第17話 城下にて

 ***


 聖戦に赴いた十二の部隊のうち、四部隊が壊滅して撤退を余儀なくされたとの知らせが、まろやかな午後を引き破った。四部隊といえば、その構成数は千人を優に超える。これまでとは比べ物にならないほどの損失だった。対するダナイの犠牲者は、百にも満たない。どんな言い訳も出来ないほど、明らかな『失敗』だった。


 温い光の差す回廊で、アスタルは知らせの文書を握りつぶした。その内容を告げた以外に言葉は無かったが、静かな怒気が後ろを歩くエイラにまで伝わる。靴底が石の床を叩き、冷たい音を響かせた。アスタルが予想した損害を数百も上回る犠牲が出た。その内には、いつかの剣闘大会の優勝者も含まれていたという。


 剣闘大会の記憶が、また胸の奥の傷に触れる。千人を超える犠牲。忘れたい横顔が、再びよみがえる。


「帰還は、いつでしょうか」


 訝しげにこちらへと向けられた視線に、はっとして口を噤む。余計なことを口にしてしまった。だが、アスタルは厳しい顔をわずかに緩め、眉を上げた。


「おかしなことを聞く。……明後日までには戻るのではないかな」


 答えを聞き、礼を言う。だが、知らせを受けてから早くなった鼓動を落ち着けることが、どうしてもできない。暴れる思いに弄ばれているかのようだった。エイラの胸中とは裏腹に、それからの二日間は穏やかに過ぎた。事件といえば、主戦派の苛立ちの矛先がアスタルに向かないよう、掴んでいた小さな不正を告発しただけだ。しかしそれも何重にも人を挟んであるものだから、エイラの生活は一切変わりはしない。やり場のない焦りだけが、エイラの心を蝕んだ。知らせが来る度、皇都騎士団の帰還かと鼓動が跳ね上がる。


 その日も、エイラはアスタルの言いつけで城下へと菓子を購いに出かけていた。これが建前で、本当はエイラに会わせたくない客が来るのであろうことは、エイラも承知していた。アスタルは自分をよく動く手駒として使いたがっている。だからこそ、多少踏み込んだ情報まで教えてくれるのだろう。だがそれは、信頼して語ることとは別だ。エイラの位置では知ってはいけない情報など、山ほどある。情報を与え、隠すことを、アスタルは恐ろしいほどの緻密さでしていた。


 アスタルに言われた通り、いつもの菓子を買い求める。を出そうとすると、菓子を紙の袋に入れる手を止めて、店の女がこちらに目を留めた。


「あなた、ずいぶん上級の騎士みたいだけど、貴人のお使い? 前もいらしてましたっけね」


ふくよかな顔が、笑みに崩れる。こうやって親しげに語りかけられるのは、嫌な気分ではなかった。久しぶりに気持ちがくつろぐ。


「ああ。その通りだよ。貴族の令嬢は皆この店の菓子に夢中だ」


 隠すことではないが、それとなくアスタルの存在を遠ざける。用心に越したことはない。


「いえいえ、もっと前ですよ。確か、」


 女は少し思い出すように上のほうを見つめ、頷いて身を乗り出した。


「こないだの春じゃないかしら。花びらの糖漬けを、」


エイラは思わず片手で口をふさいだ。


「……そんなことまで覚えているの?」


「いつもならお客の顔なんてすーぐ忘れちゃうんですけど、あなた本当に嬉しそうにしてたから、つい」


 ころころと笑う女を前に、頬が熱くなるのがわかった。ごまかそうと、口を開く。


「そうだ。あれは次の春も作るのか」


 女は心なしか胸を張る。「自慢のお菓子よ。毎年必ず作りますとも」


「とても美味しかった。時間があれば、また買いに来たい」


 女は、袋に詰め終わった菓子と、もう一つ小さな菓子をエイラに差し出した。


「それは嬉しいこと。待ってますよ。こっちはおまけ。どうせこの袋の中身はあなたのご主人様に持って行かれちゃうんでしょう。だからこれはあなたの分よ」


 思いがけない気遣いに、体中が温かくなる。女に笑いかけ、袋と代を交換した。


「ありがとう」


 袋の他に手渡された小さな焼き菓子が、何故かとても大切に思えた。


 店を出ても、しばらくその温かさは消えなかった。しかし、まだ日は高い。まだまだ時間を潰さなければならないだろう。いつもならばアスタルに午後の茶を淹れる頃合いだが、今日はすることもない。自分の無趣味さに嫌気が差し、エイラが小さくため息を付いた時だった。


 南の門の方角から、高らかな蹄の音が聞こえる。


 次の瞬間、一騎の騎兵が目の前を宮殿に向かって駆け抜けた。騎兵は、紺地に白抜きの三叉剣の盾を掲げていた――きっと、帰還の先触れだ。エイラの中で訳の分からない感情がうねり、渦巻く。


 口を引き結び、宮殿に向けて石畳を蹴った。


 確かめるだけだ。そう、何度も自分に言い聞かせた。千人の犠牲のうちに、かつての友が数えられていないかを知りたい、ただそれだけなのだと。

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