呪われ彼女とおれの秘密

長谷川昏

1.夕刻、喫茶おさない

「今日、何があった?」

 学校帰りの彼女におれはそう訊ねるけれど、返事は戻らない。


「じゃ、代わりに言おうか? そうだな……まずスタンダードなところで鳥糞の落下か? それとも二階から植木鉢が降ってきたか? いや、そうじゃなく小学生か中学生の暴走自転車にはねられそうになったか?……いいや、今日はあれだな、途中寄り道したどこかの店で万引き犯と間違えられたんだろ?」

「う……」


 思いついた推測を向けると彼女は目を逸らし、唇を硬く結ぶ。毎度の表情を窺わせる相手にかける言葉はとりあえずない。この後少し間をおいて落ち着くのを待ってから、改めて話すのが吉だった。

「まぁいいよ。ほら、とにかくこれでも飲めよ」

 おれは湯気の上がったコーヒーカップを彼女の前に差し出す。

 淹れ立てのよいかおりに気づいた表情が少しだけ緩む。形のいい薄桃色の唇がほんの僅か綻んで、言葉が漏れた。


「ありがとう、吟爾ぎんじ

 カップに伸ばされた彼女の指には、全て絆創膏が貼られている。

 切り傷や擦り傷、それは手の甲や腕にまで至り、カウンターテーブルの向こう、今は見えない制服のスカートから覗く両脚も同様の有様だった。


「これ、すごくおいしい」

 一口飲んだ彼女が、こちらを見上げる。

 夕方の『喫茶おさない』に他の客はいなかった。

 毎朝開店直後から近所の爺さん婆さん連中が寄り集まって賑やかになる店だが、夕暮れともなればこんなものだった。停学中のおれに店番を押しつけて、とっとと遊びに出かけた祖母のキミが、元々儲けも気にせず道楽のようにやっている店だから、小一時間後には本日もなんとなくこんな感じで営業終了を迎える。


「そっか、そりゃよかった」

 そんな店のコーヒーだから、もちろん味は特に褒めるほどのものでもない。

 しかしその顔にはようやく笑みが浮かび、だがそれを見取れば、今度はおれの方が目を逸らす番になる。

 彼女の肩に触れるぐらいの髪は薄い栗色をしていて、色白の肌と合っている。片方のサイドを丁寧に編み込んだ髪型は、整った顔立ちをすっきりと見せていて誰の目にも好感を抱かせる。

 自分でも馬鹿みたいだと無論自覚はあるが、一度では飽き足らずに何度も惚れ直してしまいそうになる笑顔には、毎度心拍数が跳ね上がる。しかし自制心に欠けるとしか言いようのないその反応が、気恥ずかしいものでしかないのは誰よりも自覚している。故に毎度の如く視線を剥ぎ取るように、彼女から目を逸らす行為に至った次第だった。


「吟爾」

「なんだ? 十和とわ

 おれは何事もなかったように気を取り直すと彼女、曲輪くるわ十和の呼びかけに応える。

 彼女はカップを両手で包むようにしながらカウンター越しのおれを見上げると、僅か表情を消してぽつりと零した。


「今日は運がよかった」

「ん、そっか」

「……確かに本屋さんで万引きしたって疑われたけど、本当に万引きをしてた人がいて、その人を目撃してた人がいたから、疑いはすぐに晴れた」

「へぇ」

「でも今度はその疑いを晴らしてくれた人が、どうしてだかつきまとってきて、店の外まで追いかけてきて、それで……あとはその人を振り切るのが大変だった……」

「はぁ?」


 本日の顛末を吶々と語った十和は、そこまで言い遂げると俯く。

 運がよかったと彼女は言ったが、それは全体に於けるその一端でしかなかったようだ。

 もう一度見ると、塞ぎ込んだ様子の彼女は無意識なのか右手首に触れていた。今更気づくことになったが、その場所には昨日はなかった新しい絆創膏が貼られていた。


「十和、その手、怪我したのか?」

 問いかけると触れていたことに十和も今気づいたのか、ふと顔を上げる。

「あ、これ……その人に手を掴まれた時に少し……」

「怪我させられたのか?」

「ううん、ちょっと擦り剥いただけ。一応絆創膏は貼ったけど……」

「見せてみろ」


 おれは十和の手を少し強引に取って、怪我の様子を見てみる。

 三枚貼りつけた絆創膏の下で、傷は今も痛々しく血を滲ませている。おれはカウンターの下から救急箱を取り上げると外に回り、彼女の隣に座った。

「注意して剥がすけど、痛くしたらごめんな」

 絆創膏を剥がしていくと、爪で引っ掻いた傷が白い肌に浮き上がっている。間近で見ると痛々しさが三倍増しになり、追随するようにこれを負わせた相手への感情が乱雑に混ざる。しかし今は目前の手当てが最優先事項だった。


