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そうして翌朝、午前五時。まだ夜が明けきらない朝まだきの中、大あくびを噛み殺しながら向かったのは二十四時間営業の牛丼屋だった。始発で勤め先のある
メモを取ったときも思ったが、思ったよりずっと近所で驚く。
田舎とは違い、都会の三駅なんてすぐなのだ。指定の時間が早朝なので近くで助かったことには助かったが、歌舞伎町なんて話に聞くだけで実際には未踏の地である陽史には、そこで夜の商売をしている人がわりと近所に住んでいるなんてと驚きだったし、なんとなく知ってはいけないことを知ってしまったような、そんな気もした。
「らっしゃーせー」
深夜バイトの大学生風の男性店員に気だるげに声をかけられつつ、陽史は起き抜けでぼやける目を凝らし彩乃と思しき女性客を探して店内をきょろきょろ見回す。
年増の姉ちゃん、年増の派手な姉ちゃん……。
何度も喜多に言われて刷り込みができてしまっているらしい。それを失礼だと思わない時点で、まだまだ頭が起きていない。でも陽史は気づかない。陽史も大概、残念だ。
すると、もしかしてこの人だろうかと当たりを付けたタイミングで、カウンター席の端っこに座って横の壁に肩を預けていた女性客が店の出入り口を振り返った。
「――あ、もしかして!」
半分寝ているようだった顔が、その瞬間、ぱっと華やぐ。
「……あの、もしかして須賀彩乃さんですか? あ、俺は喜多さんの――」
「やめてよー! フルネームとか恥ずかしすぎるでしょー!」
「はあ、すみません」
とりあえず席に近づき確認すると、彩乃は寝ぼけ眼の陽史の肩をバシバシ叩く。どうやらこの人で間違いないらしい。それはいいのだが、先ほどまでのローテンションはどこへやら、一気にエンジンを全開にするので、陽史はなかなかついていけない。
そんな陽史に構わず彩乃は続ける。
「ごめんねー。眠いでしょう、こんな朝早くにさー。けど、ほかの時間は寝てるか仕事してるかのどっちかだから、ちゃんとした時間に動いてる人とご飯を食べるには、この時間しか空いてないのよ。本当は私が早く起きられたらいんだけど、なかなかそうもいかなくって。秋成君ともこの時間に食べてたから、つい、いつもの調子で誘っちゃった」
「はあ。いや、俺は別に……」
「あ、そう? 若いねー。じゃあ、さっそく。何食べる?」
そして、メニュー表に手を伸ばすや否や、それを陽史の前に差し出した。
「お冷やっす」
「うっす」
そのタイミングで気だるげなバイトが水の入ったコップを置く。派手な姉ちゃんとモサい学生の組み合わせに怪訝な表情を浮かべていた彼だったが、彩乃とのやり取りから共通の知り合いを介して会っていることがわかり、心なしかほっとしているようだ。
いくらバイトとはいえ、あまりに突飛な組み合わせに警戒心を抱いていたのだろう。こういう場合のマニュアルもあるのだろうし、彼も陽史も、ひとまず面倒くさいことにならずによかったといった心境だろうか。今のご時世、どこで何が起きるかわからない。
「あー、すんません。起き抜けなもんで、あんまし食欲ないんです」
とはいえ、目の前に肉が載ったメニュー表を出されても、陽史は小盛りすら食べられる気がしなかった。早めに寝ようと思い床に就いたのが昨夜十一時で、起きたのが先ほど、午前四時二十分だった。四十分少々では腹の虫もまだ眠っている。
「残念。秋成君は普通に大盛りを食べてたけど、言われてみれば君が普通だよね」
「そうですよ。あの人と一緒にしないでくださいよ。どっかネジが飛んでんですって」
「ふはっ、確かに。変わった人だよねー」
そう言うと彩乃は先ほどの店員に並盛りを一つ注文した。ものの数十秒で目の前に置かれたそれに紅生姜をたっぷり乗せると、割り箸を取り「いただきます」と手を合わせる。
服装や髪型、メイクも派手だが、爪も派手だった。ベースは目の覚めるような赤。そこにゴールドやらシルバーやらラインストーンやら、キラキラした装飾が施されている。
「ネイルアートに興味あるの?」
その視線に気づいた彩乃が暴投を投げる。
「まさか! ただ、上品な手つきだなと思って」
「ああ……」
思いっきり否定しつつ思ったことを口にすると、しかし彩乃はどこか物悲しげに横顔に陰を落とし、爪の先までぴんと伸ばした左手を見つめた。
「所作っていうの? けっこうそういうのに厳しかったんだよねー、うちの親」
「そうなんですか」
「うん。子供の頃はそれが納得いかなくてさー。もっと自由に座ったり寝転がったり、好きなようにものを食べたり、周りの子がしてるのと同じことをしたいって、ずっと思ってたよ。まあ、こんな商売柄だし、今では助かってる部分も多いけど」
「へえ」
「でも、どんな大人になっても、子供の頃に教え込まれたことって、なかなか抜けないものなんだね。さっき君に言われてはっとしたし、ちょっとゾッとしちゃった」
そう言うと、彩乃は咄嗟の言葉に詰まった陽史をからかうようにお茶目に笑い、並盛りの牛丼を口いっぱいに放り込んだ。そのまま二口目、三口目と、ぽいぽい入れていく。それはまるで、先ほど言った『上品な』に反骨精神を燃やしているかのようだ。
