第21話 穢れているから

ラヴィアンの子供時代は、とびきり温かな優しさに包まれた幸せの記憶に満ちている。

「これラヴィ、お前さんはまた羊と一緒に昼寝かい?」

ポンドアおじいちゃんは家畜小屋の羊の群れの中でぬくぬく、ふわふわの感触に包まれて眠るラヴィアンによくそう言って笑いかけてくれた。

「だって、気持ちーんだもん」

「そうだの、そんじゃあ、じいちゃんも一緒に寝るとするかの…」

そう言ってラヴィアンが一番気に入っている毛足の長い茶毛の羊に寄りかかろうとするから、ラヴィアンは羊とおじいちゃんの間に体を割り込ませ、

「おじいちゃん、この子はダメー…むぎゅ…」

おじいちゃんの背中に顔を押しつぶされそうになる。

「こりゃこりゃ、ごめんなぁ」

おじいちゃんは心から愉快そうに笑って、

「そんじゃあ、ウチの可愛いラヴィのためにも働かなきゃのう?」

そう言って家畜小屋の掃除を始める。


「おばあちゃーん。おじいちゃーん。お弁当ー!」

蝶々が飛び交う昼時の畑のあぜ道を、タンポポの黄色い花を眺めながら歩く。

あぜ道の先にはクワを持ったおじいちゃんとおばあちゃんが畑を手入れしていて、そこにお弁当を届ける。

といっても、お弁当はおばあちゃんが朝のうちに作っているものだ。

なんでも、ラヴィアンが届けてくれるお弁当は何倍も美味しいらしい。

「まあまあ、ラヴィ。ご苦労さまだよー」

おばあちゃんが日焼けして皺だらけの顔で嬉しそうにコロコロと笑う。

「ラヴィ。お腹ペコペコだよー」

「ほりゃあ、いかんのー。すぐに食べねばのー」

「そうですねえ。そうしましょ、食べましょ!ラヴィの美味しいお弁当」

そう言って三人でお弁当を広げる。

「ラヴィばっかりハム入りサンドイッチ食べてるよ?おじいちゃんとおばあちゃんは?」

二人は必ず美味しいハム入りのサンドイッチはラヴィアンに食べさせる。

だけど、美味しいものはみんなで食べたいラヴィアンは、何度も二人に聞くのだ。

「いいのよー。おばあちゃんたちはねえ、野菜が好きなの。ほら、このぷりぷりトマトなんて最高よー」

「そうそう、じいちゃんのにもな、ほれ。ぷりぷりトマト」

二人はそう言って笑った。

ラヴィアンは少しだけ不満だったのだが、ずっと後でハムはとても贅沢なもので、いつも節約をしていたおじいちゃんとおばあちゃんは、ラヴィアンのためだけにハムや、お肉や、卵を毎日用意してくれていたと知った。


ラヴィアンの生活はそういう幸せに包まれていた。

但し、おじいちゃんとおばあちゃんの家や畑から出て他の村人に出会うと少し様子は違った。

出会う人の半分くらいは普通に挨拶し、一緒に遊べる子供もいた。

けれど、残りの半分はなぜかラヴィアンを避け、そしていつも嫌な目をむけてくるのだ。

どうしてそんな目で見るの?

どうして挨拶を返してくれないの?

