一方のシウルは、魔力カウェルの網に張りついたまま固まっているキアノスを見、僅かに顔を動かしてアラニーとカトルールが手持ち無沙汰に軽口を叩き合っているのを見やり、またキアノスに視線を戻した。

(あいつらは何とも思っていないんだろうか?)

 なんとも無様な門出だ、と、シウルは己の言った言葉を心の中で繰り返した。それははたして、あっさりとカトルールの罠にかかったキアノスだけに向けられた言葉だったのだろうか。

 《共有魔術》ごときに慌てふためくアラニー、罠を発動させただけで満足しているカトルール、そして隙だらけだった自分。

 シウルはひとつ気合を入れるように息を吸い、大声で二人に告げた。

「森の出口を真夜中まで見張るぞ! こいつが来なければ、学院に戻ったか森を永遠に彷徨うのを選んだと思ってやろう。いいな? ……生きて世に出たいなら、その青いローブを脱いで森の出口に来い!」

 もちろん、最後の一言はキアノスに向けた最後通告である。

「ぎ、ぎりぎりまで考えたいから、せめてこの網を解いてくれないかな」

「一人前の魔術師なんだろ? 栄えあるハイ・クラス卒業生なんだろ? これぐらい、ひとりで抜けてみろよ」

 鼻で笑う声に続き、森の地面を踏む音がキアノスから遠ざかっていく。続いて背後からも甲高い冷笑と足音がキアノスを通り過ぎていいく。

 キアノスと魔力の蜘蛛の巣との孤独で地味な戦いが始まるかと思われたが、足音のひとつがおもむろに止まった。

 メゾソプラノの声が、キアノスに語りかける。

「そうそう、あなた。森を出る道は全て“夢幻の力”で森の出口の門につながっているのは……御存じ?」

「えっ、あ、知ってるけど……」

 キアノスは、この巨大な蜘蛛の巣を“解呪”するために有効そうな呪文を探して頭の中で再び魔術書をめくっていたが、慌ててそれを閉じた。

「確か、学院の敷地に門は四か所。僕らは西の門からしか出られな……」

「つまり逃げ道はないってことだよ! 姉様、言い方が親切すぎるって」

 かなり先の方から金属的な高い声が飛び、苛々したような足音が続く。

 先に立ち止まった足音の主、カトルール・ドレップは、つい先ほどまでシウルのいた場所まで近寄り、妹の方を振り向いてなだめるように艶やかに笑った。

 そしてキアノスに向き直ると、アームカバーに覆われた腕を挙げて細い人差し指と中指をぴんと伸ばした。歌うような抑えた声が、微風に乗ってキアノスに聞こえてくる。

「赤は優美の色、優美は蜘蛛の糸――」

 間断なくささやきながら、色白な美しい指が宙に踊る。

(共通語だけど……これは呪文の詠唱だ!)

 キアノスがそう気づいた瞬間、体を拘束していた魔力の糸が綿毛のように細かく分散した。妙な体勢で落下し、キアノスは片肘と膝をしこたまぶつけてしまった。カトルールは、キアノスを引っかけた罠を仕掛けるための魔術の紋を、なぞって消していたのである。

「痛……あ、ありがとう」

 礼を言うのも変だとは思ったが、とりあえず、キアノスにはとっさに言葉が浮かばなかった。

「カトルール! 余計な情けをかけてる暇はないぞ!」

 生い茂った草木の向こうからシウルの声がする。シウルはこの4人の中でアラニーと並んで一番年下なのだが(ついでに背丈もアラニーといい勝負である)、その声はまるで軍隊で部下を叱責する上官のようによく通る。

 カトルールは眉をひそめて木立の先に目をやり、苛立ちを隠そうともせず引き返してくる妹を滑らかな仕草で制した。そして、キアノスを琥珀色の瞳でじっと見つめ、微笑をたたえて声をかける。

「あなた……心に迷いがあるのじゃなくって? 学院の森は、魔術師としての覚悟が不出来な者を決して出口に辿り着かせてくれないわよ?」

 予想外の、だが決して的外れではない言葉が、キアノスの胸に微妙な不快感と共に染み込んでいく。

「姉様! そんな半端なヤツとマトモに話すことないってば。行こう、シウルに置いてかれる!」

「これが一流を志す魔術師の懐の深さってものなのよ、妹。ちまちましないの」

 早口で噛みつく妹にカトルールは悠然と応え、胸元のローブの袷にぴたりと指を置いた。

 キアノスをまっすぐに見つめる、確固たる自信に満ちた態度。それは、グラマーなカトルールの姿を一層美しく見せる。

 赤い、形の良い唇に余裕の笑みを浮かべ、カトルールはまくり上げたままだったローブの袖の金具を外した。チン、という軽い音がして、幅の広い袖が腕を下ろした彼女の指先まで覆う。

 キアノスは揺らぐ己を感じた。

(確かにそうだ……僕には迷いがある。迷い……ではないのかもしれないけれど、足元の定まらない、何かが)

「ふふ、森の出口で会えるといいわね」

 その声をキアノスが認識した時には、既にカトルールは妹と共に木陰からに消えていくところだった。

 いまだ仄かに光る、千切れた魔力の網の中にへたり込んだまま、キアノスは場違いな貴婦人のようなカトルールの後ろ姿を見送っていた。

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