Chapter2 MemoryFragment

2-1. ディストピア

 それは、ある真夏の夜に始まった。救急当番だった成田市街の病院では、かつてない現象がスタッフを戸惑わせていた。救急外来の狭い待合室は、咳き込む患者に埋め尽くされていた。

 咳、喉の痛み、発熱、倦怠感、筋肉痛。彼らの訴える症状は、インフルエンザのものに近い。パンデミックが疑われるが、今はオフシーズンの夏であるし、余所の病院では発生していないという。

 医師は患者の鼻腔をなぞった綿棒を、薬剤に浸した。インフルエンザの検査キットの滴下部に垂らして数分待つ。浮かび上がったラインは、陰性であることを示している。どの患者もインフルエンザでは無い。彼は首を傾げた。


 後日の精密検査で、彼らが感染しているのは未知のウィルスだと判明した。幸い人から人に感染しない事が分かったが、それ以上は何も分からなかった。

 その頃には症状は第二ステージに移行し、患者はひどい発熱と呼吸困難に苦しみ、人工呼吸器を取り付けてベッドの上から動けなくなった。口元や爪の付け根は、酸素の欠乏によって青黒く染まっていた。

 ウィルスは耐性を持っており、抗生物質の効果は薄かった。感染者は日に日に増えたが、治療は各自の自然治癒力に任せるしかなかった。



 山王パークタワー基地局での作戦から、一年が経つ。

 あの頃、イブを失った私は、失意の中にいた。三人のアコールとの関係はぎこちなくなり、フォーラムに顔を出す事も無くなっていた。そんな折、マリアから伝えられたニュースは、衝撃的なものだった。

 成田市街で生物兵器が使用され、一万人が亡くなり、四万人が重軽傷を受けた。彼らはひどい高熱と肺炎に苦しんだ。

 テロを起こしたのは、成田に本拠地を置いていたアコーリベラルだった。彼らの使用した生物兵器は未知の種類のもので、猛威を振るった後も、土壌に残り生物の住めない土地を作り上げた。

 しかし、そんな土地で新たな生活を始めた者がいた。アコールとそのオーナーだ。生物兵器にはワクチンがあるようで、アコーリベラルに参加を表明したオーナーは汚染された土地で暮らす事ができた。アコーリベラルは拠点を中心に生物兵器を繰り返し使用し、アコールのための土地を広げ続けた。


 アコーリベラルの代表である碓井は時折、基地局をジャックして耳に心地の良い事を喋った。アコーリベラルに参加する者は後を絶たず、アウトロマンサーからも何名か移籍した。

 私はマリア、エマ、オーウェンと共に戦う事を決めた。アコーリベラルが強行しているのは、私達が望んでいたアコールと共存できる世界ではない。人間を追いやってできた、アコールのためだけの世界だ。人数の減ったアウトロマンサーで、私達は協力者を募った。

 アウトロマンサーは力が必要だったし、警察や自衛隊は情報が必要だった。私達は一時休戦し、協力してアコーリベラルと戦っている。


 私達は、成田市の隣にある佐倉市の中心、佐倉地区にいた。過去にアコーリベラルのテロが行われた地点を元に、オーウェンが七十五パーセントの確率で攻撃を予測した場所だ。歴史建造物が数多く残っており、週末には街歩きを楽しむ観光客が見られたが、今は全ての住人が県外へと避難している。


「周辺の封鎖が完了しました。これより、組織犯罪対策課は捜索を始めます。あなた方は見ていない事にしますが、邪魔はしないで下さいね」


 コンソールのIPトランシーバーから、陸の声が届いた。警察との共同作戦だが、彼らとしてはアコールの協力を受けていると公言できないため、表向きには偶然居合わせた事になっている。


「相変わらず口だけは達者ね。見分ける方法を教えたのは健斗で、攻撃地点を予測したのはオーウェンなのに」


 マリアは通信を切るのが遅れたふりをして、IPトランシーバーに愚痴をこぼした。


「まぁいいじゃないか。俺達だけじゃ、街を封鎖なんてできないしさ」


 私達はスペクトラムアナライザを取り出し、顔の前にかざした。この装置は、アガートラムから出る電波を特定し、その方向を捉えることができる。

 かつて生物兵器の散布には、爆弾による方法が多く使われていた。しかし時代は変わり、アコーリベラルはアガートラムの体内に生物兵器を搭載し、街中まで歩かせてから放出する事で散布しているらしい。