それを聞こうと近づくと、皆すーっと逃げてしまう。

そして、離れたところでまたラヴィアンを嫌な目で見るのだ。


ラヴィアンの夜ご飯が終わった頃、トトおばあちゃんが椅子に座った自分のひざをポンポンと叩いて呼んでくれる。

ラヴィアンは、トトおばあちゃんを抱きしめるように膝の上に座ると、トトおばあちゃんの首元を尖った歯で噛んで血を飲む。

まるで近所の生まれたての赤ちゃんが、お母さんのおっぱいを飲むみたいだ。

ラヴィアンは、赤ちゃんから大きくなると、皆こうしてお母さんの血を飲むのだと思っていた。

血を飲むと幸せで、元気が出てくる。

トトおばあちゃんも、これはラヴィアンには大事な栄養だからしっかり飲むのよと言うのだから間違いない。

血を飲んだ後、おばあちゃんはにっこり笑ってラヴィアンをぎゅーっと抱きしめてくれて、

「こんなしあわせでいいのかしらー」

と言うのだ。

だから、ラヴィアンは本当にそれが普通ではないことだなんて知らなかった。


ある日、おじいちゃんとおばあちゃんが作業をしている畑の脇で、木登り遊びをしていた。

近所の男の子と女の子と一緒に、高いところにある太い枝まで登って腰掛けると、まるで大男になったようで気分が良い。

しかし、ラヴィアンの乗った枝は折れてしまい、ラヴィアンは背中から落ちた先にあった、腐って倒れた切り株のギザギザした部分で背中に大怪我をしてしまう。

痛くて動けず、泣き叫んでいるとトトおばあちゃんが来て、ラヴィアンを見て真っ青になった。

でも、ラヴィアンを抱き抱えるように起こすと、顔を見て、

「ラヴィ、大丈夫。夜の栄養を飲めば、痛いのなんて飛んでっちゃうから、ね」

そう言ってラヴィアンの顔を、自分の首元にそっと引き寄せてくれた。

ラヴィアンは、とにかく痛いのが我慢できずに、泣きじゃくりながらも、いつものようにトトおばあちゃんの首筋に歯をたて、血を飲んだ。

びっくりすることに、痛みが嘘みたいに消えていく。飲めば飲むほどに、元気になり、まるで怪我なんてなかったみたいに。

ラヴィアンは痛みが消えた事にほっとして、トトおばあちゃんは物知りだなと感心しながら、涙を拭う。


涙を拭って、よく見えるようになった視界の中には、さっきまで楽しく遊んでいた友達の、気持ち悪いものを見るような目があった。

それ以来、その子達もラヴィアンを避け、嫌な目を向けてくる人になった。


それでも、まだラヴィアンは自分が普通ではないと気付いていなかった。

そして、その日を迎える。


ポンドアおじいちゃんと、トトおばあちゃんを殺した『親殺し』なのに、副村長に小屋から連れ出され、家へ戻ろうとしたところで何も分からなくなったのだ。


何がどうなったのか、ラヴィアンは川べりで水に浸かっていた。

服は大きく裂けて真っ赤に汚れていて、どれだけ川の水で洗っても落ちてくれない。

村に戻ろう、ポンドアおじいちゃんとトトおばあちゃんのところへ戻ろうと考え、二人がもういないことを思い出す。

悲しくて、自分が恐ろしくて、心細くて、二人に会いたくて涙が零れた。

そうして、10歳のラヴィアンは一人きりで彷徨うことになった。


孤児院の軒先で雨宿りさせてもらい残飯をもらう。

孤児院の修道女はラヴィアンは余所者だから受け入れられないと言い、孤児院の中の子供たちと同様に温かい部屋の中に入れてベッドを与えてはくれない。

だからと言って、ただ追い出したのでは寝覚めが悪いと、文句を言いいながらも雨宿りと残飯をくれることくらいは許してくれる。

だけど、夜の栄養を…血を飲まないでいるのは辛くて、ひもじくて、夜になってもよく眠れない。だから、ラヴィアンに一番優しくしてくれた修道女に「血を飲ませて」とお願いした。

途端に、修道女の表情は変わり、温かく見つめてくれた視線は嫌な目に変わった。

ラヴィアンの頭を撫でていた手を引っ込め、距離をとる。

「人の血を飲むなんて、魔獣か悪魔そのものじゃない!近寄らないで!」

そう言って、石を投げられた。

みんな血をのんでいるんじゃないの…違うの?

