第36話 エイラの訪れ
夢は見なかった。だから、ノックの音は闇の中から聞こえて来た。それがうつつの出来事だと気づくまでにはしばらくかかったが、ようやく頭が回り始める。目蓋をまた閉じあわせたい気持ちを吹き飛ばしたのは、ノックにまじり聞こえた声だった。
「ロタ……、ロタ、いますか」
飛び起きてドアへと走り、開く。
「エイラさん」
ドアの外に立っていたエイラは、少し上がった息を一瞬止めて、苦しげに吐き出した。雨具を身につけていないその身体は、池に飛び込んだかのようにずぶ濡れだった。
濃い茶の髪が、その色をより濃くして、鈍く灰色の光を映していた。
「どうしたんですか、雨具は、」
「ロタ」
話しかけた言葉が聞こえないかのように、エイラは呟いた。
「……ロタ」
震える指先がロタの顔に伸び、頭と片目を覆った包帯に触れた。
「目を?」
心なしか、声も震えている気がした。ぼうっと立ったままのエイラは、まだ横殴りの雨に打たれている。手首を掴み、無理やり中に引き込んで気づく。触れた手首が温かすぎる。はっとして額に手を当てると、燃えるように熱かった。
「エイラさん、熱が!」
「ロタ」
胸が締め付けられるような声で、彼女はロタを呼んだ。瞬間、見てしまったエイラの目から、視線が外せなくなる。ロタの知っている、強いひとはそこにはいなかった。ただ、混じりけのない恐怖をたたえて、焦げ茶の瞳がこちらを見つめている。その目尻から涙が伝い、頬についた雨粒に混じった。
心の底から、怖いと思った。エイラの瞳を深く見すぎて、恐怖が伝染してしまったのではないかと思うほどに、自分の体は怖れ、震えていた。そうせねばならぬ気がして、濡れそぼったエイラの身体を抱きしめる。冷たく、それでいてぼうっと熱い背中に手を回す。笑わなければ。何でもないと笑ってみせれば、きっとエイラの目にはいつもの強さが戻ってくる。そうしたら、ロタはまた、その背を追い、手を引いてもらえるのだ。
だから、笑わなければ。
「ロタ、私は、」
怯えが声になってロタを呼ぶ。塞いでしまいたい。何を? 彼女の口を? 自分の耳を?
拭ってやればいい、そう思っていたはずの涙に、触れることもできない。拭ってやれない。
「大丈夫、大丈夫です。ちゃんと生きてます」
抱きしめる腕に力を込めながら、彼女からは見えない自分の顔に、笑みを作る。
「私は、」
怖れ以外の感情をすべて失った硬い声が、耳元に響く。
「大丈夫ですから、ね」
「ロタ」
「安心してください。お願いだから」
「私は」
声が、ロタを引きずり込む。
「私は、きっとあなたを殺してしまう」
「エイラさん!」
思わず出した大きな声に、返事はなかった。慌てて体を離し、エイラの顔を見ると、彼女は目をひたりと閉じて、気を失っていた。悪夢にうなされている、という方が近いかもしれない。苦しげな眉。浅く、速い息。血の気のない頬。ぐにゃりと力が抜けた身体。
「エイラさん。……エイラさん!?」
どうすればいいかわからない。震えが喉元にこみ上げる。
「どうしよう、」
突然、泣き虫で怖がりの幼い自分に戻ってしまったように感じた。頼りたいのに、エイラはいない。雨の音が、うるさい。
唇を噛む。落ち着け。友がひとり、熱を出しただけだ。にじみだしそうになる涙をこらえ、ロタは唇の痛みにだけ集中した。
エイラは時折苦しそうに呻き、ひゅうひゅうと息を吸う。風邪にしては、ひどすぎる気がした。医者に診せなければ。けれど、今傷病者棟に行っても、怪我人が多すぎて診てもらうことは簡単ではないだろう。ならば、
ロタはエイラの身体をそっと壁にもたせて座らせると、立ち上がってブーツを履き、乾きかけの雨除けマントを掴んだ。自分よりはるかに華奢で小さな身体をくるむように、マントを着せてフードをかぶせる。
「少しだけ、我慢して下さいね」
そう言って抱き上げる。頭の中に、雨に濡れにくい最短の道を思い描く。そして、開け放したドアを閉めることも忘れ、更に強くなった雨の中へ飛び出した。
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