1-5. ビタースイートノイズ

 私はマンションの近くの喫茶店で、マリアと談話していた。フォーラムの今後について二人で話し合いたいという名目だったが、話題は思い出話や空白の六年間に及び、ただのデートになってしまった。


「イブとはいつ頃から暮らしているの?」

「五年前かな」


 指折り数えて答えた。一時期、赤の他人として過ごした事もあるが、ややこしくなるので話さなかった。


「へぇ、私と会った後だったのね。その前だったなら簡単に諦めもついただろうけど、なんか聞かない方が良かったかも」

「諦めるって、何を?」

「それは――」


 マリアの答えは、女の声に遮られた。


「こんにちわ」


 話しかけてきたのは、大人の雰囲気を漂わせた女性だった。ぱっちりした目は長いまつ毛で縁どられ力がある。ワンピースは胸元が大きく開き、気を抜くと視線が吸い寄せられる。近寄りがたい雰囲気の美人だった。対応に困ったが、頭を下げて挨拶を返した。


「素敵な彼女さんね」


 マリアに向かって微笑みかけ、歩き去って行く。私は呆然として、振れる尻を見送っていた。


「ずいぶん綺麗な人だったけど、お知り合いかしら?」

「いや」


 返事はぞんざいだった。店のノブにかけられた女の白い手に一瞬、荒れた男の手が重なったように見えた。


「知り合いでもないのに、一方的に話しかけてくるの? ずいぶんとおモテになるようね」

「何か勘違いをしているようだけど、あれはアバターだと思うぞ」


 女が店から出ていったのを確認し、私はマリアの方を振り向いた。


「アバターって仮想空間で使用する自分の分身のモデルの事かしら? ここは現実空間なんだけど」

「自身の姿にモデルを被せるように、スマートグラスに投影しているんだ。気ぐるみを被せるならまだしも、あれだけの精度の高い人間の姿を被せるなんて、人間業じゃない。高度なAIで制御しているんじゃないかな」


 行動後にアバターを重ねていては、スマートグラスの演算速度では間に合わない。AIで動きを予測し、行動と同時にアバターを重ねる必要がある。しかし言葉にするのは簡単だが、一瞬でもずれれば間抜けな姿を晒す事になる。『高度』と呼んだのは、確実に動きを予測できるという、絶対的な信頼性からだ。


「ふーん、健斗もできるの?」


 マリアが意地悪そうな顔をして尋ねる。


「無理だな。多分あいつもハッカーだと思うけど、ジャンルが違う。俺のはもっと泥臭いやり方だよ」


 たまたまハッカー同士が挨拶を交わしたなんていう偶然は無い。何らかの目的があり、ハッカーだと知っていて私に話しかけてきたはずだ。嫌な感じがした。



「遅い! コーヒー飲むのにどれだけかかってるの」


 マンションに着くや否や、イブが大声を出した。


「ごめんなさいね、健斗が綺麗な人から話しかけられたものだから、あれこれ聞き出していたら遅くなってしまったみたい」

「コーヒー飲んでるだけで、どうして美人が出てくるの!」


 確信犯なのかマリアに話をややこしくされ、頭を抱えた。アバターを使うハッカーについて話したのはほんの数分で、ほとんど世間話をしていたと思うが、彼女はそれを誤魔化したかったのかもしれない。その後リビングで、エマの好奇な視線を浴びながら、イブに尋問される事になった。