その時もまだラヴィアンは分かっていなくて、だから石を投げられたのにもかかわらず、その修道院の軒先でひもじくて苦しいお腹を抱えて横になっていた。

だから次の朝、気がつくと恐い顔をしたたくさんの修道女に囲まれて、石炉の薪を引っ掛けたりする鉄の引っ掻き棒を足に突き立てられて引きずられた。

どうして引っ掻き棒で引っ張るのだろうと思った。

出て行けと言われたら出て行くのに、そうでなければあの時みたいに縄をかけて引きずっていく方法もあるはずだ。それなのに、どうして、と考えた。

ああ、この人たちはわたしに触れることすら嫌なのだと思い至る。

足首の肉を貫いて、引きずるたびに少しずつ傷口が大きくなり、背中は大小無数の石や段差で服は擦り切れ、燃えるように熱くて痛い。

ラヴィアンは泣き叫びながら、引き連られた。

修道女たちは皆、神様の名前を呼びながら助けを求めたが、その神様はラヴィアンを助けてくれることはないのだと、足の痛みと引きずられる背中の痛みとともに心に刻んだ。

「わたしは、人の血を飲む悪魔なんだ」

修道女達は川べりまでラヴィアンを引きずると、そこで引っ掻き棒を引き抜いて、川に浸けると再び引っ掻き棒先で川の深いところへ押しやった。

そうしてまた、ラヴィアンは見知らぬ場所へ流れ着く。


孤児や、手足を失って働けない人間に神様のお恵みをくれるという話を聞くたび飛んで行き、パンをもらって食いつないだ。

にぎやかな歌声が聞こえる料理店の裏で、カビの生えたパンや床にこぼれたスープの具ををもらい、人の家の納屋に忍び込んで寒さに耐える。

毎日、毎日、いつも、ずっと、何を食べてもお腹はひもじくて、トトおばあちゃんの血を思い出してはお腹を叩いて、膨れ上がる空腹感をまぎれさせる。

血が飲みたいと思う度に、自分が恐ろしい悪魔なのだと思い出して涙がこぼれた。

もしかしたら、わたしは悪魔だからポンドアおじいちゃんとトトおばあちゃんを殺したんじゃないかと、その大きすぎる罪に震えた。


わたしは穢れた悪魔だ。

だからきっと、村の人たちはわたしを気味悪いと思って、ポンドアおじいちゃんとトトおばあちゃんがわたしを育てると言ったのに反対したんだ。

そう思うと、あの時の幸せが本当にかけがえのないものだったのだと思う。

でも一人きりになった。

今、穢れたわたしにできることは、清く正しく生きることだけだ。

清く生きるために、血は飲まない。たとえどんなにひもじくても。

血を飲めば、穢れたわたしはもっともっと、恐ろしい悪魔に変わっていくのだ。

それだけは駄目だ。

大好きなトトおばあちゃんがくれた血でできたわたしの体を、これ以上悪魔にはしない。

たとえ、大好きな二人を殺してしまった今からでは遅いとしても。

だから、二度と血は飲まない。

そして、中身が穢れたわたしだからこそ、正しいことをして少しでも人の役に立つのだ。

そうすればきっと、ポンドアおじいちゃんとトトおばあちゃんは、悪魔を育てたといわれなくなるのだ。


ポンドアおじいちゃんとトトおばあちゃんと離れてから、悲しくて、寂しくて、苦しくて、痛くて、文字通り血に餓え、自分の本性を嫌悪するそんな10歳の一年間を過ごした。


その経験のワンシーン、ワンシーンが、何度も繰り返し思い出される。

胸の中に、大好きな二人への想いや、二人を殺してしまっただろう自分への嫌悪と怒りや、血に餓えてもだえた時間と修道女達に悪魔と呼ばれて引きずられた痛みと、臭い汚いと石を投げつけてくる人の嫌悪に満ちた目とが、ぐるぐると脳裏を回る。

その記憶がなぜか、燃え上がる火にあぶられるように、思い出のシーンに赤い火のようなものが映り込んでいる。

そして、誰かがラヴィアンを呼ぶ声が聞こえてくる。

その声は遠く、思い出の中のラヴィアンを罵る声でかき消されてよく聞こえない。

なのに、何度も何度も聞こえてくる。

その声は、まるで泣いているようだ。

それが何なのか考えようとすればするだけ、目まぐるしく思い出は変化しつづけ、苦しみだけが胸に充満していく。

そして、思い出を炙るものが、自分の腹部にある猛烈な痛みだと気付いた時、ラヴィアンは目を見開いて、悲鳴とともに長く忘れていたように息を吸い込んだ。


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ラヴィアンはか細い悲鳴を吐き出すと、ひゅっと大きく息を吸い込んだ。

