二十 それから

 結局のところ、葛木の妻としての生活は三年で終わりを告げた。

 理由は簡単だ。もう二度と子供を生めない身体になってしまったからだった。


 結婚して二年目に葛木家の長男が亡くなった。義兄はまだ未婚だったので、自動的に既婚で次男の夫が、葛木家を継ぐことになってしまった。

 わたしに課せられた役目は「跡取りを生む」こと。

 ようやく子宝に恵まれ、難産の末に女の子が生まれた。しかし生まれたばかりの赤子は死産だった。

 不幸な出来事は重なるもので、わたしは二度と子供が生めない身体になってしまった。その上、普通の生活もままならないほどの身体になってしまった。

 病とは無縁だった自分が、こんな身体になるとは夢にも思っていなかった。それほど出産という仕事が大変なものだったのだと、全てが終わってから思い知った。

 葛木家は士族の血筋のせいもあって、跡取りとなる男子を待ち望んでいた。子の産めない嫁など必要ない。しかも、わたしの素性は、葛木家でも快く思われていなかった。

 気楽な次男坊だからと許してくれたものの、今の夫は葛木家の家長だ。郡司家も家柄だけで言えばなんら問題がないはずだ。でもわたしは妾の娘だ。世間にわたしの素性が知られれば、葛木家の評判は地に落ちる。

 莫迦みたいだ。そんなこと、最初から知っていたはずなのに。

 葛木家で、わたしの居場所は存在しない。引導を渡されるのも、時間の問題だ。

 そして、その日はやって来た。


「由比、話があるんだ」

 床に伏したわたしのもとへ、夫が浮かない表情で訪れた。とうとうこの日がきたのだと、瞬時に悟った。

「身体の調子が良くなるまで、しばらく実家に戻ったらどうだろう?」

 労わるような優しい言葉など聞きたくなかった。

 優しくされたら期待してしまう。いっその事、「お前など必要ない」と言ってくれた方がよっぽど親切だ。

 まだここにいてもいいのだと、勘違いしてしまうから。


 ――お前に…………もう用はない。


 ずいぶん前にあの人に言われた言葉が、不意に甦る。

 ただの思い過ごしや、自惚れかもしれない。

 でも、もしかしたら……わたしが心残りなく、葛木家へ嫁げるようにと言ってくれたのだったとしたら?

