第9話 死への反抗
「…だから…だから見てて、お姉さんたちと、守護霊さん!」
その声でやっと、まだ終わってないと気付く。
ラヴィアンはまだ生きていてるし、手の届くところにいる。
もう助けられないかもしれない。
もう迷宮から連れ出せないかもしれない。
だとしても、ラヴィアンが切り刻まれるところを黙って見ているつもりか?
ラヴィアンが喰われるところを何もせずに見ているつもりか?
途端に、腹の中が熱くなった。
湧き上がったものがあった。
「そんな訳ないだろー!」
だから、たった一人で懸命に魔獣と戦い続け、汗でナイフを取りこぼし、それでも素手で殴りつけて抗ったラヴィアンの喉元に、ハウンドの牙が立とうとするのを許せなかった。
手を伸ばす。
それは、武器を持たない手だ。
救う術を持たない手だ。
それでも、手を伸ばす。
ラヴィアンの首に喰らいつくハウンドの体を全力で押しのけ、ラヴィアンを背にハウンドを睨んだ。
「やれるだけの事を、やる!」
今の自分にできることは、すり抜けることと、手のひらで物体に触れる事。
たったそれだけだ。
どんなに意識を集中しても、手のひら以外の部位は物体に干渉できない。
だから、自分の体を盾にしてラヴィアンを牙や爪から守るなどできない。
そして、肉体など存在しないのに、その手が掴む力も、腕を振るう力も生前と同じで非力だった。
次から次に、ラヴィアンを目がけて跳ぶハウンドを、左手で横面を叩いて退け、右手で鼻先を押さえ込んで引き倒し、ラヴィアンを背にハウンドに立ちはだかる。
しかし、どんなに頑張っても、素手で叩き、押し返すだけではハウンドを殺すどころか、ダメージを与えることも難しかった。
それでも、ひたすらにハウンドを押しのけ、張り倒し、顎を突き上げ、腕を振るう。
肉体がないから疲れないと思っていた。
なのに、常に手のひらに集中し、長時間干渉能力を発生させているためか、体の芯に澱のように重苦しいものが溜まって行く。
それは精神の疲労のように、じわじわと魂自体に苦しみをもたらしていくようだった。
それでも手を振るい続けるしかない。
それだけしか、できない。
長く、あまりにも長く、ハウンドをラヴィアンから遠ざけ続けるうちに、次第に手のひらへの集中が維持できなくなっていく。
手のひらが数回に一回、ハウンドを素通りし、ハウンドがラヴィアンへとすり抜けて行く。それを必死に掴んで引き止め、反対の手でたたきつける。
繰り返すぎりぎりの攻防を、耐え抜いていく。
ただただ自分が今できることに集中していた。
だから、勝機など見えない防戦一方でも、ひたすらに耐え続けた。
今や通路には無数のバンシーが立っていた。
通路を埋め尽くし、通路に入りきれない者が壁から虚ろな顔を覗かせている。
その視線は、他でもないラヴィアンに注がれ、泣き声は重なり響き渡る。
次第に大きく強くなる泣き声の高まりは、悲劇の舞台のフィナーレを予感させるようで、心を不安と恐怖で充満させていく。
右手でハウンドの頭を叩き付け、左手で顎を打ちつけ、返した右手で頬を押し返す。
左手で上顎を握って捻り倒し、右手で眉間を叩き付け、返す左手で顎下から叩き上げる。
何度も何度もハウンドが飛び掛り、何度も何度もラヴィアンの前から押し返す。
ラヴィアンは疲労でナイフを握った腕を胸の前に構えるのが精一杯だった。
そして、その時が来た。
頬を叩きつけたはずの左手がハウンドをすり抜けた。
ハウンドが大きく口を開き、ラヴィアンの細い首目がけて宙を踊る。
「駄目だっ、駄目だっ!」
慌てて右手を横薙ぎし、頭蓋の側面を狙う。
その手も、素通りしていく。
「ああっ、あああああ!」
まるで事故の瞬間のスローモーションのように、ゆっくり流れる時間の中で、ハウンドの頭蓋をすり抜けていく手が見えた。
もう何も押し止めることができない無力な手を見ながら、願った。
「止めてくれ…頼むから…」
頼むって誰にだ?と思った。
バンシーか?ハウンドか?オスロウか?
それとも信じてもいない神様か?