――ゾッとした。
その言葉に、一言では言い表せない家族とのわだかまりが見えたような気がしたのは、きっと陽史の気のせいではないだろう。わざわざ見せつけるようにして牛丼を掻き込まなくても、中身は逃げないし、陽史も彼女が食べ終わるまで待っているつもりなのに。
この人には何があるんだろう……。
だんだんクリアになってきた頭で陽史は思う。聞いてみたい気もするし、ざっくばらんな彩乃なら、案外あっけらかんと話してくれそうな気もしないでもない。
けれど陽史には、その勇気はなかった。芳二との関りをきっかけに、これまでの根性なしで他力本願だった自分を見つめ直した結果、できることから始めようと徐々に生活に改善が見られるようになってはきたが、ほかはそう劇的には変われないのだ。
自分のことだけなら、気の持ちよう一つでどうにでもできる。けれど、とりわけ彩乃の場合は、夜の商売という仕事柄もあるのだろう、遠い人に思えて近づけそうになかった。
「すみません。やっぱ俺も、並盛り一つ」
とかく今の陽史にできることは、これくらいだろうか。
ひと仕事(といっても、すでに出来ているご飯と牛をマニュアル通りに丼に盛っただけだが)を終えてぼーっと突っ立っているバイトに声をかけ、陽史はようやく起きだした腹の虫に栄養を与えるため、彩乃と同じものを注文する。
その彩乃は、驚いたように目を瞠る。けれどすぐに、切ないような嬉しいような微笑を浮かべ、緩慢な動作で牛丼が盛られていく様子にじっと見入っているようだった。
「起き抜けだから食欲なかったんじゃなかったっけ?」
「隣で美味そうに食べられたら、ない食欲も湧きますよ」
ごゆっくりどうぞーと置かれた丼を前に箸を割る。
「……いい子だね、君は」
そのときぽつりと落とされた声は、箸を割った音で聞こえなかったことにした。
*
「うっぷ……。あー、もたれるー……」
「おい、人がメシ食ってるときにそんなこと言うなよ」
その日の昼、朝から講義があった陽史と和真の姿は学食にあった。昼を待ちわびた大勢の学生でわいわい賑わう学食の中において、陽史の前には食べすぎに効くドリンクタイプの胃腸薬の瓶が一つ、ぽつんと置かれているだけだったけれど。
ちなみに、和真の前には安いくせに絶品の日替わりA定食が置かれている。幸か不幸か本日は牛丼のようだ。牛の甘い匂いを嗅いだだけで胃にずしんと響くような気がする。
「悪い。朝っぱらからそれ食ったんだよね」
「それって、これ?」
「そ。牛」
「何時くらい?」
「朝の五時」
「そりゃ、健康なやつでもそうなるわ……」
椅子の背もたれに背中を預け胃をさする陽史に、和真は非難めいた視線を送る。
何やってんだよお前は、と言いたいのかもしれない。いや、その顔は確実に心の中でぶつくさ言っている。面と向かって言わないだけ、和真の優しさかもしれない。
「でも、なんでそんな時間に牛丼なんだ? 牛丼屋でバイトでもしてたっけ?」
「いや、知り合いとメシの約束をしてたんだ。その時間しか向こうの都合がつかなくて」
「はあ? どんな知り合いだよ、それ」
「ははは……」
だよなあ、まったくだよ。
呆れてものも言えない顔をする和真に、陽史も大いに同感だ。どんな知り合いなんだというのももちろんそうだが、選んだメシにも問題がある。牛丼そのものには少しも罪はない。けれど、どう甘い判定をしたところで、あの時間に食うものではない。
和真には《派遣メシ友》のことは打ち明けていないので、胃がもたれているわけを話そうと思えば自然とこんな感じになってしまうことも、原因の一つだろうか。
とはいえ、なかなか言い出せないのもまた、事実だった。
《派遣メシ友》の生みの親である喜多に口止めされているわけでもない以上、陽史は話そうと思えば話せる立場にいる。ただ、どうにも特殊なのだ。心の隙間を埋めたいという志は立派だし尊敬すると思うものの、寂しさを抱える人と一緒にメシを食うことを〝仕事〟としているシステムには、陽史は最初の時点で違和感を覚えたのも確かだった。
前回の芳二も今朝の彩乃も、メシ友の礼に謝礼をくれた。彩乃に関しては「近いうちにまた誘うだろうから」と先払いまでしようとして、陽史は冷水をぶっかけられたような思いだった。そのぶんはさすがに丁重にお断りしたが、そういうシステムを知った和真に軽蔑されないとも限らないと思うと、自然、どうしても濁した説明になってしまう。
「……陽史、お前、変なバイトとかしてないよな?」
「当たり前だろ。何バカなこと言ってんだ」
「だよな、陽史はしょっちゅうバイト先を変えるやつだし」
「なんだよそれー」
「でも、そうだろ? 俺が知ってるだけでいくつ変えたと思ってんだ」
「さあ? 多すぎてちょっと記憶がないわ」
「ったく……」
お互いに苦笑をこぼしつつした会話は、けれどどこか寒々しいような気がした。
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