 翌日の夜、マンションのチャイムが鳴った。くつろいでいたアコールの三人も顔を上げた。誰かが訪問してくる予定はない。とうとう警察が来たかと、緊張が走った。

 バーチャルコンソールに表示された玄関の映像には、昨日の女が映っていた。カメラ目線で手を振っている。家宅捜索では無いと分かり安心したが、別の緊張が走る。


「こんばんわ、来ちゃった」

「あ、昨日の綺麗な人」


 マリアが呟くと、イブとエマがコンソールの傍に駆け寄って来た。


「ほんとだ。これ、ドラマで見た。修羅場っていうやつだろ」

「やっぱり知り合いじゃん。アバターとか下手な嘘をつくなんて、あたし達に知られたくない、やましい事でもあったんだ……」


 エマは勝手に盛り上がり、イブは勝手に落ち込んでいた。釈明が面倒なので、私は映像に向かって話しかける。


「その口調、やめないか。トリックが分かっていると、おぞましいものがある」


 女の口角がにたりと上がった。


「フフ、やはり気付いていましたか」


 女の顔にメッシュ状の線が入り、構成していたキューブが崩れて剥がれ落ちる。それと同時に、ヒアラブルデバイスにかかっていたフィルタも消えた。女の中から、薄ら笑いをした男の姿が現れた。

 アコールの三人は、自身の目を信じられないといった様子で、言葉を失っていた。


「目的は何だ、俺じゃないんだろ」

「それも分かっていましたか。感心です」


 男は指のからみついた、耳障りな拍手をしてみせた。映像から概算した身長は百八十センチだが、映像に細工を施している可能性も捨てきれない。縮れた長い髪を後ろでまとめている。


「私が欲しいのは、マリア様です。彼女をくれたら、あなたの家の事情は警察には黙っていて差し上げますよ」


 当然、ハッカーなら彼女がアコールである事は気付いている。交渉材料にマンションを持ち出しているからには、イブとエマについても知られている可能性が高い。


「目的は私? それなら出て行くわ――」


 マリアがソファーから立ち上がる。もともと白い顔に青みがかかっている。


「駄目だよ、マリアちゃん」


 イブが彼女の手を引いて制止した。


「でも、従わないと皆にも危険が及ぶのよ」

「大丈夫、任せとけ」


 私は肩を押す素振りを見せてマリアを再びソファーに座らせ、コンソールに向き直った。


「やましいのはお前も一緒だろ、儀利古洋平。ネット上のハンドルネームは芥虫。大学時代は知能情報学専攻だったが、不正アクセス禁止法違反で逮捕され退学。その後も懲りずに、そのアバターを使って、ずいぶんブラックな仕事を繰り返しているようだな。二週間前には、ブランド物を扱う店舗に社長のアバターを使って立ち入り、売上金を根こそぎ盗み出したらしいじゃないか」

「それって、あの怪盗の記事?」


 マリアが思わず声を出した。エマを探す際に彼女の見つけた記事に載っていた、怪盗の正体はこの男だったのだ。


「昨日のあの接触だけで、私の事を調べ上げていたのですか。感心です。あなたもマリア様と一緒に来ますか」


 儀利古は再び、からみつくような拍手をした。私としては、逃げ出したくなるくらいの深いプライベートに切り込んだつもりだったのだが、驚きはおくびにも出さず、余裕のようだった。


「行かないし、マリアも渡さない」

「残念です。それなら、ハッカー流で白黒つけるしかありませんね」

「そういう事だな」


 儀利古がコンソールを開く。次の瞬間、リビングのパソコンの画面にレベル1のアラートが表示された。マンションの扉のロックが、攻撃を受けている事を示している。

 私はコンソールの画面を切り替え、ファイアーウォールの監視を始めた。大量のアクセスが寄せられており、いずれも別々の脆弱性の検出を試している。


 調べた情報には続きがある。儀利古のハッキングスキルは、AIを活用したものだ。AIは独自に判断し、既存の方法にとらわれずに対象をクラックする。彼は『蟲』と呼んでいるらしい。この大量のアクセスは、それぞれが蟲によるものだと思われる。一人では追いきる事も対処する事もできない。


「イブ!」


 マリアの隣で呆けていたイブに活を入れる。


「ご、ごめん。今やる」


 慌てて自身のコンソールを表示した。


「不協和音が聞こえます。私の蟲達は無駄のない連携で、獲物を追い詰めますよ」


 ヒアラブルデバイスに監視カメラの音声が届く。

 レベル2のアラートが表示される。発生元はスマートホームに対応したリビングの電灯。蟲に脆弱性を見つけられ、ファイアーウォールを突破された。パソコンやコンソールと状態をやり取りするAPIが悪用されており、電灯を経由してパソコンにコマンドが送られている。蟲によるアクセスが、一斉にこの穴に集中した。