ここには自分しかいないのだ。
たった今、ラヴィアンのために何か出来るのは…、
「俺ぇーーー!」
左手では、もう間に合わない。
なんでもいい、なんだっていい。
ラヴィアンを失わずに済むのなら…。
でも、自分にできることは少ない。
俺に出来るのは、すり抜けることと、手のひらで物体に触れる事。
だから、手のひらに集中した。
結局、それしか出来ないのだから。
「止まれ、このぉおおおー!」
右手に触れる感触が生じた。
液体と柔らかい肉の感触。
指先を動かすと、それが潰れる感触に変わった。
グチュッ…音で表現するとそんな、柔らかな肉塊が潰れる感触。
その感触とともに、目の前のハウンドが左へ大きく体を傾けながら、ビクっと全身を振るわせた後、糸の切れた人形のように足元に崩れ落ちた。
その眼窩から血があふれ出している。
俺は、右の手のひらを見て、感触を思い返す。
スローモーションで見ていた光景を思い返す。
頭蓋をすり抜けて…脳を潰した…?
非力な腕力では頭蓋を割ることなどできない。
けれど、手が頭蓋骨をすり抜けて入り込んだ時、物質に触る能力がそこで発生するなら、脳を内部から触れる。
脳に接触した、その指先を動かしたらどうなる?
脳を押しつぶすことなんてしなくても、少しでも脳に触れてかき混ぜられたら、生きていける生物なんていない。
これは…。
これは…!
(バンシィー!その予感、それを、俺が変えるからぁーーー!)
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ラヴィアンは、鉛が詰まったように重い体をやっとの事で起こしていた。
中腰で構えていた足はすでに床に折れ、片ひざになっている。
右腕はどこが傷口かも分からないほどに全部が痛くて、左手には取りこぼしたナイフをやっとの力で握っている。
すでに構えなどとれず、ハウンドが襲い掛かって来ても、せいぜいナイフの切っ先を向ける程のことしかできないと思った。
叫んで、叫んで、力の限り頑張ってみても、結局時間を稼げただけだった。
守護霊さんは、ボクに逃げて欲しかったんだろうな…。
それくらいはラヴィアンにも分かっていた。
あの時、オスロウを置いて走れば、こうして勝つ見込みの全くない戦いよりもずっと生きられる可能性があったのだ。
守護霊さんは、ラヴィアンを生かすために逃げて欲しいと願っていた。
それを、こんな風にしてしまったのはラヴィアンの我がままだ。
守護霊さんがおそらく素手で叩きつけ、遠ざけ続けてくれたハウンドが、たまにラヴィアンの喉元まで届きそうになることが増え始め、ついにその時が来たと思った。
死を前にして、ラヴィアンに後悔はなかった。
全くないか、と言われれば嘘になるけれど、少なくとも誰かを見殺しにはしなかったと、そういう意味では後悔はない。
でも、守護霊さんは違っただろう。
だから、ナイフを失った時点で、守護霊さんは勝つ見込みが完全に無くなったと分かったのだろう。
その後の守護霊さんの沈黙が、自分に向けられた悲しみだと思えた。
なのに、守護霊さんは再びこうして他ならぬラヴィアンのために、勝てない戦いを、ただただラヴィアンの命を長らえるための戦いを続けてくれた。
それがありがたくて、だから最期の瞬間が来たなら、なるべくみっともない姿を見せないようにしないと、と思った。
痛くても、恐ろしくても、苦しくても、出来れば泣き叫ばず、可能ならば「死にたくない」とか「生きたい」とか言わず、それを見せられる守護霊さんの心を苦しめないようにと。
そう思ったのに…。
思っていたのに…。
目の前には、ハウンドの死骸が累々と積み上がっていく。
刃を向けると波のように引き、傷つけることすら難しかったハウンドが、非力なナイフの突きでは致命の一撃など到底不可能なハウンドが…。
ラヴィアンとオスロウに唸り声をあげ、飛び掛る隙をうかがい低く構えるハウンドが「ギャンっ」と一瞬の断末魔を上げて、たった今まで目玉が収まっていた眼窩から血を吹き流し、崩れ落ちる。
次にその横のハウンド。
次にその後ろのハウンド。
通路がハウンドの死骸で埋め尽くされていいく。
今やハウンドは完全に異常事態に混乱しているようで、あらゆる方向に唸り、怯え、それでも背を向けて逃げようとしたハウンドが一瞬で崩れ落ちる様に、逃げるに逃げられずにいる。
それは、まるで見えない鬼神のようだった。
叩き潰すようにハウンドの命を刈り取る姿に、祖父母がしてくれた昔話の剛力異形の鬼の姿が重なった。
おそらく守護霊さんが、何かの力を使っているのだろうと思ったら、なぜか誇らしい気持ちになった。
少し、涙が零れた。
もちろん、嬉しい方の涙だ。
「ボクの守護霊さんは…凄い!」