 アガートラムと言えばエマの専売特許だったが、一年経った今は、あらゆるアコールの肉体として使用されている。

 第二世代アガートラムは、アンドロイドだ。体表には人工皮膚が貼られ、頭皮には人工毛髪が埋め込まれ、外見からは人間と見分けがつかない。また、エマの操縦していた第一世代と同じように体内にルーターが埋め込まれているため、電波の妨害にも強い。


 私が考案した、アガートラムと人間を見分ける方法は、ルーターに対してプローブリクエストと呼ばれる電波を送り、その応答内容から判別するというものだ。一般的なスマートグラスのルーターはスマートグラスのIDを送り返すのだが、アガートラムのルーターは固有の名称を送り返す。後は、八木アンテナやパラボラアンテナを使って指向性を持たせた電波を送る事ができれば、方向を特定できるという訳だ。


「反応あり――いや、マリアか。周囲五百メートルはクリア」


 オーウェンがマリアからアンテナを逸らした。近くにいないと分かり、短い間だが肩の力を抜く事ができた。

 オーウェンとマリアも、アガートラムを体として使用している。外見はスマートグラス上に表示されていた姿とそっくりに作られており、彼らのMRに慣れている私でも違和感は無い。


「抗菌薬の調子はどうだ?」


 捜索を続けるマリアに話しかける。


「まだしばらくかかりそう。炭疽菌のAmes株をベースにしているのは分かったけれど、DNAをいじって薬剤に耐性を持つ株にしているみたい。ゲノム解析と並行して、あらゆる薬剤を試しているけど、よっぽど性格の悪い開発者が作った株なのか、難航しているわ。ワクチンの開発も予定しているけれど、菌を特定できないと進めようが無いのよね」


 マリアは国立感染症研究所と共同で、生物兵器への対策を進めている。アカシックレコードに匹敵する知識の対象は、細菌に限定されない。塩基配列を同時にアセンブルする専用のFPGAを新たに設計し、従来の半分の時間でゲノム解析できるシーケンサを開発したという。計画を大幅に短縮したが、それでも苦戦しているようだ。ひょっとすると生物兵器を製造したのも、優秀なアコールなのかもしれない。


「炭疽菌って、どんな菌なんだ」


 かつてアメリカのテロ事件で使用された、くらいの知識しか私にはない。何気なく聞いてみたが、相手を間違えたかもしれない。マリアの目がきらりと光った気がした。


「炭疽は、歴史上もっとも古くから存在する病気の一つだと考えられているわ。キリスト教の旧約聖書に出てくる第五、第六の疫病は、炭疽菌による症状とよく似ているの」


 彼女のコンソールに表示された絵は、体の数ヶ所がボールのように腫れあがった男女の裸体だった。


「形状は円柱状の桿菌。感染経路によって、皮膚炭疽、肺炭疽、腸炭疽に分けられるわ。生物兵器として使用する際は、もっぱら芽胞をエアロゾルにして肺炭疽を引き起こすために使われるけど、インフルエンザに似た症状が三、四日持続した後、高熱を出して呼吸困難になり、死に至るというものよ」

「ガホウ?」


 耳馴染みが無い言葉を聞き返した。


「炭疽菌は生育環境が悪化すると、その円柱状の菌体の中央に卵円型の芽胞を生成するのだけれど、この芽胞は熱や薬剤に対して高い耐久性を持っていて、完全に除去する事が困難なの。イギリス軍がスコットランド沿岸のグリナード島で炭疽菌爆弾を使用した際は、その土壌は四十五年間汚染され続けたわ。その際は、島全体を海水とホルマリンに浸して除去したそうよ」


 生物の住めない土地を作り出す仕組みは、その芽胞によるものらしい。成田周辺は、四十五年間も人が住めない呪われた環境にされてしまったのだ。想像していた以上の深刻な状態を明かされ、ショックを隠せなかった。


 掲げていたスペクトラムアナライザに反応があった。バーチャルコンソールのIPトランシーバを起動し、陸にも情報を伝える。


「見つかったぞ。三丁目のスーパーから薬局に向かう直線上だ」

「分かりました。到着までに五分かかります。間に合わなかったら、あなた方で何とかして下さい。何とかならなければ、あなたも僕も死ぬだけです」


 脅しではなく、彼の忠告は正しい。抗菌薬もワクチンも無く、勘付かれるのを防ぐため防護服も身につけていないこの状況で、生物兵器を散布されたら私は無事では済まない。

 物陰に隠れながら移動し、位置を特定する。時折、二体分の反応があるが、マリアかオーウェンの電波を拾ってしまっているのだろう。


 十字路の中央に、女が立っていた。ベージュを基調としたコーディネートで、落ち着いた格好をしている。ほうれい線が目立ち始めた顔は、道路の照り返しを受け、ほのかに汗がにじんでおり、その質感は人間にしか見えない。しかしスペクトラムアナライザの表示を見ると、方向が一致していた。