「電灯を取り外すまで、一人で耐えられるか?」


 イブに尋ねるが返事は無い。相手の攻撃に圧倒されているのか、彼女の手はほとんど動いていない。

 電灯を取り外している時間は無い。電灯と通信しているポートを封鎖し、パソコンに対する外部からのアクセスを禁止する。モニタの表示がレベル1のアラートに戻った。


「遅いです」


 嘲笑うような儀利古の声。

 再びレベル2のアラートが表示される。既にパソコンのメモリの一部は蟲に占有されており、再びポートが解放された。

 蟲が指令するコマンドから、目的を予想して封じる。十人や二十人の攻撃者なら問題なく対応できるが、相手は三万弱のAIだ。為す術もなく、ドアロックを解除するための方法が片っぱしから試される。蟲は高度に連携されており、封じられた方法は一斉に諦め、別の方法を試してくる。


「イブは、権限を上げられないように対応してくれ。俺は、直接ロックの解除を試しているバカを潰す」

「こんなの無理だって、あたしには追えないよ」


 イブが手を止める。


「やるしかないだろ」


 一匹の蟲にルート権限を奪われ、ゲームセット。レベル3のアラートが表示された。

 ドアのロックが開き、儀利古がひょっこりと頭の先から顔を覗かせる。

 ドアを開かれるという事は、家の機能を全て掌握されたのと同じで、ハッカーにとっては敗北を意味する。


「どうして、アコールと分かっていながら私に固執するのかしら」


 部屋の中に土足で踏み入った儀利古に対して、マリアが尋ねる。


「人間の脳に記憶できる情報量は、自分達が考えているよりはるかに少ないのです。短期記憶は目的を達するまでの数十秒間しか保存できませんし、長期記憶も思い出す事のない、他の記憶との結びつきの弱いものは次々と消えていきます」


 エマがアガートラムに乗り込もうとするが、儀利古がコンソールを叩いただけで妨げられた。部屋のネットワークが掌握されており、アガートラム内のルーターへのデータの受け渡しができていない。


「しかし、あなた達は失う事が許されない。どんなデータ構造で情報が収まっているのか、実に気になります。特にマリア様、あなたは素晴らしい。その無限の脳には、人類の知識が余す事なく詰め込まれています。それはもはや、現代のアカシックレコードと呼んでもいいでしょう」


 褒められているようだが、マリアは顔を引きつらせている。


「私と一緒に行きましょう。あなたはこんなところで終わるAIではありません」

「断ると言ったら? そのアカシックレコードの負の一端を垣間見て精神崩壊したくなければ、二度と私達の前に姿を現さないで」


 立ち上がったマリアが睨みつける。


「それは怖い。AIの原則に反し、オーナーの私に向かって、そんな恐ろしい事をするのですか」

「誰があんたなんかをオーナーに……」


 コンソールに視線を向けたマリアの動きが固まる。画面には、彼女のオーナーは儀利古である事が明記されている。掌握されたネットワークでは気付きようがないが、近づくまでの間にアコールのプログラムがクラックされていたようだ。


「それでは参りましょうか、マリア様」

「嫌……」


 AIの原則により、アコールはオーナーの命令に逆らえない。マリアは儀利古の後に従って歩き出す。私は唇を噛みしめ、ドアから出ていくマリアと儀利古を見送った。通り過ぎる際に見せた彼女の恐怖に満ちた顔が、脳裏に焼き付いている。


 エマがアガートラムを叩く。彼女に実体は無いので、ヒアラブルデバイス上で音が鳴る。

 私は蟲に荒らされたパソコンの復旧を始めた。バックドアが残されている可能性もあるので、ハードディスクを完全にフォーマットするところから取り組む必要がある。バックアップは取っているが、一晩で終わるか微妙なところだ。


