第39話 土の匂い、レッシの実
「私達は、ただ失っただけです」
実直そうな顔を歪ませて、男はすがるようにエイラを見た。考えこむ時の癖なのだろう、髭の生えた顎をしきりに指でさすっている。夏の聖戦を決定した皇帝への不満は、ほうぼうからにじみ出ている。その不満を受け止め、いなし、確実に自分へと心を動かしていくアスタルの手腕は、よく知ったエイラですら、薄ら寒くなるほどだった。だがその手足となって動く自分も、大して違わないのだろう。その証拠に、目の前の男も、エイラに心を動かし始めている。
「これほどの犠牲に、陛下からは何も報償はなかった、と?」
今知ったかのように、目を丸くしてみせる。貴人の警護ばかりの女騎士が柔らかな表情を見せれば、大抵の者は彼女が誰かを忘れて心を緩め、隠すべき考えですら吐き出し始める。歳の割に幼い顔立ちも、その油断を作る助けになっているようだった。
「そうなのです。失ったのは己の弱さによる、と。下級騎士が多かったとはいえ、皆我がレンダー領の大切な民。働き手が減るのはもちろんですが、それよりも、これからこの地を担うべき若者たちが多く、そして無為に、命を落とした。私はそれが辛くてなりません」
レンダー家当主のヴィゴは、逞しい身体を縮めて苦しげに眉を寄せた。その誠実そうな表情を見て、皇帝が彼を遠ざけたわけが腑に落ちる。この人柄で軍の要職にでもあれば、心を寄せない者は少ないだろう。この男をうまく使える力が上にあれば、国の武器になる。だが、使いこなせない支配者には、配下の者の人気は邪魔なだけだ。
「ヴィゴ様の仰るとおりです」
そっと首を傾け、唇を噛んでみせる。そして、ためらうように間を空け、小さく呟いた。
「このまま聖戦を続けて、良いのでしょうか」
かすかな声だったが、ヴィゴは聞き逃さなかった。
「エイラ殿!お気をつけ下さい。そのようなことを、あなたは言うべきではありません」
「……そうですね。申し訳ありません」
ヴィゴは諌めたが、その目に浮かぶ同調の色にエイラは内心微笑んだ。今日はこれくらいでいい。再び会う時にアスタルの義憤をちらつかせでもすれば、簡単にこちらにつくだろう。
聖戦に話題を向けることを巧妙に避けながら、表向きの要件であった国内の交易に関する書状を渡す。そろそろ、と言って席を立とうとすると、ヴィゴはそれを柔らかく押しとどめて口を開いた。
「エイラ殿、あと少々お待ちいただけるだろうか」
ヴィゴはそう言って微笑む。よくわからぬまま頷くと、ヴィゴは慌ただしく部屋の外へと走りだした。すぐに戻ってきた彼の腕には、紙の包みが抱えられていた。
「最上級の騎士殿に対し、こんなものでは失礼になるかもしれないですが」
「あの、これは」
受け取らぬまま、彼の顔を見上げて尋ねる。
「あ、いえ、変なものではありません。ほら」
彼が包みから取り出したのは、見たことがないほどに粒の大きなレッシ(ブルーベリーに似た果実)だった。
「今年は豊作で。レンダー領のレッシは美味しいですよ。これは私の個人的な畑でとれたものですが、なかなか良い出来なので……よろしければお受取りください」
言われるまでもなく、そのレッシは見るからに美味しそうだった。きっと、田舎領主の心遣いとして笑顔で受け取り、今後の関係に備えるのが正解だったのだろう。しかし、一瞬、戸惑ってしまった。
「あの、」
「これは、アスタル様にではなく、このような地まで赴いてくださったあなたに。いろいろと疲れる話をしてしまったのは私なのですが、それを抜いてもあなたは少しお疲れのように見えて……レッシはつかれた時に食べると効くんです」
ヴィゴの声は確かで、裏のない温かさがあった。何故か、それが少し怖かった。
「あ、ありがとうございます」
なんとか笑顔を作り、包みを受け取る。中で幾つかが潰れてしまっているのか、酸っぱい香りが漂う。
「どうしてでしょう、皇族にお仕えしている方だとはわかっているのですが、あなたには親しみを感じてしまう」
俯くと、ヴィゴの手が目に入る。ごつごつとした指先は、農夫のようで、領地の農耕にわざわざ赴いているという噂が本当であることを物語っていた。思わず唇が震える。
「それは、」
自分がこの地位にいることが相応しくないと、そう言っているのか。問いたい気持ちを抑えこむ。口を閉じたエイラを不思議そうに見るヴィゴに、何でもないと告げて無理やり微笑んだ。
「こんなにたくさん、ありがとうございます。そうですね、最近少し忙しくて疲れているのかもしれません」
* * *
ヴィゴに別れを告げ、屋敷の外に出る。ヴェトルらしい曇りの灰色が、薄白い昼を彩っていた。控えさせていた部下にレッシの包みを渡し、厩舎から連れ戻させた馬に跨る。居所の分からない怖れはまだ、頭の奥を焼いていた。
「お前たちは先に宿屋へ戻れ。私はこの辺りをあと少し視察する」
「お一人で、でございますか?」
不安な顔をした部下を一瞥し、ため息混じりにこたえる。
「自分の身くらい自分で守れる。案ずるな」
頷いた二人の部下を帰らせ、自分は反対方向へと馬を走らせた。
季節は夏。寒さの厳しいヴェトルで、最も命の濃い季節だ。濡れた土の匂いをさせた畑の間を、ゆっくりと進んでいく。レンダー領に来たのは初めてではない。 痩せた畑ばかりが広がる、小さな領地だ。最もえているはずの屋敷付近ですらこれなら、郊外はもっと寂しい光景が広がっているのだろう――エイラがかつて暮 らしていた村のように。
ひやりと湿った風が頬を叩く。あの程度の会話で、何故心がざわつくのだろう。逃げずに向き合うなら、答えは明らかだった。
騙しているからだ。利用しているからだ。自分を偽ったからだ。
屋敷に使える者達の様子を見ていればわかる。彼は本当に善良な男なのだろう。それを、アスタルの目指す未来の為に消費しようとしている。どうでもいいことのために、彼を失うかもしれない。それが嫌なのだ。
風に揺れるレッシの枝を見て、エイラは自嘲の笑みをこぼした。
なんと勝手なことか。
アスタルの言った通り、自分は今まで何人も底へと突き落としてきた。アスタルの見ている、今よりずっと良い未来のために。だがそれも表向きの理由で、本当 はそこで何もかもを見下ろす地位に行きたかっただけだ。かつて自分を見捨て蔑んだ村人を支配し、嘲笑した他の貴族を従え、愚かな皇族の上に立つ。そのため にアスタルを利用していただけ。
けれど、必死に喰らいつき全てを投げうったはずなのに、今は地位など意味のないものにしか思えない。大切なものは、変わってしまった。そして今度は、彼女を守るために嘘をつくことにした。けれど嘘をつくのも嫌だと、どこかで自分が駄々をこねている。
では、何をすれば良かったというのだろう。
自分の勝手さに、怒りと呆れと、悲しみがこみ上げる。
みすぼらしい、孤児のエイラが、今になって足下にまとわりつくのだ。思い出を掘り返し、無邪気に笑いかける。蹴り飛ばしたくても、それは自分だ。どうにもできない。
「何してるんだろ、私」
宿屋のある街へと向け、エイラは馬を走らせた。
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