 側面から近づいているオーウェンからも、反応があったとメールが届いた。スペクトラムアナライザは角度単位での検知しかできないが、別方向から判定できれば点での検知になり、間違えようが無くなる。彼女はアガートラムだ。


「どうする、陸を待つ?」


 マリアが尋ねた直後、女が指をはじくジェスチャーをして、バーチャルコンソールを開いた。

 警察の到着を待っている時間は無い。こちらもコンソールを開くのと同時に、ハッキングを仕掛ける。深く考えずとも理解できる。私は死と隣り合っている。外部の音が途切れ、はち切れんばかりに収縮を繰り返す自分の心臓の音だけが聞こえる。アガートラム内のルーターへのアクセス権を奪った。

 女がコンソールを操作し、五つの円から構成されたマークが描かれたウィンドウを表示した。バイオハザードのハザードシンボルだ。

 先回りしてプログラムを解読する。コンソールに表示されたボタンは、シリアルバスを通して体内の散布装置へと繋がっていた。仮にボタンが押された場合、散布装置のポンプが駆動し、生物兵器が周囲へと撒き散らされる。起動したらボタンは消え、全ての炭疽菌が放出されるか、回路的に電源が切り離されない限り止まらない。

 プログラムを編集する。変更は、考え得る最短で。書き換え方は分かっているのに、指の動きが間に合わない。イブがいれば、半分の時間で終わっていたと思うが、今さらどうしようもない。打ち間違えていない事を祈りながら、必死に十指を動かす。


 女は右手の人差指を立てると、ためらう素振りを見せずに、コンソールのボタンを押した。散布完了と書かれたウィンドウが表示された。


 猛スピードで走るパトカーが次々と押し寄せる。急ブレーキをかけ、四方から女を囲んで止まった。


「妨害電波を頼む!」


 私達は隠れていた壁の陰から姿を現しながら、パトカーの窓を開けて顔を出している陸に話しかけた。


「既にやっています」


 パトカーのルーフには、様々な長さの十本のロッドアンテナが突き出した黒いボックスが載っている。この電波妨害装置は、周囲のアドホックネットワークへのアクセスを妨害する。これでアコールは、アガートラム内のルーターから逃げられない。


「生憎ですが、生物兵器の散布は完了しましたよ。私を捕まえるために自分の命と街を犠牲にするなんて、高くつきましたね」


 女はパトカーにひるむ様子を見せず、澄ました顔で言った。

 マリアは淡々とアルミのアタッシュケースを開き、生物兵器検知システムの準備を進めていた。カセットを挿入すると、モニタにグラフが表示された。


「px01とpx02のプラスミドは検出されていないわ」


 マリアがその場の皆に伝わるように大きな声で言った。一人を除き、ぽかんとしていて反応しなかった。


「つまり、何なんです?」

「炭疽菌は散布されていないっていうこと。かろうじて健斗の方が早かったようね」


 私達は心底ほっとして息を吐いた。タイミングはぎりぎりで、マリアに確認してもらうまで、確信を持てなかった。


「だそうです。何も達成できずに、あなたは捕まるんです。高くつきましたね」


 陸は女に向かって嫌味を吐きかけながら、パトカーから降りた。コンソール上のボタンを押し、強制捜査の記録を開始する。


「十一時三十六分、差押えを執行します」

「差押えって――、私は証拠品の扱いという事ですか? 冗談じゃない」

「そういう事は、公務員に言わずに裁判所で言って下さい。いや、証拠品なので弁明する機会は無いのかもしれませんが。まぁ、大人しくしていれば、うちでは人間と同じように扱ってあげますから」


 白樺の枯れ枝を思わせる女の細い腕に手錠をかけた、その時だった。

 陸の乗っていたパトカーが、まるで木の葉のように、軽々と空を飛んでいた。私達は唖然として、描かれた放物線の先を視線で追った。

 前方宙返りを決めながら、逆さまになって天井から落ちる。大きな音を立て、破片が飛び散り、地面を衝撃が伝わった。


「何が起きたんですか?!」


 陸の叫びに促され、混乱しながらも、パトカーの飛び立った場所を皆が一斉に見る。そして一斉に見上げた。


「ここにいるアガートラムは、ミリアムだけだと思ってたかい? バーカ、おめーらの行動なんてお見通しなんだよ。護衛を付けるに決まってんだろ」


 パトカーが停まっていた場所には、銀色の構造物が鎮座していた。柱のような四本の太い脚がアスファルトに突き立ち、その上には平べったい鋼の胴体と腕、頭が載っている。人間で言うと目の位置に相当する場所には、横長のスリットが刻まれており、覗く白い光によって一つ目に見える。


