第11話 ロタのサンドウィッチ

 ***


 日が沈むまで、まだ間はある。しかし、いつもより早めに仕事を終えたエイラは、外套の襟元を寄せながら森へと向かっていた。この間は待たせてしまった。次は自分が待っていたっていいだろう。


 よく晴れた日の夕方は、空の色がいつまでも青い。しかし、わずかに赤みも差した午後の冬空は、柔らかな色合いの中、どこか物寂しくもあった。

 木々の隙間をくぐり抜けて、ぽっかりと空いたその場所にたどり着く。倒木に掛け、以前見上げたように空をぼうっと眺めた。

 まだまだ空は明るいのに、一つ二つ、星が輝いている。冷えてきた指先を擦り合わせ、幼い頃のことを思い出した。


 星を数えよう、そう言って寝転がったのに、エイラが数え終わっても、ロタはずっと空を見ていた。遅いと言うと、まだ数え切れていない星がある、とロタはべそをかいた。それを聞いて、つい彼女の目を隠してしまった。意地悪がしたかったわけではない。やっと見えるような小さな星まで、ロタは見つけてくれる。それが何故かすごく嬉しくて、泣きそうになってしまったのだ。ロタなら、身寄りのない自分でも、見捨てずにいてくれるのではないか――そう思ったのかもしれない。そのとき、落ち葉を踏む音が聞こえた。木の陰から、ロタがそっと顔を出す。


「……待ちました?」


 おずおずと尋ねる彼女に、首を横に振ってみせる。


「来たばかりです」


 ロタはエイラの隣に掛けると、大切なものを拾い上げるようにエイラの手をとった。ごわごわと固く大きな手は、じんわりと温かい。


「でも、こんなに冷たい」


 そう言って、ロタはエイラの手を両手で挟み込む。ロタの手の温かさが冷えた手の内側に溶けていく。エイラの手をさすりながら、ロタは頬を緩めた。


「やっとあったかくなってきた」


「……ありがとう」


「これで大丈夫ですね」


 ロタが手を離したときには、指先まで温かさがしみわたっていた。手を閉じ、開く。なんだか愉快で、ふっと笑みが漏れる。暗くなり始めた空気に、息は白く映った。漂う間もなく息はかき消え、ふとその奥のロタを見る。シャツに上着を一枚羽織っただけのロタは、いかにも寒そうだ。


「でも、そんな格好では、あなたが風邪を引いてしまいますよ」


エイラの言葉に、ロタは得意気に口の端を上げた。


「私、結構身体強いんです」


「何言ってるの」


 外套のボタンを外し、ふわりと広げる。大きなロタの肩までは入らなかったが、身を寄せ合えば背中を覆える。


「……あったかい」


「でしょう」


 幼い自分に戻ったような気がして、また笑いがこみ上げる。エイラが吹き出すと、ロタもくすくすと笑った。


「次からはもっと厚着をしてきなさい」


「はい」


 ロタとの時間は相変わらず穏やかで、アスタルの言うようにこの国が傾き始めているなどとは信じられない。けれど、昨日アスタルから聞いた知らせを忘れることもまた、できなかった。


「次の聖戦は、半月後だそうですね」


 小さな声で、呟く。言った瞬間、本当なのだと恐れがわき起こる。


「ああ、今日聞きました。怪我ももうほとんど治ったし、このままなら参加できそうです」


 ロタの口調は弾んでいる。ちらりと彼女の胸元に目をやると、飾り気のない三叉剣のチャームが揺れていた。

 信徒にとっては、この戦いに参加することは、それだけで自身の罪を雪げる、喜ぶべきことなのだ。

 苦い思いで唇を噛む。温かくなったはずの指先がまた冷えていく。布越しに触れ合った肩も遠い気がした。ロタは、自分に会うために来てくれた。けれど、彼女の信ずる神のための戦いであれば、また行ってしまうのだ。エイラを置いて。