「ごめんなさい、あたしがしっかりしていたら」


 イブが頭を下げた。彼女は儀利古が踏み込んできてから、一歩も動けていなかった。


「心ここにあらずだったぞ。こんな重要な時に、他に気にかける事があるのか」

「それは――」

「ストップ、ストップ」


 エマが割って入る。


「イブとは俺が話す。お前はあの糞野郎の根城でも探してろ」


 パソコンの復旧は諦め、エマの言う通りに儀利古の住所を探し始めた。私が持っている情報は、彼のハッカーとしての経歴、そしてマリアが探し出した掲示板の記事しかない。当然、掲示板に書き込んでいるのは儀利古ではないため、IPアドレスから辿るのは無意味だ。

 怪盗がらみの事件を検索する。宝石店、ブランド店、消費者金融――。事件があった現場を地図上にプロットし、おおよその居住区を割り出す。さらにその地域の店舗の監視カメラの映像をハッキングして盗み出した。膨大なデータベースと、家の監視カメラに残っていた儀利古の顔を比較する。

 賢い犯罪者なら家の近くで盗みを働かないと思うが、彼は過度の自信家だ。このマークされた地図の範囲に住んでいると思う。また、美女のアバターを被り続ける性的嗜好も無いと判断した。検索が終わり、比較結果が表示された。


「そんなところにいたのか――」


 私は思わず呟いた。

 儀利古の映る映像には、どれも見覚えがあった。よく行くコンビニに、スーパー、外観だけは知っている理容店、そして昨日訪れた喫茶店。彼は私と同じ生活圏にいた。

 喫茶店の向かいにあるレンタカーの監視カメラに、二階に向かう後ろ姿が映っていた。そういえば喫茶店は賃貸マンションの一階のテナントだった。何度か訪れていた私達に気付き、興味を持ったのだろう。


 ソファーに座っていた私の隣に、イブが腰を下ろした。


「怒っているのは分かってる。でも、言い訳をさせてほしいの」


 私は黙ったまま頷いた。


「健斗はあたしに、人として生きるための力と、ハッキングをするための力をくれたよね。アコールの立場を超えて健斗の力になれるのはあたしだけで、あたし達は特別な関係だと思ってた」


 息をつく。


「でも、実際は同じように健斗の力になれるアコールが三人もいて、そのうち二人はあたしと同じように一緒に暮らし始めてしまった。健斗のアコールという立場さえ脅かされて、自分のいる意味が分からなくなったの」


 イブが頭を下げる。明るい茶色の髪が垂れた。


「そしたら頭がいっぱいになっちゃって、思うように動けなくなっちゃった。マリアちゃんがさらわれたのは、あたしのせい。本当にごめん」


 私は彼女の方を向いた。


「こっちこそ、気付いてあげられなくてごめん。確かに俺はマリアやエマを頼りにしてる。でも、イブは俺のアコールで、彼女だというのは変わらない」

「うん、ありがとう」


 エマが腕を回して準備運動をしながら、近づいてくる。


「それで、俺達はどうすればいい?」

「マリアを助けに行きたい。そのためにはイブとエマの力が必要だ。手を貸してほしい」

「分かった」

「当然だ」


 イブとエマが頷いた。


「今度は、こっちが攻め込む番だ。あいつの蟲を攻略してみせる」



 私とイブは、電気の消えた喫茶店の前に立った。時刻は深夜の一時。通りに車や人の姿は無い。


「俺はポートのスキャンをしておくから、脆弱性のデータベースの準備をよろしく」

「分かった」


 イブが頷き、バーチャルコンソールを開いた。

 今回のようなケースでの攻撃の流れは大まかに分類すると、『スキャン』、『アクセス権の取得』、『権限の上昇』の三つに分けられる。最初に実施するのが『スキャン』。ネットワーク化された現代の家――スマートホームには、必ず外部からのアクセスを許可しているサービスが存在する。これらの通信を確立する仕組みを利用し、どのポートに、どんなサービスが存在するのかを確認する。


「悪いですけど、うちはハッキングできませんよ。蟲達があらゆる異常を監視していますから」


 二階の奥にある儀利古の部屋の前に立ったところ、インターホンから声が届いた。蟲に不審な訪問者を報告させているらしい。寝ているなら簡単に済むかと思ったが、そう都合の良いようにはいかないようだ。


