第10話 天狗娘

 その力が目覚めたのは、六つになったばかりの頃。おりから続く日照りで、田圃たんぼも川も涸れ果てたとき、少女は天を指さしてこう言ったのだ。


「明日、雨が降るよ」


 翌日、本当に雨が降った。そしてその雨が、今度は三日降り続いたとき。


「堤が崩れるよ」


 その言葉通り堤は崩れ、川は氾濫はんらんした。


 これがきっかけとなり、城下の人々は噂を口にするようになった。


「吉岡の娘子には、天狗がいておる」


 やがて噂は城下から城中へと伝わり、殿さまの耳にも入るようになった。下級武士の父親は城主に呼ばれ、娘を連れて城中にまかり越した。


「天狗娘の話が、聞いてみとうてな」


 殿さまは優しい笑顔で、そうたずねる。父親は頭を床に擦りつけんばかりに下げた。


「恐れながら申し上げます。天狗などとは言いがかり、ただの子供のれ言が、たまさか幾つか当たっただけに過ぎませぬ。殿のお耳を汚すような事は何も」


 扇子を開いては閉じ、開いては閉じしながら、殿さまはなおもたずねる。


「まあまあ良いではないか。みどもは毎日毎日、戦の事ばかり考えて、気が疲れておるのじゃ。たまには子供の戯れ言が聞いてみたい。娘子の名は何と申す」


 そう言われては、父親も答えざるを得ない。


「はっ……みぞれと申します」


「ほう、みぞれか。可愛い名じゃな。どれ聞かせておくれ、みぞれや」殿さまはこうたずねた。「サルとタヌキはどちらが強いと思う」


 みぞれは小さな体を父親の背に隠すように立ちながら、首を傾げた。


「どっちも強いよ」


 殿さまの扇子が動きを止めた。


「では、どちらが勝つ」


「どっちも勝つよ」


「どっちも? どういう事じゃ」


 父親が慌てて割って入る。


「殿、ですから戯れ言でございますので」


「おまえは黙っておれ!」


 殿さまが床を扇子で叩いた。少女は怯え、涙を浮かべる。しかし殿さまは回答を迫る。


「どちらも勝つとはどういう事じゃ。わかるように申せ」


「……最初におサルさんが勝って、次にタヌキさんが勝つの」


 それを聞くと、殿さまは難しい顔になり、何かを思案した。そして再び優しい笑顔を浮かべた。


「ではみぞれ、みどもはどうすれば良いかのう。サルと仲良くするべきか、タヌキと仲良くするべきか」


「わからない」


「わからない? どうしてわからない」


「だってもうすぐ」


「もうすぐどうなる」


「お城が焼けてしまうから」


 扇子が床に叩きつけられた。殿さまは何かをわめいていたが、もうみぞれには聞き取れない。ただただ恐ろしかった。


 家老から蟄居ちっきょを命じられ、父娘は家に戻った。心配した母親が、家の外で待っていた。しかし憔悴しきった様子の夫に、声がかけられない。母は無理矢理笑顔を作り、泣きべそをかいている娘の涙を拭った。


「ほら、元気を出しなさい。ご飯ができていますよ。みんなで一緒に食べましょう」


「ねえ、かかさま」


「なあに、みぞれ」


 少女は怯えた様子で母にこう問うた。


「かかさまはどうして首を吊っているの?」


 母の顔が凍り付く。言葉が出てこない。


「ととさまはどうしてお腹を切っているの?」


 父は膝をつき、娘の両肩をつかむと、その目を正面から見つめた。怯えた目が見つめ返す。確信した。この子には、すべてが見えているのだと。


「全部みぞれが悪いの?」


 父はみぞれを抱きしめた。母はその腕にすがった。もはや二人には、ただ声を殺して泣く事しかできなかった。



 その夜、謎の黒い影の集団が吉岡の家を襲った。嵐の如く訪れたそれは、あっという間に娘のみぞれを引っさらい、何処へともなく姿を消した。


 数日後、娘を隠した罪で、父には切腹が言い渡された。母はその後を追って首を吊った。それから一ヶ月と待たずして、城は焼け落ち、殿さまは首を取られた。それをみぞれは随分と後で知った。今からもう三年ほど前の事である。




 みぞれは闇の中で目を覚ました。すぐ近くに、孫一郎とナギサの寝息が聞こえる。静かな冬の夜。ふと何かが見えそうになる。だがみぞれは見ないようにした。内なる目を閉じ、心を塞げば何も見えない。この三年で覚えた事である。何も見ず、何も口にしなければ、誰も不幸にならない。


 自分は不思議な力を持っている。だがそれは、誰のためにもならない悪い力なのだ。だから封じよう。改めてそう考えると、心が少し安らかになった。今日は疲れた。今は眠ろう。


――眠れない。どうして。


 今日は冒険の連続だった。みぞれは三年間、誰にも逆らわなかった。逃げようともしなかった。それが当たり前に見えるように。そしていつしか、本当に当たり前になった。みぞれはもう逃げない、誰もがそう思った。だから西国から三河に向かう途上、船が岸和田の港に着いたとき、彼女を縛るものは何もなかったのだ。みぞれはそれを見逃さず、逃げ出した。そして人さらいたちに追われ、孫一郎とナギサに救われ、今はここにいる。


 そう、あのときみぞれは助けを求めた。すると孫一郎が現われた。そしてナギサも。偶然だろうか。みぞれの不思議な力が呼び寄せたのではないか。この力は、みぞれを助けてくれるのではないか。いや、駄目だ。そんなことを考えてはいけない。


 まだ気が張っているのかも知れない。だから眠れないのだ。みぞれはそう思った。ここにいれば大丈夫、ここは安全……本当にそうだろうか? 何かが心の中で鐘を打つ。心の目が映し出すものを見ろと叫んでいる。嫌だ、もう見ない。もう見ないと誓ったのに。


 みぞれがその目を固く閉じたとき、耳に届いたのは、海塚家の玄関の戸を蹴破る音。あのときと同じ音。跳ね起きた彼女が戸口に見たものは、夜より暗い人型の闇。あのときと同じ闇。それは嵐の如く屋内に侵入した。だが。

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