しひと喰いの鬼
小林左右也
序章
時折姿を見せる墨染め衣の青年の姿を、わたしはいつの間にか目で追ってしまう。
村のどんな人よりも目立つくせに、今にも消えてしまいそうに儚いあの人の姿を、闇にまぎれて消えてゆくその姿を、何故探してしまうのだろう。自分でも不思議でたまらない。
今日も、いる。
青い葉が生い茂った桜が作るわずかな闇。そこに隠れているのは、とっくに気づいていた。
「さて、と」
勢いづけようと、わたしは縁側から降りて下駄を爪先に引っ掛けると、そのまま裏手に回った。
そこには小さな手押しポンプの井戸がある。井戸から水を汲み上げ、手桶いっぱいに水を満たすと、水が零れないようゆっくり運ぶ。
かなりの重労働ではあるけれど、少しは身体を動かした方が良いらしい。お医者さまもそう言っていた。
こうして庭の草花に水をやるのが、わたしの唯一の仕事だった。
猫の額ほどの小さな庭は、祖母のものだった。たいして顔も合わせなかった祖母だったし、彼女に何の思い入れもない。
ただ、この庭が欲しいと思った。あの人と始めて会ったのが、この庭だからかもしれない。
この家で唯一好きな場所は、ここだけだ。
普通だったら雑草と言われてしまう野の花も、手を掛けなければならない観葉植物も、この庭ではわけ隔てなく植えられている。だから、この庭は一年中賑やかだ。
六月を過ぎた今頃は、紫陽花や露草が元気よく咲いている。春に植えた朝顔も添え木にきれいな緑の蔓を絡ませ、もうしばらくすれば大輪の花を咲かせてくれるだろう。
水をどうにか撒き終えると、そのまま縁側に腰を下ろして額の汗を拭った。
「暑い……」
日差しのせいだろう、少し眩暈がする。そのまま縁側の上に身体を横たえた。大きく息を吐き出す。眩暈が過ぎるのを待っていると、突然額に冷たいものが触れた。
誰、と言い掛けた言葉を飲み込んだ。
汗で張り付いた前髪を払い、ひんやりとした手のひらが、わたしの額をやんわりと覆う。気遣うように触れる手の温度が心地いい。
誰なんて、聞かなくてもわかる。骨張った細い指。冷たい大きな手のひらが誰のものなのか。
「……由比さん、由比さん」
声が近付いてくる。途端、指は額から離れていってしまう。
「たえ、さん?」
「どうしたんですか? お気分が悪いんですか? 冷たいお水でも持ってきましょうか?」
矢継ぎ早に言葉が飛んでくる中、わたしはようやく瞼を開いた。妙さんが心配そうにわたしの顔を覗き込んでいる。
妙さんは四十路半ばの女の人だ。お手伝いさんとして、若い頃からこの家で働いているという話だ。
ふっくらした丸顔で、笑うと目元に皺ができる。妙さんはひどくそれを気にしているようだけど、わたしはそんな妙さんの笑顔が結構好きだ。
「お布団を引いて少し横になりますか?」
真剣な面持ちでわたしの顔色を伺うと、さっさと押入れを開けようとしている。さすがにこんな良い天気の日に一日中床に着くのは勘弁して欲しい。
「大丈夫、大丈夫です」
慌てて身体を起こすと、安心してもらえるように笑顔を作った。
「ありがとう。ちょっと眩暈がしただけですから」
「そうですか?」
妙さんの手が額に触れた。頬に触れた妙さんの手のひらは、少しかさついていて温かかった。
ちらりと桜の木陰を盗み見た。だけど、もうそこにはあの人の姿はなかった。
お祖母さまのお葬式の日から、ずっとそばにいてくれたから、つい見守っていてくれているのだと時折勘違いしそうになる。
違う。あの人は見守ってくれているんじゃない。ただ、見張っているだけ。わたしがいつの日か死んでいくのを待っているだけなのだ。
わたしは自分に言い聞かせるように、頭の中でくり返す。
そう。あの人は鬼で、わたしはあの人の餌。ただそれだけなのだから。
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