ラヴィアンの目が薄っすらと開く。

俺はそれを見て、ゆっくり落ち着いて名前を呼ぶ。

「ラヴィアン」

ラヴィアンの目が俺を捉え、腹部の痛みに顔を歪める。

「ハル?…ボク、怪我して…血がたくさん…」

そういいながら、弱弱しく視線を漂わせ、そして俺の上半身を見て顔をゆがめた。

「…ああ…ハルの服を汚したの…ボクの血?ごめ…ごめ…なさい…」

そう言って、俺の服の血を拭おうと力の入らない手を伸ばす。

「ラヴィアン。ラヴィアンは自分が醜いって思ってる?」

その言葉にラヴィアンは驚いて、すぐに恐ろしい予感に身構えるように顔を曇らせる。

「それは、血を飲む吸血鬼だから?」

そう言うと、ラヴィアンは目を見開き、それから涙を溢れさせ、俺の服を掴んだ手を離す。

弱弱しい手で顔を覆い、

「ああ…、ああ…、ああああああ!」

悲しそうに言葉にならない泣き声を上げた。

「ラヴィアンは、俺がラヴィアンが吸血鬼でも気にしないって言っても、自分は醜いって思う?」

ラヴィアンは泣いたまま答えない。

「ラヴィアン。ラヴィアンは俺の事を気持ち悪いって思わない?この顔も、しゃべり方とか、食べ方とか、笑い方とか、匂いとか…」

ラヴィアンは、顔を覆っていた手を下ろし、俺を見る。

「年上なのに弱くてヘタレで…こんな俺のこと、気持ち悪いって思わない?」

「そんな事…思ったこと一度もないよぉ…」

俺は真っ直ぐラヴィアンを見つめたままで続ける。

「うれしい。でもね…ラヴィアンが俺が『ラヴィアンが吸血鬼だって気にしない』って言葉を信じられないのと同じで、俺もラヴィアンが俺を気持ち悪くないって言ってくれても信じられない」

ラヴィアンはどうしてといわんばかりの顔をする。

「俺はね、ずっと女の子に気持ち悪いって言われてきたんだ。プリント一枚渡すのにも絶対指が触れないようにされたり、俺が座ってた椅子には絶対座ろうとしなかったり、目の前で嫌そうな顔をしてマスクをされたことだってある。だから、俺は女の子に触れるのが恐いし、女の子が俺に触れてくれることなんてないって思ってる」

