ライジング:ゴーストから始まる異世界冒険者生活
和紀空宙
プロローグ
忘れ物をすることは、あまりなかった。
それが携帯で、忘れた場所が学校ならなお更、自分至上最悪の忘れ物だ。
自分の大事にしている物が無防備に学校にあると思うだけで不安で、だから面倒でも取りに学校に戻った。
下校時間を過ぎた高校の校内には、部活の生徒を含めもうほとんど誰も残っていなくて静まり返っていた。様々な音が氾濫する日中の学校を知っているだけに、静かな学校は不思議で、だから気が緩んだのかもしれない。
夕日が差し込む昇降口で、無くなった靴を探し回る彼女を見た時、こんな時くらい自分らしくありたいと思った。
スカートの丈を短くすることもなく、いつもきちんと制服を着ている黒髪で眼鏡姿の彼女は、どれほど長く探してるのか、前髪が汗で顔に張り付いている。
彼女は身長が低く、下駄箱の上に置いてある靴に気付けない。
だから、靴を掴むと彼女の顔の前に差し出した。
いつも表情を崩さない彼女は、大抵の事には動じない。
彼女の弁当がゴミ箱に入っていても、鞄の中身が床に散乱していても、制服にガムが付いていても、彼女の容姿や人格を否定する言葉が聞こえてきたとしても。
なのに、彼女は驚いて慌て、それまで強く引き結んでいた口をどう動かしたらいいか分からないように、ぎこちなく口の端を持ち上げ、くしゃっと無防備な、そんな嬉しそうな顔をした。
思いがけない彼女の表情に驚いたのはこっちも同じで、急に気恥ずかしくなり、耳まで赤くなっているのに気付かれまいと、ぐるりと背を向けて教室へ向かう。
背中にこそばゆさを引きずりながら。
たったそれだけの事だった。
その光景を、誰も見ていなければ、たったそれだけの事だったんだ。
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人間の価値を決めるのは他人だ。
容姿、能力、才能、成績、人気、性格、家庭環境…。
周りには、人間を値踏みする目や基準が溢れている。
こいつは俺より上か下か、あいつは私よりイケてるかイケてないか。
その目は時に少数で、時に圧倒的多数で、人間の価値を評価し、人間に序列を付ける。
家庭内の序列から始まって、教室内の序列、学校内の序列、やがて会社内での序列になり社会での序列へと次第に大きくなりながら。
そして、序列は規模を違えても、ほとんど階層は変わらない。
教室内で下位なら、学校内でも、会社内でも、社会でも結局下位なのだ。
…そう、進路相談の結果が教えてくれた。
大学を進路に書けば、その大学を目指すことが相応しいかどうかを判定される。
企業に就職したいと言えば、そこまでの道のりを逆算して、どの大学に入らなければならないか、それが可能かどうかが判定される。
他人や基準が評価する価値とは、そういうものだ。
人間の将来さえ透けて見えるほどのその評価こそ全てで、自分の価値そのものだと思っていた。
だから、次の日の教室で、皆が隠していた靴を渡して彼女を助けたことが知れ渡って、昨日までのトモダチが自分を無視の対象にした時、やっと気付いた。
ずっと空気を読み、流れに逆らわないように、皆に合わせることで平穏に生きてきた。
その中で、たった一度、自分が本当に望んだ事をしたことが許されなかったのだ。
それは、単に自分の序列が落ちたということではない。
そもそも、素の自分に価値がなかったのだ。
『みんなに合わせないお前に価値などあるものか』
そういう事だった。
思い出せば誰にも選ばれない人間だった。
思い出せば女子に気持ち悪いといわれる人間だった。
思い出せば気弱でヘタレで何ひとつこの手に持っていない人間だった。
ああ、当然だ。元々自分には価値は無かったと思い知った。
無視が始まってから、肩をぶつけられたり物を壊されたりするようになるのは、本当にあっと言う間で、SNSに自分だけでなく家族の写真やら情報を添えて悪口が書かれても、それでもなんとか耐えていたある日、地震が起こった。
理科実験室の大きな机の下、皆と一緒に隠れようとしたら蹴りだされた。
そこには嫌悪の視線があって、だから隣の机に隠れようとした。
「なんでお前の隣で我慢しなきゃならねんだ!」怒りの声とともに蹴りだされた。
揺れる教室の只中へ。何にも守られない床の上にただ一人。
そして、振動で移動してくる椅子に腰を打たれバランスを崩して机に頭をぶつけ、一人頭から血を流して気を失った。
暗転する意識の中で、「こいつ汚ねえな!」という声と、先生の「なんで机の下に隠れなかった!」と怒鳴るが聞こえた。
その日、高校から自室に撤退し、不登校の引きこもりになった。
部屋の小さな窓からでさえ、外には学校の誰かがいるのではないかと怖くて、カーテンで締め切っている、そんな薄暗い部屋だけが居場所だった。
普通なら高校を卒業する歳になっても、大学を卒業する歳になっても、社会人になる歳になっても部屋を出られず、心に後悔と劣等感と、言いようのない不安が降り積もっていった。
押しつぶされるような不安を和らげてくれたのは、ゲームだ。
だから、ゲームに没頭し、あらゆるゲーム世界を冒険した。
頑張れば頑張った分だけ強くなる冒険世界に充実を感じたし、自分のやりたいように正義を貫ける自由な世界に心地よさを感じた。
でも、ゲームはゲームだ。ゲームの中でいくら正義を貫こうが成長しようが、現実は変わらない。
それも分かっていた。
心を虚しさが支配した頃、彼女の名前がニュースに出た。
真面目だけど堅物ではなくて、素直で正直だった彼女。
間違っていると思ったら友達にでもきちんと意見を言うけれど、相手の意見もきちんと聞ける彼女。
本が好きで、頭が良い彼女。
以外に猪突猛進で、先生にすら意見を言って苦い顔をされていた彼女。
何をされても毅然としていた彼女。
無敵なんかじゃなくて、零れ落ちそうになる涙を何度もこらえていた彼女。
遠くから見ているだけだったけれど、彼女はそんな人間だった。
その彼女が、最高峰の文学賞を受賞した輝かしい若き作家として喝采を浴びていた。
ペンネームではなく、あの高校時代を過ごした本名で。
苦しかっただろう時代を過ごした自分そのものの名前で。
PCモニタを掴む両の手が、かすかに震えていた。
誰も彼も敵だらけの教室内で、背筋を伸ばして座っている彼女が思い浮かんだ。
途端に、胸のうちに想いが湧きあがった。
彼女と自分との差に劣等感が噴出し、無力さに虚しさが広がり、眩いばかりの輝きに嫉妬し、最後にやっと祝福の気持ちが湧き上がった。
どの位画面を眺めていたのか、すでにニュース画面を写していたPCモニタは暗転していて、そこには、着古してヘロヘロの部屋着を着た、無精ひげで、伸ばしたままのボサボサの長髪をした、情けない表情の男の顔が写っていた。
その時の感情はなんだっただろう?
俺は何を思ったっけ?
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今、ぼんやりと思い出せるのは、そこまでの記憶だ。
はっきりしない記憶と、状況を飲み込めない現状に、思わず唸り声が出る。
「うううううううん…」
出られない部屋から、何がどうなってこうなったのか…。
今、目の前には別の世界が広がっている。
それも、『霊の世界』と『剣と魔法と魔獣の世界』が重なった『異世界』が。
神様、これは何かの罰ですか?
そうとしか考えられない事実をもう一つ、おまけに付けて。
信じてもいない神様の名を呼ぶ自分の滑稽さに、思わず失笑した。
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