四輪の魔女は口笛高く

馬場卓也

第1話 座位暴君009



 まだセミが鳴くのは少し早いけど、日に日に暑さが増していくような、そんな6月も始まったばかりのある日。


 先週末には中間試験も終わり、通学路にはホッとした顔、そうでない顔、そして衣替えの時期で、ブレザーとワイシャツ姿、それとほんの極少数ではあるが、制服をクリーニングに出したままなのか、それとも部活で着替える時間が惜しいからなのか、体操服姿の学生の姿もちらほら見えた。そんな中、三上ショウタは人ごみに紛れるように、そして何かから身を守るように、ほんの気持ち程度に体をかがめて歩いていた。特にやましいことをしたというわけではない。だが、駅から降りて学校まであと数十メートルのこの場所が彼にとっては、地雷源であり、飢えた猛獣が牙をむく密林地帯だった。


「余裕だ……ここさえ通り抜ければ。いや、通り抜けるのは困難ではない、問題はそこにあいつがいるかいないか、なんだよな」

 周りに聞こえないようにつぶやき、ショウタは前を見る。歩道の脇にはバス停が立っている。今時珍しい、時刻表が中央部に取り付けられた木製の標柱の先端に、円形の標識があるだけの簡素な、昔ながらのバス停だ。もっとも、この場所に用があるのは通学利用の学生ぐらいだけなので、これぐらいの作りでもいいのかもしれない。最寄駅から一駅向こうから運行しているこのバスは、この時間はほとんど通学利用の学生であふれ、ショウタの通う高校のスクールバスのようになっている。そんな何の変哲もないバス停が、ショウタには時折冥府の入り口のようにも見えることがある。実際、ショウタはこのバス停のことを心の中では『地獄門』と呼んでいた。なぜ、そんな呼び名になったのか、その原因はわかっている。


 ショウタは足を止め、バス停を、そしてその周辺をきょろきょろと見渡す。何度見ても学生たちの姿しかない。

「今日はいない……」

 ショウタはほっと胸を撫で下ろし、そしてスッと背筋を伸ばした。自分の策がまんまと成功したことへの喜びもあり、その顔は少しばかり緩んでいた。

「勝った……ついに、とうとう勝ったんだ、俺は! やった、解放されたんだ!」

 何かに勝利したショウタは自然と足取りが軽くなり、校門へと向かう。今日はついてる、ラッキーだ、これからこの調子でやっていけばいい、なに、何かあったらごまかせばいい……歩を進めながら、ショウタはそんなことを考えていた。


 ひゅっ。


 と、そんなショウタの後ろで風が鳴った。ビク、とショウタは足を止める。体がこわばり、ぎこちなく後ろを見る。誰もいない。いや、いるにはいるが、学生ばかりだ。気のせいだ、さっきのは本当に風の音だったんだよ、とショウタは自分に言い聞かせた。


 ひゅー。


 今度は先ほどよりもはっきりと、しかも長く、風が鳴った。風の音というより口笛だ。「風だ……たぶん、風の音だよ、きっと……たぶん、おそらく、可能性としてはそっちの方が高いはず、たぶん……」

 先ほどから一転、足に鉄球付きの鎖でも巻かれたように、ショウタの足取りが重くなっていた。

「違う、違うぞ、今日は……俺が勝ったんだ」

「誰が何に勝ったのよ?」

 ショウタのつぶやきに、背後から返事する声があった。

「気のせい、気のせい……あっと……いっけねえ、ぐずぐずしてると学校始るなあ、急がなきゃ!」

 わざとらしく大声で独り言を漏らし、先ほどの重い足取りはどこへやら、でショウタは駆け出した。とはいえ、始業までにはまだ十分に時間がある。

「くそ、今日こそは、今日だけは、今日に限って……今日も……」

 足には自信がある、わけではなかった。しかし平均的な男子高校生の脚力ぐらいはあるだろう、とショウタは思っていた。これなら振り切れるかもしれない、あいつからも、そしてあいつの提示する理不尽な要求からも……。


 ギャロロロロロ!


 背後ですさまじいモーター音とゴムの焦げ付くような臭いがする。あいつが来る、いつもよりも激しく迫ってくるような気がする。いや気のせいだ、たぶん、気のせいなんだ、とにかく今日の俺は勝ったんだよ、勝った、勝った……はずだった。


 キュイイイィ!