「ほかの子のことなんか…ボクはそんなこと、思ったりしないよ…」

ラヴィアンの目は、肉体的な死を目前にして弱っているのに、真っ直ぐ俺を見ている。

「じゃあ、証拠を見せて欲しい」

「証拠って…?」

俺は、一秒一秒近づくラヴィアンの死への焦りを必死に押さえ込み、ゆっくり言葉を続ける。

「俺に触れて、口を付けて、血を飲んで欲しい」

その言葉に、ラヴィアンは涙を溢れさせて首を振りいやいやをする。

「ボクは…穢れてるから…血を飲むなんて…普通じゃないからぁ…そんなの…」

「ラヴィアンが俺の血を飲んでくれないのは、やっぱり俺が気持ち悪いからでしょ。…ラヴィアンと一緒…俺も普通じゃない…誰にも相手にされない気持ち悪い人間だ…」

ラヴィアンが泣きながら唸る。

「…違う…ハル、ずるい…ハルが気持ち悪いなんて…思ってない…ずるい…」

ラヴィアンはまた大粒の涙を零し、両手で顔を覆い、

「…うううう…」

と声にならない声を上げて、その両手を俺の首元へと伸ばした。

俺の首元に冷たく細い手が回され、抱きつくようにラヴィアンが寄りかかり、耳元で囁く。

「…ハル…」

それから、首筋に痛みが走った。ラヴィアンの唇が首筋に触れ、俺の体を満たしている温かなものが痛みの元へと流れていく。その感覚は、魔法を使う時に似ている。

首元に突きたてられた歯の痛みはすぐに治まり、俺はその温かな流れに身を任せた。


「ラヴィアン。良かった!傷が塞がっていきます!」

そうアンナの声が聞こえた。

俺の首に回しているラヴィアンの腕に力が戻ってきているのが分かる。

「良かった!兄さん、良かった!」

「本当、良かったわぁ」

ラッドとウィーダの声が聞こえ、皆が安堵しているのが分かる。

息を吐き、俺の首筋で血を飲んでいるラヴィアンの体重と体温と、確かな鼓動を感じながら、安堵に包まれる。

なのに…、

「ほら!ほらぁ!みんな、見ろよ!破れた腹が治って…」

リットーの声が聞こえた時、せっかく決意して血を飲む気になったラヴィアンが、また自分を嫌悪して血を飲まなくなるんじゃないかと思った。

そんなこと許せない。

リットー!その汚い口を閉じてろ!

そう思ったら、怒りが湧きあがり、腹の中が一瞬ザワリとざわめき、うねり、伝う感覚が湧き上がった。

そうしたらなぜかリットーの言葉は途中で止まった。


ともかく、しばらくしてラヴィアンが俺の首元から離れた時には、ラヴィアンの腹部は綺麗に治っていて、傷ひとつなかった。

大きく息を吐き、ラヴィアンを見る。

ラヴィアンは頬を赤らめてもじもじと俺を見ていた。

「ラヴィアン。ごめん」

その『ごめん』には色々な思いが詰まってる。

守れなくて、ふがいなくて、情けなく泣いて、嫌な言い方をして…ごめん。

そういう『ごめん』だ。

俺の言葉に、ラヴィアンはうわっと泣き出し、再び俺の首元へ手を回し、ぎゅっと抱きついてしばらく泣き続けた。

その泣き声を聞いていると、俺も胸を掻き毟りたくなるような不安が消えて安心したのか、涙があふれてきて、その涙を零さないように、ラヴィアンに気付かれないように堪えるのに必死だった。

その情けない俺の顔を、しれっと俺の前に回りこんできたアンナとラッドとウィーダとエリーが見ていると分かって、慌てて顔を逸らす。

あ、やばい涙が落ちた。

鼻水まで垂れそうで、必死に耐える。

そんな俺を見ているのか、クスクスと笑い声が聞こえてきて、俺は顔が真っ赤になるのを感じた。


「さて、リットー!」

アンナさんの冷たい声が広場に響く。

その声を受けて、リットーを押さえ込んでいた『ダウデンの狼』と『星猫』のメンバーがリットーを押さえていた腕や膝をどける。

「…リットー?」

アンナさんの声に、リットーを振り返る。

そこには、もう誰も押さえていないのに、四肢を石床にべったり着けて、だらしなく開いた口から涎を垂れ流して苦悶の表情を浮かべるリットーがいた。

苦しいのか涙を流し、ただ横たわっているように見える四肢は、必死に動かそうとしているらしくぶるぶると筋肉を震わせている。

だが、四肢も口も一ミリも動く気配はない。


どういうことだろう、と注視する。

何かの魔法だろうか?なんて考えてもいた。

なのに、注視した時にそれが見えた。

リットーの四肢どころか、首にも胴体にも絡みつき、口を押し広げて口内に侵入して塞いでいる長く黒い髪のようなものが。

ゾクリと背筋が寒くなった。

沸きあがった予感のままに自分の足元を見る。

俺の足元から、その黒髪は伸びていた。

これ…俺がやってるのか!

