第14話

 高座にはテレビでも良く出る噺家さんが出ていた。わたしの後ろの席に座った常連さんと思われる人の言葉が聞こえて来た。

「この後収録があるから出番替わって貰ったそうだよ」

 そんな会話が聞こえて来た。入る時に貰ったパンフレットの紙には、もっと遅い出番となっていた。ちなみにこの遅い出番のことを、小鮒さんは「深い」と言う。つまり「深い出番」となる。

 先ほども別れる時に

「今はまだまだだけど、そのうちもっと深い出番になれるように頑張るよ」

 そう言っていた。わたしとしては顕さんが小鮒として売れるのは勿論嬉しい。でもあんまり売れると逢う時間が少なくなるのではとも思い、自分でも呆れる。それは未だ先のことだろうし、その頃は二人の関係ももっと深くなっているだろうと想像した。

 六人ほどの噺家さんと漫才やマジックの人の高座を見終わって時間を確認すると二時を少し過ぎていた。寄席の外に出ると初夏の太陽の強い日差しをモロに感じて慌てて日陰に入る。スマホで地図を出して確認すると神田にある連雀亭は神田駅よりも秋葉原駅に近いようだ。田原町まで歩いて銀座線で末広町か神田で降りて歩いても良いが、寄席の裏には、つくばエクスプレスの浅草駅がある。これに乗れば秋葉原はすぐだ。運賃が少し高いがこの強い日差しの中を歩くなら少しの出費は惜しくないと思った。

 寄席の脇の道路に駅の入口がある階段を降りるとエスカレーターがあった。それに乗って降りて行く。この路線が地下の深い所を走っているのは知っていたがそれにしても深いと思った。数回エスカレーターを乗り換えて改札まで降りて来た。ここで切符を買って改札を通って更にホームまで降りて行く。

 十分ほど待つと秋葉原行きがやって来た。ここの駅はホームドアがあるので線路に落ちる心配がないのが良いと思った。乗って電車が走り出すと開いてる席に座る。めを瞑ると先ほどの事が思い出される。楽屋口で言われた言葉……。

『俺は本気だ』

『今夜は帰したくない』

 それがどのような意味を持つかは十二分に理解してるつもりだ。心の準備は出来ている。でも、そういうのは自然な流れでなるものだと思っていたから一気に体温が上がってしまった。小鮒さんも、きっと明日から楽屋で色々と言われるかも知れない。でも、冷やかされるのも悪くは無いと思えて来た。それが話題になって仲間内でも小鮒さんが話題になれば何かに繋がるかも知れないと考えたからだ。

 電車は仲御徒町を発車した。次が秋葉原だ。地下の空間を電車は結構なスピードで走って行く。もう心は決めていた。でも家にはなんて言おうかと考えた。それに今夜は何処に行くのだろう。何処かに泊まるのだろうか? 顕さんにそんなお金を使わせるのは何か違うと思った。

 結局同じ考えが頭の中をぐるぐる回っただけだった。電車が秋葉原に到着した。ぞろぞろと皆出口に向かう。また、幾つものエスカレータを登って地上に出る。エレベーターに乗っても良いのだけど、秋葉原の何処に出るのか判らないので止めた。

 秋葉原の駅を出て中央通りに向かう。万世橋を渡ると通りを横断して神田に向かって右の方向に歩いて行く。何か電子部品を売っているお店の角を右に曲がり脇道に入る。この道をまっすぐ行くと。大晦日にテレビで出る「まつや」がある。その脇を更に右に曲がると左手に連雀亭はある。

 歩いていたらスマホが鳴った。顕さんだった。

「もしもし、今終わって表に出たところなんだ。今どこ?」

「今『まつや』さんの前に差し掛かるところ」

「じゃあそこで待っていて。お昼まだだろう、蕎麦でも食べようよ」

「うん判った。ここで待ってる」

 そう言って通話を切ってから間もなく顕さんがカバンを肩から下げて歩いて来た。さっき逢ったばかりなのに何故かドキドキする。

「入ろうか」

 黙って頷いて顕さんの後に続く。

「良かった。丁度お昼の混雑時が終わったみたいだ」

 お店独特の声に出迎えられて、案内された席に着く。

「何が食べたい。暖かいのが良い。それとも冷たいのが良い?」

 きっと顕さんは何回も来ているのだろう。余裕が感じられる。わたしはお店の独特な雰囲気に押され気味だった

「暖かいのが良いかな」

「じゃあ天南ばん、なんかどう。小エビのかき揚げが入っている蕎麦だよ」

 顕さんの説明で映像が頭に浮かんだ

「それがいい」

「俺は大もりにしようかな。少し冷たいのも食べて見た方が良いよ」

 そう言ってメニューを置いて

「すいません。天南ばんと大もりで」

「はいありがとうございます」

 そう言って店員さんが下がって行く。それを目で追いながら顕さんは

「食べ終わったら何処に行こうか」

 そんなことを尋ねて来るので

「どこでもいいよ。わたし、それほど東京に詳しく無いから」

「そうか、じゃあ上野にでも出ようか。公園を散歩しても良いし美術館なんかもあるしね」

「わたし、それほどお金持って来ていないかも」

 美術館といえば数千円はする。帰りの電車賃が心配になった。そこまで想いが及んで先ほどの顕さんの「今夜は帰さない」という言葉が蘇って来た。

「そんな心配しなくても良いよ」

 何故か顕さんは余裕で笑っている。そんなことを考えていたら、注文したお蕎麦が運ばれてきた。顕さんは「大もり」でわたしが「天南ばん」だ。

 良く落語でもお蕎麦を食べるシーンがある。今日もそんな噺が出た。噺家さんは扇子と手つきだけでまるで本物の蕎麦を食べるように仕草をする。あれも練習するのだろう。

「蕎麦の食べ方だけどね。こうやって箸で摘んだ蕎麦を三分の一から半分ぐらい汁に漬けて一気にすするのさ。まあ、手繰ると言うのだけどね。どっぷりと汁に漬けては駄目なんだよ。そうすると折角の蕎麦の香りが消えてしまうからね」

