第十章 天正十一年十二月二十八日
第33話 餅つき
【顕如の日記】
天正十一年十二月二十八日
朝から外が賑やかだ。今日は餅つきが行われる。しかし、私は参加できないらしい。したいのに。餅つきには、ちょっと自信があるのに。確かに私は本願寺では一番偉い。だが殿上人ではないのだ。餅くらいついても罰は当たらないだろう。でも、卜半斎が駄目だと言うのだ。私は本当に偉いのだろうか。
そう言えば卜半斎に、しばらく外を出歩くなと言われた。特に寺内町の外へは出てはならぬと。何やら難しい顔をしていたが、何か起こっているのだろうか。まあどうせ、たいした事ではあるまい。卜半斎は細かい事にうるさすぎるのだ。早死にするぞ、と言ってやりたい気分。
◆ ◆ ◆
年の瀬も押し迫り、貝塚寺内町の家々には早くも正月気分が漂っていた。通りに湯気が飛ぶ。声が飛ぶ。わいわいとした熱気。末広がりの二十と八日、人が集まるその中心では、餅つきが行われていた。
しかしナギサのイメージしていた餅つきとは少し違う。
着物の片肌を脱いでその竪杵を振るっているのは、孫一郎。ギャラリーのかけ声に合わせて、自分の身の丈ほどもある杵で、どんどん餅をつき上げて行く。観衆の後ろから眺めていた海塚は、驚いたような呆れたような顔をしていた。
やがて二
「孫一郎は体は小さいくせに、たいしたもんだね」
ナギサの言葉に、孫一郎は着物に腕を通しながら、いやいや、と首を振った。
「腕の力はあるのです。子供の頃から
何故だろう、ナギサはカチンときた。
「それが何かいけないの」
誰だって最初から上手くは行かない。どんな人間にだってそんな時期はあるはず。それを何だ。ナギサは自分の中の憤りが抑えられなかった。それが顔に出ていたのだろう、孫一郎は慌てて言葉をつないだ。
「あ、いや、鎚にも剣にも、筋というものがあるのです。それがしはどうにも、その筋が悪くて、父にも師匠にも不甲斐なく見えたのでしょう」
「でもだからって」
ナギサの怒りが、その口をこじ開けようとしたとき。
不意に孫一郎の背後に、海塚の姿が入ってきた。ナギサが一瞬言いよどんだ隙に、海塚は気のない言葉を発した。
「剣に関して言うなら、そりゃあお師匠さんの言う事が正しいです」
ムッと膨れているナギサを横目に、海塚はちょっと口の端で笑ってこう言った。
「腕の力だけで刀を振り回しても、実際に斬れるのは二人か三人でせいぜいでしょう。でも
剣について、海塚が教訓めいた事を口にしたのは初めてだったからだろうか、孫一郎は食いつくように問いかけた。
「頭を使えという事でしょうか」
「頭も使え、という事ですよ」
それだけ言うと、海塚は人垣の向こうへと姿を消した。しかしナギサの腹の虫は治まらない。何でこうも腹が立つのか。孫一郎は困ったような笑顔を顔に張り付けている。
その怒っているナギサのコートの袖を引っ張る者が居た。視線を落とすと、みぞれが小皿に餅を乗せて見上げている。小豆のあんこが添えてある。その小皿を、ナギサの顔に向けて無言で突き出した。食べろというのだ。ナギサは柔らかい餅であんこをくるむと、大口を開けて頬張った。二度三度と口を動かし、勢いよく飲み込む。
「……しょっぱい」
「この時代は、まだ塩あんが普通にあったと言えるね」
ピクシーの声が脳に響く。ナギサは、ちょっと気分が治まった気がした。
餅つきの歓声を聞きながら、甚六は通りの端に座り込んでいた。手は草鞋をいじりながらも、視線は孫一郎から外さない。
とうとう守人は、甚六ただ一人になってしまった。六衞門の最期の声が、今も耳に残っている。
――甚六、行け
何処へ行けと言うのか。自分は一体、何をしているのだろう。父を失い、友を失いながら命がけで戦って、けれどそこまでして守った相手は、何も知らぬ顔で呑気に餅をついている。ここまでする意味はあるのか。守人とはそんな価値のある役目なのか。自分はもしかしたら、とんでもない間抜けな事をしているのではないか。甚六の胸の内には様々な疑問が湧き上がっていた。
「餅は嫌いですか」
甚六の目の前に、餅の乗った小皿が差し出された。目に驚愕を浮かべて振り返ると、四十がらみの、やる気のなさそうな男が立っている。いつの間に。いくら孫一郎に注意を向けていたにしても、こんな近い距離に迫られるまで、まったく気づかないなどという事があるだろうか。
「珍しいですねえ、餅が嫌いな人なんて」
男は小皿を引っ込めると、自分で一口かぶりついた。
「あんた、誰だ」
逃げ足には自信がある。走り出すのは、相手の返事を聞いてからでも良いだろう。甚六のそんな思いを知ってか知らずか、男は質問に質問で返してきた。
「あなた、昨日の朝の人ですよね」
ここに至り、ようやく甚六は理解した。この男、あの路地の奥から出てきた男だ。確か地侍と言っていた。甚六は顔を背けた。
「……助けてくれた事は恩に着る」
「着なくて良いですよ、面倒臭い。それよりあなた、古川さんのお知り合いですか」
しかし甚六は答えず、こちらも質問に質問で返した。
「俺の仲間はどうなった」
「死にましたよ。本願寺に運びましたから、近々無縁仏の墓に入るでしょう」
「何から何まで済まない」
「本当ですよ。いくら戦がありふれた時代だといっても、家の目の前で死なれたんじゃ迷惑です。気分が悪い」
「もしかしたら、俺もあんたの世話になるかも知れない。今のうちに謝っておく。すまん」
男は横目でジロリと甚六をにらんだ。
「そこまでする意味があるんですか」
それは甚六には、つらい問いかけだった。
「意味があるのかどうかはわからない。だが、俺に任せられた役目だ。俺が応えなきゃいけない仕事だ。俺はそれをするしかない」
いったい誰に向けての言葉なのだろう。自分の口から出た言葉が、甚六の胸に刺さった。
「お役目大事ですか。お武家でもあるまいに、面倒臭い事ですね」
男の口調に哀れみが滲んでいる。
「自分の方を見てもくれない人のために命を賭けるなんて、私なら絶対にご免ですけど」
腹が立ったわけでもないが、甚六は小さな反抗を試みた。
「あんただって、昨日は命がけだったんじゃないのか」
「私は勝てる喧嘩しかしません」
それだけ言って男は背を向けた。甚六は慌てて声をかける。
「なあ、頼む。俺の事は」
「誰にも言いませんよ、面倒臭い」
男は振り向かずに去って行った。甚六は餅つきの方に目をやる。しかし孫一郎の姿はもうなかった。
人が行く。人が行く。紀州と和泉の
目指すは貝塚、根来の付け城。澤城、畠中城、積善寺城、高井城、千石堀城の、近木川沿いの五城に向かって、根来と雑賀の一揆勢が足を進めていた。それを、離れた樹の上から見つめる視線。盗人の松蔵がそこにいた。じっと静かに、何かを推し量るかのように、一揆衆の行進を見つめ続ける。そしてつぶやいた。
「これしかないか」
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