3-2

 それからしばらくして、陽史と彩乃は店を出た。そういう決まりなんだから仕方がないと割り切るつもりではいても、いざ彩乃に財布を出してもらうとなんとも言えない居心地の悪さや後ろめたい気持ちが先に立ち、陽史の胸は鉛を押し込まれたように重い。

「じゃあ、今回のバイト代ね。また誘わせてもらってもいい? 悪いなーとは思うんだけど、君、本当にいい子そうだから。……都合が合えばでいいんだけど」

 そんな中、往来の端っこに移動した彩乃は、周りから隠れるようにしながら、出したままだった財布から紙幣を抜き取り、陽史の前に差し出す。今回はしわ一つない綺麗なものだった。同じく福沢諭吉が描かれたそれに、けれど陽史は咄嗟に顔を背ける。

「そっか、欲しいものも多いだろうし、これじゃあ足りないよね」

「――いや、受け取れないです」

 もう一枚取り出そうとした彩乃の手を取り、陽史は声を固くした。掴んだ手は一週間前と変わらず、目の覚めるような赤をベースにしたネイルが鮮烈な色を放っている。

「え、もう派遣メシ友はやめたいってこと……?」

 そうひどく悲しげに瞳を揺らした彩乃に、陽史はふるふると首を振った。

「そんなんじゃないです。そんなんじゃ。ただ、俺もこのままでいいのかなと思って」

「このままって?」

「俺、昔から根性なしなんですよ。バイトも長続きしないし、一人暮らしの部屋だって人に見せられるようなものじゃありません。つい最近ちょっとあって、今は気心の知れた男友達くらいになら見せられるようになりましたけど、この《派遣メシ友》も喜多さんに騙されるような形で始めたに過ぎないんです。てか、約束をしたあとに知らされるんで、どうにも断りきれなくて。待ってるんだろうなと思うと、申し訳ないじゃないですか」

「ああ。じゃあやっぱり、これを機にやめたいんじゃない」

 納得したように言う彩乃に、けれど陽史は再びふるふると頭を振る。

「違うの?」

「はい。……俺、彩乃さんで二人目なんですけど、今も思ってます。お金を払ってまで誰かとメシを食うなんて、それでみんな満足なのかって。こんなお金のやり取りがある関係より、普通の友達と普通にメシを食ったほうが幸せだろうにって思うんですよ。喜多さんがどうだったかは知りません。けど俺は――そういうのは、俺は……」

 その先は、言葉に詰まって続かなかった。いや、何も言葉が思い浮かばなくて、続けようにも続けられなかったと言ったほうが正しいかもしれない。

 彩乃も芳二と同じで、たまの一時、気楽に後腐れなくメシを食えればそれでいいから、こうして《派遣メシ友》を利用しているのだろう。言うなれば利害の一致だろうか。そこに金銭が発生することは、もしかしたら自然の流れだったのかもしれない。

 けれど根底には、そんなものじゃ到底埋められないものを抱えている。最愛の人を亡くした悲しさや寂しさだったり、これからの自分の行く先を案じて漠然とした不安や焦りを感じていたり……。それは一時のメシ友に埋められるものではないんじゃないかと、陽史は気づきはじめていた。ただ、言葉にしようとすると上手くまとまらないのだ。そのことが陽史は歯痒く、ひどくもどかしい。そしてそんな自分をたまらなく情けなく思う。

「そっかあ。じゃあ、君とはこれっきりかな。いい子だから、すごく残念だけど」

 すると、なかなか言葉が続かない陽史を見兼ねたように、彩乃が明るくその先を口にした。〝いい子だから、すごく残念だけど〟――陽史には、だからこそもう誘わないほうがいいねと言っているように聞こえて、胸がぎゅっと押し潰されるように苦しい。

「でも、バイト代はしっかりもらってちょうだいね。これは仕事なんだし」

「え」

「それで好きなものでも買いなよ。あ、月末にはゴールデンウィークだから、お土産代にしたり帰省の足しにしたり、ほかにもいろいろ使い道はあるよね」

 そう言うと、彩乃は陽史の手に強引に二枚の諭吉を握らせ、じゃあね、と踵を返した。ぴんと伸びた背筋が勇ましく、また、振り返ることのないその姿が無性に格好よくて、陽史はしばし人ごみに紛れて徐々に見えなくなっていく彩乃の後ろ姿に見入る。

そういえば今日は落ち着いた格好をしているなと気づいたのは、そのときだ。

 ネイルこそ派手だが、今日の彩乃はメイクも髪型も服装も年相応の落ち着きとお洒落心が絶妙な具合にミックスされていて、この前の牛丼屋のときより単純に綺麗だ。

 好きだし、こちらのほうが居心地がよくなって続けていると彩乃は言う。けれど、ふとした瞬間に滲み出る所作は相変わらず美しく、陽史はそこに本当の彩乃を見た気がした。

 ただ単に陽史に合わせた格好をしてくれただけかもしれない。行く先だって落ち着いた居酒屋だったし、場所だって彼女が本来ホームにしている歌舞伎町でもない。

 でも、これこそが彼女が望む自分の〝こうありたい姿〟だったとしたら。店の誰かとではなく《派遣メシ友》とメシを食べる理由が、そこにあるんだとしたら。

 ――彩乃とはもうこれっきりだなんて、どうにも後味が悪いじゃないか。

「彩乃さんっ!」

 陽史は雑踏に向けて声を張り上げる。

 往来に響いたその声に、さすがに立ち止まり振り返った彩乃が目を丸くした。たくさんの人が行き交う中で唐突に名前を叫ばれれば、恥ずかしいし困惑して当然だろう。

 けれど陽史は、その通りの顔をする彩乃にさらに声を張り上げた。

「これ、次回のために取っておきますから!」

 喜多とはどんな《派遣メシ友》だったのかは、わからない。でも――と、そのとき陽史は思ったのだ。喜多は喜多、俺は俺だ。だったら俺は、俺のやりたいようにやろうと。

 もちろん、彩乃のために陽史に何ができるわけでもない。また、ただメシを食うだけで終わってしまうことも往々にしてあろう。それでも陽史は知りたいと思う。彼女は本当は〝誰と〟一緒にメシを食いたいと思っているのか。あの『ゾッとした』には一体どんな意味や気持ちが隠されているのか。彼女が本心から望むものは何なのか――。

 それらを教えてもらうには、やはりメシを前にするのが一番なんじゃないかと思う。

「……やっぱり君も秋成君に似て変わってるね」

 すると彩乃は、それだけを返した。すぐに踵を返すと今度こそ雑踏に紛れていく。

「彩乃さん……」

 口の中で声を転がし、陽史は彼女の背中が見えなくなるまで、その場に佇んだ。今回も手に握らされた二枚の諭吉が途端に重く感じられて、なかなか足が動かなかったのだ。


 結局、会うとも会わないともならなかったが、でも陽史には、不思議と近いうちにまた会う確信だけはあった。だって、そう言った彼女の顔が今にも泣き出しそうな笑顔だったから。大人のそんな顔を見たのは、そういえばこれが初めてかもしれない。

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