 顕さんはそう言って実際に食べて見せた。わたしはそれを見て、本当に美味しそうに食べるのだと関心してしまった。途中で蕎麦を交換して、わたしも蕎麦を手繰ってみた。何だか少しだけほんの少しだけ顕さんの世界に入り込めた気がした。

 食べ終わって二人で歩いて行く。地下鉄に乗っても上野には直ぐに着く。歩いてもそれほど離れていない。

「歩くのが嫌でなかったら、少し歩こうか」

「うん。それがいいな。話も出来るし」

 中央通りを上野に向かって歩いて行く。わたしはここをバイクで走る事を想像する。

「ねえ、噺家さんって色々な都内の寄席を回る事ってあるの?」

「ああ、あるよ。お正月なんかは皆忙しいから数件は回るよ」

「そんな時にバイクで回る人っていなかったのかな?」

 わたしが顕さんと交際するようになってから訊いて見たかった事だった。

「いたよ。今でも居るよ。一番有名なのは人間国宝になった柳家小三治師匠なんかはバイクに夢中になった時はナナハンで寄席を回っていたそうだよ」

「わあカッコいい! どうして辞めちゃったの?」

「病気の為にバイクに乗れなくなったそうだ」

「病気……」

「リューマチだそうだ。指の関節が動き難くなったのでバイクの運転を諦めたそうだよ」

 そうか、指が動かないとバイクは操縦出来ない。わたしも将来リューマチになったらバイクは諦めなければ駄目だろうか? そんな事が頭を過ぎった。

 顕さんは途中、駅のコインロッカーにバッグを預けて上野の山に登った。そしてわたしに

「今日から五日間は寄席と連雀亭があるからおばあちゃんに家に泊めて貰う事になっているんだ」

 え、そんなことになっていたとは知らなかった。わたしは東京なら何処かで泊まるものとは思っていたけど、親戚の家とは予想外だった。

「まあ、おばあちゃんの家って言うけど、実際は俺の別宅でね。おばあちゃんは良く旅行に行ったりして留守が多いから、俺が東京で仕事がある時に泊まり込んで管理してるんだ。前座の頃はバイクで通ったりしていたんだ」

「そこは何処なの?」

「墨田区の向島というところさ。下町だよ。そこからなら師匠の家も三十分ぐらいだし、寄席に通うにも都合が良いからね」

「じゃあ今日は、おばあちゃんは留守なの?」

「そう、海外旅行に行ってるんだ」

「でも何で最初に言ってくれなかったの? わたしはずっと実家から通ってるのだと思っていた」

「実家から通っていたのも事実だよ。おばあちゃんが居る時は、基本実家に帰ることにしていたから。居ない時に使わさせて貰っていたんだよ」

 それで色々な謎が氷解した。上野の山や忍ばずの池で色々なものを見て、お茶にした。

 喫茶店で並んで座りながら、もう一つの心配ごとを口にしてみる

「わたし今日は家に帰ることになっているんだ。母にどう言えば良いかな」

 そうすると顕さんは

「電話する時に俺を出してよ。ちゃんと言うから」

「なんて」

「真剣な交際ですって」

 わたしは真剣な交際なら高校生を都内の何処かに泊まらせても良いのかと思ったけど、翠はもう、こんな事はとっくに乗り越えてしまってると思い口にするのは止めた。

 お茶をしながら時間を見て母に連絡する。こういう時は家の電話では無く母の携帯に掛ける

「あ、おかあさん。今日は顕さんと逢ってるんだけど。今夜は向島にある顕さんのおばあちゃんの家に泊まらせて貰おうかと思っているんだけど」

「え、泊まって来るの? じゃあご飯要らないわね」

「うん……いいの?」

「良いも何もあんた泊まるんでしょ彼と」

 母はお見通しだった。その様子を見て顕さんが電話を代わった。

「結城です。今日は里菜さんを東京の親戚の家に泊まって貰おうかと思っているのですけど。宜しいでしょうか……はい、それは真剣です。決して遊びではありません。将来のことも考えています……はい、ありがとうございます」

 顕さんがスマホをわたしに渡してくれながらニコッとした

「もしもし」

「あんたちゃんと用意してあるの?」

「うん。それは大丈夫」

「じゃ何も言わないわ。じゃあね」

 母はそう言って電話を切った。わたしは恥ずかしくて、顕さんに抱きついた。実は予想はしていたので用意はしてあったのだ。

 その後、何処かで夕食を食べるより何か買って、おばあちゃんの家で二人だけで食事をすることに決めた。そうすれば他人の目は気にならない。

 少しずつ胸の高鳴りが高まって行くのを感じていた。

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