「ちょっと、あれもアガートラムなんですか?」


 陸が尋ねてくるが、私もマリアもオーウェンも、答えを持っていない。


「そうだよ。第二世代アガートラム軍用モデル。こんな風に、戦闘に特化した最新型だ」


 一つ目のアガートラムは気前よく答えた。突き出された前腕部のカバーが開き、腕を囲む八丁の銃口が現れた。

 オーウェンに体を押され、私はパトカーの陰に隠れた。

 直後、火薬音が耳をつんざいた。爆音が鳴り、熱風が押し寄せた。火を噴いたパトカーが空を舞っている。銃声に混じり、子供の高い笑い声が響く。


「このままだと、街ごと消えますよ。これ以上被害を出さないためにも、私を解放する事をおすすめしますが」


 手錠で繋がれたミリアムと呼ばれたアコールが、同じくパトカーを背にして隠れている陸に対して話しかける。


「本当に交渉の余地はあるのですか。既にあなたの相棒は、ハイな世界にイっちゃってるようにしか見えないのですが」

「あれが、ドミニクの普通なんです。きっと交渉は可能です、……多分」


 生き残るための選択肢が無い事を悟り、陸が諦めの表情を浮かべる。


「蜘蛛の子みたいに逃げ回れよ。ほら、車ごとぶっ飛ばすぞ。五、四――」


 顔を出す勇気はないが、銃口が私達の隠れているパトカーに対して向けられている予感がした。隣で膝をついている、マリアと顔を見合わせる。諦めろという意味なのか、大人しくしていろという意味なのか、首を振った。

 コンソールを眺めていたオーウェンが立ち上がり、出し抜けにパトカーの前に飛び出した。私とマリアは、車体と地面の隙間から、不安な思いで見守った。


「何だよ、その顔。僕のアガートラムとやる気かい? 人間っていうのは、ほんとバカだな」

「あいにく、俺はアコールだ。俺に言わせてもらえば、お前らこそ見通せていない」


 鋭い金属音。ドミニクと呼ばれたアコールの操縦する、軍用モデルの巨体が傾く。バキバキと嫌な音を鳴らし、民家の塀を巻き込んで、後方に倒れた。砂埃が巻き上がった。


 オーウェンの前に立っていたのは、小柄なアガートラムだった。長い手足と小さな頭、人間と同じシルエットをしている。銀色の体表には、人工皮膚は貼られていない。外見は第一世代のアガートラムに近い。


「その外見、第一世代かい? 旧式で僕とやろうなんて、ずいぶん舐めてるな」


 砂埃の中からドミニクの声が聞こえる。


「旧式かどうかは、やってから確かめな。こちとら、あんたらが慣れない体でよちよち歩きをしている頃には、実戦で体を二つ潰してるんだよ」


 小柄なアガートラムから発せられたのは、エマの声だった。

 砂埃が晴れる。軍用モデルの腹部がスライド式に開き、弾頭があらわになっていた。私達は慌てて走り出し、警官もパトカーを置いて逃げ出した。

 十発のミサイルが上空に向かって放たれる。しばらく真っすぐ飛行した後、一斉にエマの方を向いて下降を始めた。

 エマの操縦する小柄なアガートラムが、ミサイルに向かって駆け出す。重量も抵抗も感じさせない、軽やかな走りだ。一歩でパトカーの間を通り抜け、二歩で身をひるがえしながら、弾頭の隙間を縫う。三歩と共に突き出された拳が、起き上がった軍用モデルの頭部を捉える。再び軍用モデルは、民家の庭に沈んだ。着弾して爆発したミサイルの炎の中から、小柄なアガートラムが飛び出し、オーウェンの前に戻った。


「すごい……」


 同じ感想を口にし、私は陸と顔を見合わせた。

 エマの新しい体は、第一世代アガートラム改。理化学研究所と共同で開発された体は、従来のアガートラム以上の出力と、人間以上の反応速度での行動を可能にする。昨日プロトタイプが完成し、今日は試運転だったはずだ。


