第4章 綻び
第33話 青年との出会い
怪我をした時に思ったのは、エイラの泣き顔だった。また泣かせてしまう。しかし、次の一撃を受け止めたときには、その感情も消えていた。ダナイの兵は、軽装備だ。近くの敵であれば、すぐに倒せる。急に力をつけた国だからか、ひとりひとりの兵の質もそこまで高くはなかった。けれど、恐ろしいほどに数が多い。一人を斬り捨てても、まだ奥には倒しきれない程の兵がいる。
ぐらりと視界が揺れた。鎧があったおかげで、血はそれほど流していない。めまいの理由はわかっていた。身体の内側にこもる熱が、血を逆流させているのだ。このままでは、遠からず倒れる。そうなってはもう生き残る道はない。
ロタは目の前の敵を振り払い、戦いの隙間を縫って馬を駆った。冬に慣れすぎたヴェトルの騎士は皆、暑さに弱り始めている。きっと遠からず撤退だ。兵が多い今なら、前線を抜けだしても気づかれない。誰も見ていない。誰も。
――また逃げ出すんだ。
どこかで、自分がささやいていた。馬を駆るロタを、もう一人のロタがどこかで見ていて、責めている。
「違う」
手綱を握る手に、力がこもった。
――何が違うの?
「違うんだ」
――そうやって、全部から逃げ出して、結局なんにも手に入れられないんだ。
「……違う」
頭のなかに響く自分の声を無視して、ただひたすらに手綱を握りしめる。手に入れたいわけじゃない。近くにあればそれでいい。それで、よかったのに。
その瞬間、重く風を切る音が聞こえ、目の前が暗転した。
***
どうやってここまで辿り着いたのかわからない。片目は、額から流れる血で潰れて、まともに開くことすらできない。撤退の知らせが行き渡る頃には、ロタは陣のすぐ側まで来ていた。荒い息を整えることもできないまま、馬を降りる。ひどく気分が悪い。遠くから聞こえる馬の足音に酔ってしまったかのようだった。こみ上げる吐き気と戦いながら、馬を引く。
陣には、全体から見ると少ないとはいえ、かなりの数の騎士が戻ってきていた。心の内でほっとする。これで、一番に帰ってきた背教者とは言われまい。しかし同時に、そんなことを考えている自分に嫌気が差した。身体だけでなく、心まで、ずるく汚い女になってしまったような気がするのだ。
馬をつないだ瞬間、吐き気に耐え切れずしゃがみ込む。
「おい、大丈夫か」
声のする方を見ると、一人の騎士がこちらに駆け寄ってきた。彼が兜のマスクを上げると、人の良さそうな若い顔が現れた。
「衛生兵があちらにいる。診てもらおう。立てるか? ああ、その前に兜を取れ。重いのはよくない」
言われるままに、兜を外す。確かに、途端に息がしやすくなる。見える片目で見れば、兜は大きく凹んでいた。
「こりゃ酷い……血だらけだぞ」
頬を触って、まだ乾いていない血がべたついているのに自分で驚く。首元が血か汗でじっとりと湿っていたのは感じていたが、これほどとは思っていなかった。赤く汚れた指先をブーツで拭う。
「だ、大丈夫です。多分そんなに深くないから」
青年はロタの声を聞き、くいと眉を上げた。
「……お前、女か? 珍しいな。名は? 俺はイグ。イグ・トーシュ」
青年は名乗りながら手を差し伸べる。
「ロタ・ゼネル、です」
手をとると、彼はロタが歩きやすいように肩を貸してくれた。立ち上がるとやはり吐き気は増したが、イグの肩は確かで温かい。
「ロタか。少し歩くぞ、いいな」
「はい」
近くで見れば、彼もわずかに頬を擦りむいている。前線で戦っていたということは、彼もまた下級騎士なのだろう。
「酷い戦いだったな。……また大勢死んだ。俺の隊でも五人、どうなったかわからん。俺も、親友が見つからなくて探してたんだ」
「私は、」
自分は、逃げてきたから見ていない。そう正直に言ってしまえたら楽なのだろうか。
「私は、わからない」
力なく答えるロタをねぎらうように、イグは微笑んだ。
「乱戦だったからな。よく帰ってきた。この有り様じゃまるで撤退するために戦ってたみたいじゃないか。生き残った者勝ちだぞ。……聖戦は正しいことかも知れないが、神の言葉を聞く人間が間違ってる。無駄に兵を消費してどうなるっていうんだ」
「あの、」
ロタがささやくと、イグは人懐っこい笑みを浮かべてこちらを見た。
「どうした」
「聖戦で死んだら、救われるから、」
こわごわと声を出すと、イグはため息をついた。
「異教徒に殺されて、救われると思うのか?」
言われて、胸がじくりと痛んだ。
「で、でも、そしたら、前に死んだ仲間は」
死んだ仲間の最期を思い出す。彼らは、救われたのだ。そう思いでもしないと、苦しさでどうにかなってしまいそうだった。俯いているロタの肩をイグの手が優しくぽんと叩く。
「ごめん、……そうだな、あいつらは救われたかもしれない」
頭がぐらぐらとして、吐き気が強い。支えてくれる温かな肩にすがって、ロタは考えることをやめた。
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