「行ってしまうんですね」


 風が落ち葉を転がす。その音に紛れるように、ロタには聞こえないように、エイラは呟いた。


 出自からは考えられないほどの地位も名誉も手にした。だが、たった一人の友すら、側に留め置くことができない。悲しくなるほどに、無力だった。


「そうだ」


 明るい声のまま、ロタが手をぽんと叩いた。


「せっかく持ってきたのに、忘れるところでした」


 肩に斜めにかけていた袋から、何か包みを取り出す。


「エイラさん、夕飯はもう食べました?」


「……まだですけど」


 答えを聞いて、ロタは心底嬉しそうに笑う。包んでいた布をそっと開きながら、話しだす。


「よかった。実は、サンドウィッチ作ってきたんです。結構動けるのに剣はまだ持てなくて、ちょっと暇で」


 布の中には、チーズとハムとを挟んだパンが、綺麗に並んでいた。


「あなた、器用ね」


「……ごめんなさい。エイラさんがいつも食べてるものと比べたら粗末でしょうけど。ここ、なんだか隠れ家みたいで楽しいから、二人で何か食べたかったんですよね」


 鼻歌でも歌い出しそうに機嫌のいいロタに、一瞬不安を忘れた。愉快な気持ちが胸をじんと温める。


「さあ、どうぞ」


「じゃあ、ひとつ……」


 薄闇の中、エイラはサンドウィッチに手を伸ばす。大きく口を開け、がぶりと食いついた。


「美味しい」


 大きな一口を飲み込んでそう言うと、ロタは照れくさそうに頬をかいた。


「よかったです」


「すごく美味しい」


 忘れていた。固いパンに、普通のチーズとハムを挟んだだけの食べ物がこんなに美味しいなんて。


 思えば、都に来てからは上質なものばかり食べていた。柔らかいパン、温かなスープ、子羊の肉。生きるために盗みさえした自分には、余るほどの食事は喜びよりむしろ恐怖だった。食べ物の味を感じるより、家の者の視線が気になって仕方がなかった。上から見下されるのも、下に疎まれるのも、そういえば、辛かった。


「あなたと一緒に食べたかったわ」


 呟いてから、自分が言葉を発したのに気がついた。


「……食べてますけど、」


 食べかけのサンドウィッチを両手で持ったまま、ロタが首を傾げる。


「そうじゃなくて。あなたと一緒だったら、今まで食べたものもずっと美味しかっただろうなって。たとえば……去年の春、休暇を頂いたときに城下の菓子店に行ったんです。柄にもなく甘い菓子を買って、食べて、そのときは美味しいって思ってた」


 花びらの砂糖漬けだったか。春しか食べられないと聞いて、つられるように買ってしまったのだ。


「けど、あなたと一緒ならもっと美味しかったはずだわ」


 言ってから、少し恥ずかしくなる。どうして、この人の前だと気持ちをそのまま口にしてしまうのだろう。押し隠すのは上手くなったと思っていたのに。エイラが頬を染めているのには気づかぬ様子で、ロタは興味深げに何度か瞬いた。


「へえ、食べてみたい。城下の店、全然行ってないんです」


「なかなか面白いですよ。……そうだ。サンドウィッチのお礼に、今度あの菓子を食べさせてあげる」


 エイラがそう言うと、ロタは顔をぱっと明るくした。


「本当? わあ、楽しみです」


 ロタと顔を見合わせて微笑む。不思議な気持ちだった。まるで、町の娘たちにでもなったようだ。他愛もない話をし、笑いあう。こんな小さなことで、こんなにも満たされる。


「約束ですよ」


 言って、最後の一口を食べる。やはり、美味しい。パンくずを膝から払いのけ、ロタを見る。彼女は、また空を見ていた。


「空が、好きなの?」


 長い間、空を見上げることなんてしなかった。進むべきは前だけだったし、見下ろす方が楽しいと思っていた。だが、今、空を見上げるロタの横顔は美しい。澄んだ瞳には、瞬き始めた星が映ってちらちらと輝いている。


「ええ。空は、どこへでも繋がってますから」


 ぽつりと、ロタは答えた。その綺麗な瞳に映った空を自分も見てみたくて、エイラは空を見上げた。夕方の明みを微かに残した夜空に、無数の星が散っている。


「不思議ですね」


 エイラは隣に座る友に身をもたせかける。鍛えられた身体は、温かく、確かだった。空と自分たちを遮るはずの枝は、闇に溶けてしまったようだ。広すぎる星空に飲み込まれ、二人だけがここにいる。互いの熱だけが、二人を繋いでいた。

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