「そうかもな。でも、この部屋以外は別だろ。さっき、クレジットカードの履歴を見させてもらった。結構な金額のサーバーの費用を毎月請求されているみたいだな」


 インターホンに向かって話しかける。


「それがなにか」

「高度なAIを運用できるサーバーは、部屋の中には無い。レンタルしたクラウド上のサーバーに、蟲の本体がいるって事だ」


 スピーカーから小さなノイズが流れる。返答が遅れたため、仮定が間違っていない事を確信できた。これで作戦を始めるための条件は揃った。


「それが分かったところで、ネットワークを切断でもしない限り、私と蟲達を切り離す事はできませんよ」


 言い終えるのと同時に、彼の家のネットワークは切断された。


「何だとォ?!」


 儀利古が素っ頓狂な声を上げた。ようやく余裕を崩す事ができ、小気味良かった。

 手すりから階下を見ると、エマの操縦するアガートラムがアスファルトを引きはがして、共同溝に収まったケーブルを引き千切っていた。


「サービスのリストを送るから、イブは三万番台以降を頼む」


 事前に作成したプログラムを走らせていたので、儀利古と話している間にネットワーク上のサービスは探し終えていた。コンソールを表示し、リストアップしたポートをイブに送った。


「オッケー、任せて」


 二人で代わる代わるサービスにアクセスし、脆弱性を探す。イブの知識として保存されたデータベースから過去の事例を検索し、精度を上げる。サービスの名称とバージョンが分かれば、過去の不具合が見つかるかもしれない。異常なコマンドを送れば、異常な応答があるかもしれない。ゲームのような攻略法は無く、経験が物を言う次元。

 頼みの綱の蟲が稼働していないため、儀利古の家は無防備に等しかった。

 スマートホームのサービスの大半は攻撃に対して耐性を持っているが、中には質の悪いサービスも存在する。特に、既知の脆弱性すら修正できておらず、無駄に高い権限を持つサービスは、私達にとって涎が出るほど魅力的に映る。


 腰にぶら下げた、モバイルルーターを改造した装置からアラーム音が鳴った。儀利古がパソコンの接続先をイーサネットからアドホックネットワークに切り替え、この装置を含む周囲のネットワーク機器にアクセスしてきた。このままでは蟲のサーバーと通信が再開されてしまう。


「エマ!」


 アガートラムはマンションの屋上に移動している。私の合図で、両肩の開口部からからチャフを射出したはずだ。舞い落ちる銀の雨が、電波を遮りアドホックネットワークまでも妨害する。延長時間は、金属片が落下するまでの約一分。


「四八五〇九番に、バッファオーバーフローの脆弱性が見つかったよ。やる?」


 脆弱性が見つかれば、次に行うのは『アクセス権の取得』。異常なコマンドを送りメモリをあふれさせる事で、本来外部からできないはずの処理を実行させる。


「あぁ、権限は――ユーザか。チャフが切れるのと同時に、辞書攻撃プログラムのダウンロード」


 辞書攻撃――パスワードに使用されがちな文字列を、片っぱしから組み合わせてパスワードを調べる強引なハッキング手段である。一般人ならそれが常套手段だ。しかし儀利古のような男が、単語や数字の組み合わせをパスワードにしているだろうか。かといって、アルファベットや数字を総当たりできるような桁数とも思えない。


「……いや、蟲に指令を出すプログラムのソースコードを探して、片っぱしからパスワードをサーチ」

「書いてあるかな」

「そう願いたいが、根拠は同業者の勘だ」


 最後の攻撃は『権限の上昇』。今回のケースのように、折角サービスを乗っ取っても権限が低い場合、サーバーの設定を変更するような大事なコマンドは実行できない。パスワードを探し出して管理者権限でログインする事で、ハッキングは完了する。