「結構傷が深いな。随分乱暴にされたみたいだ」

「……その人、なかなか手を離してくれなかったから……」

 それを聞くと今程の感情が再び前に出ようとするが、再度堪えて消毒液を取り出す。

「……ちょっとしみるぞ」

 なるべく刺激を与えないように試みたが、十和の顔には痛みが掠める。それを間近で目にすれば、今度は後悔だとか自戒だとかそんな感情が過ぎった。


「おれが傍にいたら、まだマシな展開だったかな」

「……ううん、こんなの全然大したことじゃないし、全然大丈夫だよ、気にしないで、吟爾。でも、ありがとう……」

 呟きには静かな声が戻る。

 どれだけ注意を重ねても彼女の元へ舞い降りてしまう不運は、昔から彼女の日常事だった。それを受け入れることと、慣れることが別物の感情であるのはおれにも分かっている。だがもし彼女を一人にしなければ、今日の出来事は起こらなかったかもしれない。けれどそうできなかったのは、自らの愚行の末の自業自得が確実な理由としてある。


「はい、終わり」

「うん、ありがとう吟爾」

 もう一度礼を言って微笑む顔を、今度は悔恨という名のもので直視できない。

 しかし顔を上げ、傍にある姿を目に映す。

 彼女の薄茶色の大きな瞳は、今は片方しか見ることができない。左目は現在医療用眼帯で覆われていて、唇には裂傷痕も残っている。どちらも腫れは引いているが、完治に至るまでにはまだ数日かかるはずだった。

 この時は現場にいたから、は知っている。

 一週間前、隣のクラスとの体育の合同授業中、ソフトボールをしていた十和の身にその出来事は起きた。

 外野を守っていた十和は飛んできたボールを取ろうと、頭上を見上げた。でもボールより先に彼女に到達したのは〝別のもの〟だった。


 突然どこかから飛来した一羽のカラス。そのカラスがなぜか十和の顔面目がけてぶち当たり、彼女はその衝撃に転倒した。

 一方カラスは何事もなかったように無傷で飛び去り、その場に残されたのは左目周囲の打撲を負い、転倒の衝撃で唇を切った十和の姿と、彼女のグローブから零れ出て、この光景をまるで嘲笑うかのようにころころと転がっていくボールの姿だけだった。

 いつものことと思いつつも、自分を含む他の生徒達は何も言えずに、すぐに動くこともできなかった。

 不可避な不運になぜかいつも巻き込まれる少女。十和に対するその認識は彼女の身近にいる者なら皆共有している。大小様々だが、彼女の身には時に信じられない不運が重なって起きることがある。そしてある意味理不尽にも思える怪我をする。この一週間前の出来事もそのひとつでしかなかった。


「あ」

「どうした、十和」

 救急箱を手にカウンターの内側に戻ろうとするとその声が聞こえた。振り返ると、十和の視線は窓の外に向けられている。

「あの人……本屋で会った人、まだついてきてる……」

「何だって?」

 視線を辿ると、そこには男が立っている。

 見知らぬ男はにやけた笑みを浮かべ、窓の外で無邪気に手を振っている。その能天気としか言いようのない姿には言葉も出ない。しかし何よりも先に、先程の乱雑な感情が蘇ったのは言うまでもなかった。


「あっ、待って! 吟爾」

 背に十和の声が届いたが、もう身体は動いていた。

 彼女に降りかかる不運を止められなくても、僅かでも盾になり、支えになることはこんな自分にもできる。

 小山内おさない吟爾、高校二年、現在停学中。

 彼女への思いと、自らの自業自得と避けられない因果応報に時に大いに悩む。

 なぜ停学中かについては、今能天気男の顔面を有無を言わさず殴りつけたこのおれの行動が大方を物語っている。

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