12

──────────


 薄雲のかかる穏やかな朝。

 シェル・レーボは、何事もなかったような静けさに包まれている。

 町を囲む山から窓を一直線に通り抜けた朝陽に目を細め、麻のローブに着替えたキアノスはそっと部屋を出た。


 静かに廊下を通り、宿と酒場の出入口から外へ回ると、裏口に向かう。

 昨夜、黒衣の魔術師らしき男が立っていた塀が見える。歩み寄り、何とはなしに塀に掌を這わせてみるが、特に何があるわけでもなかった。

 畑にも荒れた様子はなく、むしろキアノスの足跡が塀沿いの土に転々とついているだけだ。

「この向こうは……っと」

 キアノスは両手を塀にかけて飛び上がり、塀の外側を眺めた。

 どうやらここは町の端であるらしく、塀の外は丈の低い藪がびっしりと茂っている。まだ春のはじめであり、藪とはいっても硬い枝が絡み合いもつれあう天然の罠のようだ。そこから背の高い広葉樹林へと植物がグラデーションを描き、アーチェン街道の両脇にそびえる山々へと広がっていくのが見えた。

「どうやって来て……どこへ行ったんだろう……」

 ひとしきりあちこち見回してから、キアノスは塀を飛び降り、畑やプランターを眺めながら酒場の倉庫の裏口の方へと戻った。

 そして、ふと足を止める。

「…………?」

 昨夜キアノスが後ろから襲われ、動きを封じられた場所だ。あの後、一歩も動けないでいたところに倉庫の窓から漏れる光が目に入ったので、ほぼ間違いない。

「これは……!」

 キアノスのブーツの先に落ちていた物。それは、見たこともないほど大きくて光を吸い込むように艶のない、一枚の真っ黒な羽だった。

 キアノスの頭を、酒場で聞いた噂話の数々が駆け巡る。

(これは、“黒い殺人鬼”の……いや、その使い魔? それともロスミーさんが昨夜のことに気付いて、目印に置……いやいや、ただの鳥の羽か? ……うーん)

 キアノスは膝をつき、注意深く羽を摘み上げた。そっと裏返し軽く振ってみたが、親指から小指まで目一杯伸ばしたよりも更に長いその羽は、しなやかに揺れるだけだった。繊細な羽毛はきめ細かく伸び、落ちてからそう長くは経っていないようだ。


 キアノスが立ち上がろうとしたその時、至近からもの凄い声が響き渡った。

「ドロボーめ!! 覚悟おし!」

 はっと腰を浮かせ警戒の体勢をとろうとしたキアノスに、頭上から大量の水が降り注いだ。鼻と口が一瞬塞がれ、服が腕と足にまとわりつき、むせ込む。

「今日という今日は許さないよ! そのままおとなしく……えぇいっ!」

「え」

 倉庫の窓から大柄な身を乗り出したネーサが、空になった大きなバケツを思いっきりキアノスの頭に被せた。

「いっ……!」

 ガン、という鈍い音。

 バケツと衝撃で目の前が暗くなり、キアノスはあらぬ方向から迫ってきた地面に叩きつけられた。

「ネ、ネーサさ……」

 力なく宙を掴んだ腕から包帯がのぞいたのを見て、ようやくネーサはバケツをかぶった曲者が新米魔術師だと気付いて大笑いした。

「あっはっは、なんだぁ! 今朝は窓の近くに置いといた芋の袋が荒らされてたから、てっきりドロボーかと」

「な、なんで僕が……」

 バケツの中で声がガンガンと響き、キアノスの目に涙が浮かんだ。

 起き上がりバケツを外すと、チカチカと黄色や赤の火花が飛ぶ視界に目が眩む。

 そこへ、軽快に土を踏む音と金属がぶつかる音が近づいてきた。ネーサの大声を聞いて駆けつけたらしいロスミーが、建物の角から姿を見せる。

「おはようございます、ロスミーさん! あ、いや、僕はドロボーじゃなくって……」

 ずぶ濡れのキアノスが慌てて事情を話し始めたが、ロスミーは尊大な手振りでキアノスを制した。その今までにない鋭い目は、キアノスが摘んだ羽を凝視している。

「それを、いつ、どこで拾った!?」

 緊張感を孕んだ、威圧的な声。

「い、今、ここで、ですが……」

「よし……よおし! やはり“黒い殺人鬼”は近くにいる。でかしたぞ、新人君!」

 ロスミーの顔にあからさまな打算と野心がぎらついているのを見て、キアノスはふと、奇妙に思った。

(ロスミーさんは……なぜ殺人鬼と羽をすぐに結びつけたんだろう? 何か、知ってるな……僕の知らないことを)

 旅中にしては華美な装備や役者のような大仰な身振り手振りに、何か他のものが隠れている。

 そう直感が告げている。

 キアノスは、相手の真意を探る方法として魔力の揺らぎに頼ってきたことを後悔した。学院の生徒や教官なら有効だったのだが、ロスミーのような魔術の心得がない者は例えどんなに強い魔力を潜在的に持っていたとしても、それと感情や意識が結びついてはいないからだ。

(疑うのは失礼なことかもしれないけど……)

 ロスミーに対する微かな疑心が、頭をもたげたキアノスであった。






<黒い噂> 終

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る