と映画を観に来たのだろうと、目頭をこすりながら真剣に疑問に思う。これから行うショッピングに意外と参考になる彼女の意見を採り入れる予定を、すっかり忘れて。
「すてっきー泣かないでー」
「良いのよ。悲しい時は、思いっきり泣くの。感情は、表に出すのが一番なんだから」
「そうなんだ」
「それも周りを見て、だけれどね。……これだけの落涙があれば、私のものなんて隠れてしまうでしょう」
のろりと歩き、背中を丸めて涙を流す女子の集団。異様ではあるが、しかしそれは悲しませるために作られた代物を受け取った場合の自然。その中で、笑顔をしている心こそ異常である。
「すん。原作著者の
「うーん。こころちゃんは、判んなくても楽しいからそれで良いと思うんだけれどなー」
「貴女は、零点を取る達人ね……ふぅ、もう、いいわ」
そして、私は背を伸ばした。目尻を拭い、悲しみに暮れきった私は再び心登らせる。それがあまりに早い、私も確かにおかしいのだろう。思わず、悲哀の中で笑顔が二つ並んだ。
「いいの?」
「うん。充分、悲しんだわ。……涙を何度も拭うのも、疲れるし」
映画の代金分は、感情を踊らせられた。それは間違いない。悲しくとも恋愛がああいうものであるとも学べたところであるし、とても良い時間を過ごせた。そう、たとえ悲劇を外してしまえば心に僅かにしか残るものがなくとも、それでも傑作は傑作だったのだろう。
「虚構を悼んでいる、そんな時間が人生にあんまり多くてもね」
「きょこー?」
「出来の良い嘘のこと。さっきの映画も、そうよ」
「やっぱり、嘘だったんだー。信じちゃ、駄目だよね」
「そうね。たとえ嘘のようでも、現実と向き合わないと」
そう、どんなに魅力的で信じたくても、嘘は嘘。決して正面から対面できるものではない。
反して、どれほど悍ましくとも目を反らしたくなろうとも、現実は眼前に広がっていた。
屋根に蓋をされてもその圧倒的な気配の多動は感じてしまうもの。私以外の誰にも理解できない天の怪物は今日もうごめく。
私の感覚質は訴える。早くここから逃げて、と。逃げ場所は何処にもないというのに。だがしかし、そんな危機が隣り合わせの今にだって、生きていかなければならないのだから仕方ない。ああ、望まずとも望んでしまう、そんな現実を生きよう。
「それにしても、リーフウォークは何時だって混雑してるわね。まるで町中の人が集まっているみたい」
「すてっきー、
「
「茉莉ちゃん、ここだよー」
私が人足の多さを確認していると、何気にせず空を見上げられる心は、群れの中から友を見つけたようだ。呼ばれて、少しはにかみながらこっちにやって来るのは二組の襲田茉莉さん。私が通っている瀞谷中学の二年で同級生だった。
「……心ちゃん、大須さん。こんにちは」
「こんにちは」
「こんにちはー」
心と同じくらいには小さい襲田さんは私を見上げて頬をふやけさせる。小さい瞳に蕩けるような笑顔が、彼女の特徴である。あまり仲良くした覚えはないのだけれど、それでも私は彼女に勝手に好印象を持っていた。
だからただ歓迎して、私は一歩引く。ずいずい前に出て行く駄犬を見逃しながら。
「ねえ、ねえ。茉莉ちゃん、今日はどうしたの?」
「お母さんとお買い物に来たの。あそこでカートを押しているのが私のお母さん。ところで、二人は、何をしに?」
「映画アーンドショッピング!」
娘さんそっくりな笑顔と私が会釈をした横で、ぴょんぴょんと心が跳ねる。素直に、友達と会えた奇遇がうれしいのだろう。私の親友は、無駄に高い運動神経を発揮させて、見つめる襲田さんの顔を上下させた。
「……二人、仲が良いよね。羨ましいな」
「茉莉ちゃんも、
「心の馬鹿。ごめんね、襲田さん」
私は表情から襲田さんの痛みを察して、心の軽い頭を叩いて彼女にとって悪い方向に向かいかねない会話を中断させる。
そう、友達の様な顔をしながら望まないことを平気で行う
それを知らず、いや一度聞いておきながらも忘れた心は痛みと隣で下がった私の頭を見て、それにならう。
「茉莉ちゃん。なんだか分かんないけど、ごめんねー」
「ううん。私、気にしていないから……それにあの二人も、良いところはあるし」
「それを向けずに、想ってくれさえしない人と仲良く出来る襲田さんはとても素敵な人だと思うけれど……それでも潰れそうになったら言ってね?」
「え? 駄目だよ茉莉ちゃん、潰れないでー」
茉莉ちゃんがハンバーグみたいになるのは嫌だよー、と騒ぎ出した子犬を見つめ、私が行うのは溜息を吐くばかりであるが、襲田さんがするのは違った。
再び、頬を緩ませて崩れずとも溢れるように、彼女は笑顔を浮かべる。
「ふふ……うん。大丈夫だよ。心ちゃんに元気、貰ったから」
「良かったー」
「……そうね」
そして、場には温かいものが広がった。微笑みは交わされ、ただ一人冷たい中に私だけが取り残されながら。果たしておふざけこそ、人の心を暖める最適解なのだろうか。幾ら分析しようとも、私にそれは分からない。
「……ふふ。それじゃあ、私行くね。心ちゃんに大須さん。また明日、学校で会おうね」
「じゃあね!」
「また明日」
少し私が呆けている間に友情が十分に交じったのか、眼前の二人は別れを切り出していた。合わせて、私も笑顔を作る。とっさであったために、それが上手く出来たかどうかは不明だったが。
「それじゃあ、行こうね、すてっきー!」
「ええ。行きましょうか。散財の用意は十分整っていることだし」
私は、次を思って笑顔を本当のものにする。多少のもやが胸元に残っているが、また切り替えるべきだろう。
空を見ようとしない私は地べたをうろつく人の装いなどを気にするタイプ。また、自分のものだって気に掛ける方。着飾るために、衣服やアクセサリーを買うのは好きで、だから今日という日は楽しみだった。
「すてっきー。私、あんまりお金持ってきていないから、今日は小物中心に見ていかない?」
「まあ、別に良いかな。そういえば心、びょんびょん狐のキャラグッズを買いたいって言ってたよね。そっちから先でもいいよ」
「やったー。びょんちゃん、びょんちゃん!」
今流行りのお腹がやたら伸び縮みするピンク色の狐を、当然のように好んでいる心は、私の提案に大喜び。早くその欲求を叶えたいのか、私の手を取り引っ張り出す。もっとも、小さな心の全力でも、大きめな私はそうそう動くこともない。ただ、その気持ちを感じて、私も少し楽しくなった。
「こら、焦らない。ゆっくりしないと怪我するばかりだよ?」
「怪我はいやだなあ。分かったー」
微笑んで、注意する私に向かって下げられた頭を、私はなるべく優しくなでつける。心の奔放を、私は愛しんだ。
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