「試運転は終わったんだな」

「いや、それは……。ちょっと様子を見たくなって」


 ぎくしゃくした動きで、アガートラム改が振り向いた。


「人間の反応時間は、成人で二百ミリ秒。神経線維内では電気によって情報が伝達されるけれど、シナプス間では化学反応によって伝達されるために、結果として反応時間は光どころか音よりも遅いわ。でも私達アコールは、電気のみで情報が伝達されるから、CPUでの計算時間を除けば理論上は光速での反応が可能よ」


 私と陸に対して、満足そうにマリアが説明する。

 エマの二体目のアガートラムは、彼女の反応についていけず、アクチュエータが自損した。そんな折、理化学研究所の技術と設備を借り、マリアとエマの知識を総動員して、制御系を見直す機会を得た。アクチュエータはエマの反応速度に合わせて、最適に調整されている。


 アガートラム改の背後で、軍用モデルが起き上がって右腕の銃口を向けた。

 絶え間ない銃弾の嵐。アスファルトが削れて砂埃が巻き上がる。カチカチと弾切れの音が鳴った。

 アガートラム改は、元の位置に立っている。足元は抉れており、防いだり逸れていたのではなく、避けていた事が分かる。


「くそ――、ミリアム、逃げるぞ」


 左腕の銃口をアガートラム改に向けながら、銀色の巨人が塀の陰に隠れている私達の元へと走ってきた。


「逃がすかよ」


 アガートラム改が腰を落として、脚のばねを溜める。


 次の瞬間、夜が訪れた。視界が真っ暗になり、あらゆる音が聞こえなくなった。

 私はクラッキングを受けてる事に気付いた。スマートグラスとヒアラブルデバイスを無効化するが、状況は変わらない。深いところまで書き換えられているようだ。こんな事をできるのは、一人しかいない。


 ハッカーと復旧作業は切っても切り離せない。慣れた作業なので、コンソールが見えなくても問題ない。ブラインドタッチで最新のバックアップデータをリストアした。

 戻った視界に、軍用モデルの姿は無かった。急いでいたのか、陸が手錠をかけていたミリアムのアガートラムは残されていた。


 その場にいたアコールと、警官全員の視覚と聴覚を元に戻した。


「今のはサイバー攻撃ですか。戻してくれた事は感謝しますが、これも何とかして下さい」


 陸は、力なく寄りかかったアガートラムに押し潰されそうになっていた。体内を樹脂と金属が占めているため、見た目の二倍近くの重さがあるはずだ。ミリアムのデータは、ちゃっかりとドミニクのルーターに回収され逃がされていたようだった。パトカーが壊されたため、残念ながら電波妨害装置は働いていなかった。


「生物兵器の散布装置がその中に残っているから、手荒に扱わないようにね」


 マリアの忠告を聞き、陸と周りの警官が必死に押し戻した。誤って倒して生物兵器を拡散させたとなっては、死んでも死に切れない。


「使用前で良質だし、菌の特定が進みそうね。みんなお疲れ様、感染研に運んでおいて」


 必死な警官達を横目に、マリアは悠々と立ち去った。

 私はオーウェンと共に、エマに近寄った。


「見たか、俺の新しい体。触ってもいいぞ」


 アガートラム改が誇らしげに肘を曲げて見せる。当然、力こぶはできていない。


「なんでエマが来るって分かったんだ?」


 銀色の腕を触りながら、オーウェンに尋ねた。パトカーの前に立ちはだかった彼は、エマが新しいアガートラムに乗って現れる事を、予知していたかのような口ぶりだった。

 オーウェンは無言で、バーチャルコンソールの画面をこちらに向けた。そこには、試運転の途中で理化学研究所から逃げ出した、じゃじゃ馬の回収を依頼するメールが表示されていた。


「助かったけど、試運転に戻ろうな」


 エマは去り際まで、面倒だの、退屈だの、文句を繰り返し呟いていた。


 帰り際、街を見渡した。大きな建物も、高いビルもない、庶民的な街並み。ここで何があったかを、避難した住民達は知る由がない。だが、確かにこの街は私達が守ったのだ。民家と道路は崩れてしまったが、人が住めれば、すぐに再建できる。


 ドミニクが逃げる際に、クラッキングを仕掛けてきたのはイブだ。攻撃のタイミングが絶妙だったため、どこか近くで見ていたのかもしれない。このまま私がアコーリベラルに対して干渉するなら、このままイブが前線で腕を振るうなら、戦わなければならなくなる日も、近いのかもしれない。

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