 あの言葉は、あの人なりの優しさだったのかもしれない。

 わたしが返事に困って押し黙ってしまったのだと誤解したのだろう。夫は慌てて言い繕った。


「いや、お前が嫌なら無理にとは言わない。だが、ここで過ごすよりも、ご実家での方が気も楽だろうと思っただけで……」

 相変わらず、嘘が下手な人だ。

 でも、気の優しい夫が、これを言うのにどれだけの葛藤があったのか。最近、作り笑顔すら見せなくなった夫を見ていればわかった。

「壱夜さん」

 久しぶりに夫の名を呼ぶと、寝床から起き上がり、精一杯の笑顔を浮かべた。

「お言葉に甘えて、そうさせてもらいます」

 最初から答えは決まっていた。

 帰ろう。

 あの海と山に挟まれた、小さな町へ。……あの人のもとへ。

 結局、わたしが帰れる場所はあそこしかないのだから。

「……そうか」

 夫の表情に安堵の色が浮かぶ。自然に浮かんだ笑みを目にして、自分が出した答えに間違いがないのだと知って嬉しくなる。

「今まで本当にありがとうございました」


 心から愛していなかったかもしれない。でも、大切な人には変わりない。

 ありがとう。そして…………ごめんなさい。

 泣きそうなのを見られたくなくて、畳の上に額をこすりつけるように頭を下げた。




 帰郷の日、お迎えには驚いたことに、彰子さんと正平さんが来てくれた。

 てっきり女中の妙さんが来てくれるものだと思っていたから、驚きのあまり言葉が何も出てこなかった。

「本当に、申し訳ありません」

 本当なら郡司家に戻るべきではないとわかっている。だけど、どうしてもあの家に帰りたい理由があった。もう一度、あの離れに住まわせて欲しいと手紙を書いた。

 断られてもおかしくない。妾の娘の上、出戻りなんて最悪だ。針のむしろは覚悟の上だった。

 だけど。


「馬鹿ね」

 ため息まじりに彰子さんは笑った。

「あなたの家でしょう」

 戸惑うわたしの顔を見て、あなたは本当に馬鹿ね、と呆れたようにくり返す。

「お前は何も気にしなくていいんだよ」

 少し大人びたと思っていた正平さんは、少年のように無邪気に目を細める。

「お帰り、由比」

 不覚だった。目頭が急に熱くなって、慌てて顔を伏せた。

「……ありがとうございます」


 しばらく顔が上げられなかった。正平さん……正平兄さまは、わたしの頭をぐりぐりと撫でた。

 小さな子供に戻ったような気がして、少しくすぐったい気分だった。

 ずっと、一人ぼっちだと思っていた。

 誰にも受け入れてもらえなくて、居場所なんかなくて、ずっと一人だと思っていた。

 でも、周囲から背を向けていたのはわたしの方だったのかもしれない。

 欲しかったものは、ずっとすぐそばにあったのだろうか。いじけて背を向けていたから、気が付かなかっただけで。

 もっと早くこのことに気が付いていたら、わたしの人生も少しは違うものだったかもしれない。だからと言って、後悔はしていない。

 こんなわたしだったからこそ、あの人――鬼と呼ばれるあの人に会えたのだから。

 わたしが帰郷を決めたのは、あの人に会いたいから。

 帰ればあの人に会える。

 もう命が長くないと知ってわかった。やっぱりわたしの心を占めていたのは、どこか寂しげで妙に律儀な死人喰いと呼ばれる青年だったとのだと。



 汽車での長旅は、正平兄さまのどうでもいいような与太話のお陰で楽しいものとなった。

 妙さんの用意してくれたというお弁当も美味しかった。嫁ぎ先から暇を出されて里帰りだということを、忘れてしまいそうなくらいだ。

 正平兄さまは大学を卒業後、実家に戻って家業を継いだと話には聞いていた。

 だけど、お嫁さんの方はまだのようだ。叔母さまの執拗な見合い話をどうやってかわしているのだろう。どうやら彰子さんの悩みの種となっているらしい。


「あなたももうすぐ三十でしょう。いい加減いい人を見つけて落ち着いて欲しいものだわ」

「そんな話、今はもういいでしょう」

「いつまでそんな風だと千歳さんがうるさくてたまらないの」

 そんな二人のやり取りがおかしくて、久しぶりに笑った。笑ってから、気が付いた。こうして心から笑うのは、何年ぶりだったろうと。

 帰り道は本当に楽しいものだったけれど、身体にはずいぶん堪えたようだ。駅から正平兄さまに抱えられて家路に着いた。

「ほら、由比。着いたぞ」

 耳元で正平兄さまの声がして、ふっと目を覚ました。

 厳かな門をくぐった途端、視界が桜色に埋め尽くされる。いつのまにか桜の季節を迎えていたのだと、今になって気がついた。

「きれい」

 薄紅色の桜は、今が一番の盛りのようだ。時折、ひらりと雪のように花びらが舞い散る。手のひらを差し出すと、引き寄せられるように一枚の花びらが、わたしの手のひらに納まった。

 それを見ていた正平兄さまが、小さく笑った。

「きっとお前が戻ってきて桜も喜んでいるんだよ」

 冗談めかした口調に、思わず苦笑した。

「そう……嬉しい」

「この樹ほどではないが、離れの桜もなかなか見ごたえがあるぞ。だから、後でゆっくり眺めるといい」

 だから、おやすみ。

 ぽん、と子供をあやすようにわたしの背中を叩く。

「はい……」

 素直に頷くと、そっと瞼を閉じた。すると、あっという間に睡魔に引き込まれていった。

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