「八十パーセント完了――待って、何か変。ソースコードとパスワードの数が増えてくんだけど!」


 改造モバイルルーターを見ると、チャフの効果が切れてアドホックネットワークが戻っていた。蟲が活動を再開し、私達の目的に気付いてダミーのソースコードを流しているのだろう。無駄がなく速い。ただし無駄がない事は、こちらにとっては都合がいい。


「追加されたコードは今日の日付になってる。あちらが対策してくる前に、同時にフィルタリングして探すぞ」

「オッケー」


 ハッキングの応酬。蟲達は私達の攻撃を監視し、目的を推測して、先回りして適切なパッチを当ててくる。ならばこちらは経験を活かしてあらゆる攻撃を試しながら、相手が全ての穴を埋める前にハッキングを終わらせる。


「ビンゴ、パスワードはE3iJ0We8U9」


 蟲がパスワードを変更するよりも、わずかにこちらのコマンドが速かった。蟲のプロセスが停止され、儀利古の家を管理していたサーバーは嘘のように静かになった。パスワードを変更して儀利古の復旧作業を妨害し、ゲームセット。

 コンソールを閉じて、イブと向かい合う。


「おつかれさん」

「おつかれ。またやろうね。やっぱりあたしは、健斗と潜っているのが一番楽しいみたい」


 金属音を鳴らしてロックが外れ、ドアが開いた。

 ドアが開かれる事は、ハッカーにとって敗北を意味する。儀利古は呆然としてパソコンの前に座っていた。私達は彼を無視してその横を通り過ぎた。

 マリアは書庫にいた。寒そうに腕を抱えていたが、私達の姿を見ると体の力が抜けたようだった。


「さっきは負けて悪かった。帰るぞ」

「う、うん。でもどうやってここに。それにオーナーの設定があると帰れないわ……」


 私がここにいることを考えれば、すぐに仕返した事が分かると思うが、いつものマリアらしくなく混乱しているようだった。


「そうだった、ちょっといじるぞ」


 マリアの前でバーチャルコンソールを表示し、コマンドを打ち込んで設定にアクセスする。こうして向かい合っていると、彼女との出会いを思い出す。当時はもっと冷たい表情で、別れ際に見せたぎこちない笑いが印象的だった。


「初めて会った時の事を思い出したわ」

「俺も同じ事を思い出してた」


 マリアは私の顔をじっと見つめている。頬に赤みがさし、ほのかに微笑み、前よりずっと人間らしい表情になった。私のコンソールを叩く速度が増した。


「お願いがあるんだけど、オーナーをあなたの名前に書き換えてくれないかしら」


 マリアが遠慮がちに言った。

 技術的には簡単だ。しかし、私は振り向いた。イブの気持ちを考えずにマリアやエマをマンションに受け入れた上に、これ以上彼女を傷つける訳にはいかない。


「イブ、いいか?」

「そこで聞いちゃうあたり、女の子の気持ちが分かってないんだよねぇ」


 イブが私の隣に立ち、マリアに向かって話しかけた。


「いいけど、あたしが正妻だからね」

「えぇ。その表現はどうかと思うけど」


 コンソールに表示されたボタンを叩くと、マリアのオーナーが私の名前に書き換えられた。マリアは自身でプロフィールを確認し、口角を上げた。


 家を出ていく際、儀利古はまだパソコンの前に座っていた。


「そう落ち込むなよ、パスワードは戻しておくから。ただ、警察にアコールの事を話されると困るし、お前の悪事のログは全部コピーさせてもらったからな」

「そんなことをしなくても、話しませんよ。私は、ただマリア様と……」


 振り向いた儀利古に対して、マリアが冷たい視線を向ける。


「じゃあね、ゴキブリ。私はあんたが思っているような、誇れる存在じゃないわ」



 雨合羽を被ったアガートラムと合流しマンションに帰る途中、イブがマリアに話しかけた。


「ゴキブリって呼んでたけど、ちょっとひどくない?」

「あいつのハンドルネームは芥虫なんでしょう。芥虫といえば、ゴキブリの事よ。AIを蟲と名付けるくらいだし、呼ばれて本望なんじゃないかしら」


 すっかり調子が戻ったように見える。私達は顔を見合わせて笑った。

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