そう思った瞬間、リットーを絡めとっていた黒い髪はズルリとその拘束をやめて、床の上を俺へと這い戻ってくる。

その様子は誰にも見えていないのか、誰も何の反応も示さない。

俺は床から足を伝い、自分の腹にその黒髪が収まっていくのを呆然と見ていた。


拘束が解けたからだろう、リットーがブハッと大きく息をして、咳き込む。

「リットー!冒険者ギルド職員として、今回の冒険者ラヴィアンへの一方的で執拗な攻撃の罪は重大だと判断します。後ほどギルド長以下、当グランデル支部として正式に罪状を判断しますが、罰は軽くないと覚悟してください」

その言葉にリットーが叫ぶ。

「待て!違う!俺はそいつは死なないのを知ってた。ただみんなに、こいつが俺たち人間とは違う不気味な存在だって教えてやろうと思って、だから殺すつもりはなかったし、ほら!死んでないだろ!こいつにとっちゃあ、剣の突きだろうが無かったも同じなんだ!それなのに、どうして俺が罰を受けなきゃならない!」

アンナはため息をつき、リットーを睨み歩み寄る。

そしてリットーの腰からナイフを引きぬくと、その頬を横薙ぎして切り裂く。

「痛ぇ!何するんだ!」

アンナはその声を無視して、リットーの腰からポーションを取り出してリットーの頭の上からその中身をぶちまける。

液体治療薬は、頭部から頬を伝いその傷を塞いでいく。

「ナイフの傷だろうが無かったも同じですが、なにか?」

アンナの冷徹な声が響く。

「この野郎!ギルド職員が理由もなく切りつけていいのか!それに傷は治っても痛みはどうしてくれるんだ!」

アンナはリットーの怒りの視線を正面から受け止める。

「それなら、ラヴィアンが腹を割かれた痛みをあなたはどうするんです?」

「そんな事知るか!」

アンナは再びリットーの鼻の穴にナイフを差し入れ縦に切り裂く。

「おま…おまえ!おまえぇ!痛ぇ!くそ、なんなんだお前!」

リットーは血が滴る鼻を押さえて涙目になりながらアンナを睨み、アンナはまた無表情に二本目のポーションをリットーの頭にぶちまけ、そして言う。

「そんな事知るか」

そう言ってからアンナは、ナイフを放り捨てると、リットーを見て言う。

「人に与えた痛みに責任は取らず、自分が痛いときだけ責任を取れという頭の悪い人に、罪の意識を感じてもらおうとしたのが間違いでした。では、こうしましょう。これから毎日、回復魔法が使える人を用意して、リットー…あなたの体を切り裂いては治しましょう。そうですね、初日の明日はお腹を半分に裂くところから…」

「俺はただの人間だぞ!治るから切り刻むっておかしいだろ!」

周囲からため息にもにたどよめきが湧き上がる。

もうリットーの愚かさに辟易しているのはアンナだけではなかった。

皆が、目の前の男を滑稽だとしか思えずいて、その男に煽られて無実の少年を責めたのかと思うと、後悔と怒りが再び波のように湧きあがってくる。

「自分が与えた痛みを受ける事すら嫌なら、おとなしくギルドの裁定を待ちなさい。でないと、あなたを周囲の皆さんの自由にお任せして、冒険者ギルドは見なかったことにして去りますよ?」

その声と同時に、周囲の冒険者、『ダウデンの狼』に『星猫』の面々が、一斉に武器を抜く。

その目はリットーただ一人を射抜き、誰かの口から「おおおおお!」と雄たけびにもにた咆哮が上がった瞬間、皆一斉に武器を打ち鳴らし、咆哮を上げた。

広場に響き渡る咆哮は、リットーの鼓膜だけでなく心胆も震わせる。

リットーは皆が何をしようとしているかを想像して一気に恐ろしくなり、自分に向けられる武器を避け、逃げようとする。

しかし、どこを向いても武器の切っ先がリットーを向いていて、それでリットーはとうとうその場に崩れ落ちた。

「あんた、頼む!俺をギルドで捕まえてくれ!お願いだ!」

それを聞いたアンナは、手を上げて冒険者達を静かにさせると、冒険者ギルド防衛員を呼び寄せてリットーを捕縛した。

「ああ、ちなみにこれからどんな裁定になろうが、あなたの全ての装備、道具、お金は、被害にあったこのラヴィアンへの慰謝料および治療費として譲渡とします」

リットーは何か言いかけたが、アンナの冷たい目に負けてうなだれるように連れられて行った。


それを見て、やっと安心したのだが、アンナさんに逆らうのは止めようと心に決めた。

アンナさん、怒ると恐すぎる…。

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