12体のハウンドという危機は、本気を出したか、もしかしたらとても怒った守護霊さんによって、瞬く間に一掃された。
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ふつふつと湧き上がる怒りのままに、両手を次々に振るった。
ハウンドの脳を破壊し、命を刈り取る。
ラヴィアンを苦しめた魔獣だと思うと、一方的な惨殺だというのにハウンドに微塵の哀れみも浮かんで来ない。
だから、視界に移ったハウンドを順番に、躊躇なく倒していく。
ただ、最後の一匹を倒したら、怒りはあっという間に萎んで消え去って、怒りのままに殺しまくった、さっきまでの自分が酷く醜く、痛々しい人間に思えた。
それでも、自分の手でラヴィアンを助けられた喜びと安堵感があったから、落ち込むような事はせずに済んだ。
嬉しさと反省が入り混じったまま、ラヴィアンの元へと向かう。
そこにはもう、あれほど苛立ちを覚えた低い唸り声はないし、あれほど心をかき乱していた泣き声もない。
そうして異変に気付いた。
視線の先、ラヴィアンを取り囲んでいた無数のバンシーが、全て虚ろな顔を自分に向けている事に。
なぜだか、その事実に背筋を悪寒が這い上がっていき、その意味を考える間もなく、大きく響き渡ったのは歓喜の声を思わせる絶叫だった。
無数のバンシーが、歓喜の声を上げていた。
そして、一体のバンシーが声を上げながら、自分の方へと一歩を踏み出すと、続くように他のバンシーも進み始めた。
「え?ちょっ…なに?」
その速さは次第に早くなり、飛ぶような勢いになった時、恐ろしさに後ずさりした。
瞬く間に、視界はバンシーの黒い塊に埋め尽くされて、次の瞬間には、全てのバンシーが黒く長い髪を蠢くように伸ばしてくる。
「うわ、恐っ…やめ…」
伸ばした髪が体に触れた瞬間、ブツリと皮膚を破るような感覚があって、そこからズルリと俺の内側に入り込み、細い血管を無理やり押し広げて進むような感触があって、体の内部を這い回って腹部に収まっていく感覚があった。
恐ろしくて、気持ちが悪く、おぞましい感覚。
それはまるで…寄生だ。
そして、バンシー全てが、洪水のように自分の中に入り込む事に抗うこともできず、体をなすがままにされ、やっとそれが終わった時には、激しい眩暈と吐き気に似た腹部の違和感が沸き起こった。
意識が保てず、体の感覚は失われ、どこにいるのか、自分がどうなっているのかも分からない。
その中で、自分の中心から…腹部から、凄まじい怒りと深い悲しみが入り混じった物がどろりと這い出て体をのたうちまわっていく。
その後、芯から膨らんできた愛しさのようなものが、全身に及んだそれらを溶かして消し去った。
嵐のように襲い掛かった眩暈と違和感は、急に小さくなって消え去り、まるで何もなかったかのように治まった。
気味の悪さが残った。
気味の悪さだけが残った。
しかし、何一つ分からず、見当もつかない。
一瞬、腹からあの髪がぬるりと出てきたら…などと想像して怖気にかられたが、動いてみても、腹部に意識を集中してみても、何も起こらない。
だから、とりあえずはその気味悪さを棚上げすることにした。
なぜなら、まだやるべきことが残っている。
これから、ラヴィアンを無事に迷宮から脱出させなければならないのだ。
何度も礼を言い「守護霊さん凄い」を繰り返すラヴィアンを落ち着け、オスロウを引きずりながら迷宮出口を目指す。
数回ハウンドに遭遇したものの、さっくりと頭の中をかき回して倒していく。
ラヴィアンという獲物を見つけて嬉しそうにすら見えたが、知ったことではない。
とは言っても、もう怒りに任せたりはしていない。
ちゃんと冷静に、世界から退場してもらった。
その後、第三層を探索中のパーティーに出会え、そのパーティーに事情を話して出口まで連れ出してもらえる事になったのは幸運としか言いようがなかった。
巨漢のオスロウはパーティーメンバーの背に担がれ、ラヴィアンはパーティーに守られて第二層へ上がり、そのまま出口へと向かった。
出口から外の景色が見えた時に緊張の糸が途切れたのか、ラヴィアンがホロホロと涙をこぼし、みなに礼を言っているのが見えた。
それを見てやっと、彼女を死なせずに済んだことを実感し、その途端、視界が暗転した。
何が起こったのか、何が起こるのか分からないまま、薄れていく意識の中に、竜を思い出していた。
『たしかに君は霊…魂だね。ただの魂にしては輪郭がはっきりしているから、きっと…。まあ、何事も予備知識なしに経験するのが好ましいからね。止めておこう…』
そう言って竜は笑っていた。
「教えてくれれば良かったのに…」
そのまま意識を失った。
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