 走るショウタの脇をすり抜け、黒い塊が滑るようにしてその前を塞いだ。

「おはよう、三上」

 黒い塊の正体は電動車椅子。そしてそれに乗っていたのは肩までの黒髪を、赤いピンで抑えた少女だった。年の頃はショウタと同じぐらい、いや、ショウタと同じ学校の冬服を着ている。

「なんで……」

「なにが?」

 がっくりと肩を下すショウタに、少女はくりくりと大きな瞳でじっと見つめる。

「さっきの合図聞こえなかった? それと、いきなり走り出したのは、ひょっとして私から逃げるため?」

 少女の言葉にショウタは返事もなく、うなだれていた。

「いや……なんというか……それよりも早くないか、今日?」

「なんだか早く目が覚めちゃってさ、一本早いバスに乗ったんだよ、そしたら三上も待ってくれてるし、ラッキーだなーって」

「へえ、そりゃどうも……こっちはアンラッキーだけど」

「なんか言った?」

「いいえ、別に……」

 少女は右のひじ掛けに備えられたジョイスティックを器用に操作し、きゅるきゅるとショウタに近づく。

「負けた……今日も」

「は? さっきから勝った負けたって、私のこと言ってるの?」

 少女が大きな目を細め、ショウタをにらむ。

「……だ、もう、たくさんだよ!」

 再びショウタは駆け出した。

「鈍足……待て!」


 ギュロロ!


 少女は言うが早いか、ジョイスティックをうんと前に押し、猛ダッシュでショウタの背後を狙った。

「逃がすか!」

 ショウタに激突する直前、少女は急ブレーキをかけながらジョイスティックを回すと、車椅子をスピンさせて走るショウタの背面をこする。その勢いで、ショウタの体は前のめりにずずん、と倒れてしまった。

「ぐえっ! 当たったらどうするんだよ!」

「当たらないように当ててるのよ。……ははん、そうか、今朝に限って三上が早いのは、私を待っていたんじゃなくって、私から逃げるためだったんだ……ハーン、そういうつもりだったの……」

 起き上がりかかるショウタの右手に、少女の車椅子の前輪が迫る。

「いや……俺も今日早起きして、一瀬いないみたいだから……」

「本当?」

 『一瀬』と呼ばれた少女の前輪がピタリ、とショウタの右手に触れる。

「このまま前進したら、あんたの右手は使い物に……ならないことはないけど、痛いよぉ……」 

 ショウタの脳裏に、かつて父親と見た、古い西部劇の一場面がフラッシュバックする。悪党につかまった主人公が、利き腕を馬に踏まれて使い物にならなくなるシーンだ。にやける悪党に、苦悶の表情を浮かべる主人公の血に染まった手が生々しくよみがえる。

「ま、待て……本気じゃないよな?」

「さあ、どうかな?あんたが正直に話せばよし、話さないと……」

 『一瀬』は不敵な笑みを浮かべ、ジョイスティックに手をやる。

 このままさっと立ち上がって逃げるべきか、いやそれよりも早く『一瀬』の前輪が自分の手を轢いてしまう。脅しじゃなく、こいつならやりかねん、という変な自信だけはショウタにはあった。

「お前の言った通りだ。ごめん、俺はもう、お前の世話をするのに飽き飽きなんだよ」

「そうだったの。内容はともかく、素直でよろしい」

 すう、と車椅子がバックし、ショウタはようやく立ち上がることができた。

「わ、分かってくれたのか?」

「あんたの言い分はわかった。でもこれはこれ、それはそれ」

 『一瀬』こと一瀬アキは笑顔を浮かべながらジョイスティックの下部にある電動スイッチを切った。

「じゃ、今日もよろしく」

「お前、俺がさっき言ったことわかってないじゃん!」

「いいえ、聞いたわよ、三上の言い分を。聞くだけは聞いた。でもそれは置いといて、いつものようにやってね。あんたは立派な私の介護人、ヘルパーなんだから」

「分かってねえ……」

 アキは体をひねり、車椅子のハンドルを軽く叩いた。『押せ』という合図だ。

「ったく……へえへえ押しますよ。お勤めさせていただきますよ」

「わかればいいのよ、わかれば」

 卑屈な物言いで、ショウタが車椅子を押す。電動車椅子は通常の車椅子とは違い、バッテリーや電子機器、その他パーツを搭載しているため、その動きの軽やかさとは裏腹に、かなり重い。それに、アキの車椅子は特注の上に改造を重ねているため、通常の車椅子よりも重い。平坦な道なら何とかなるが、坂道を上るときなどはかなりの労力を要する。

「しかし、さっきのあのスピード……またお前いじっただろ? こりゃもう介護用品じゃなくって立派な車輌だろ?」

「うち、自転車屋だからね。お父さんがちょいちょいって。それに、こうやって逃げ出す人間を追いかけるのにちょうどいいじゃない。休みの日に改造してもらってよかったわ、さっそくその成果が出たんだからね」

「あのね、それぐらい速く走れるわ、まるで手足のように車椅子を操るわ……俺いらなくないんじゃない?」

「そんなことないわよ、電動車椅子も無限のエネルギーで動いてるわけじゃないって、知ってるでしょ? こう見えても結構バッテリー喰うのよ。だからこそ、三上のその凡庸な手押しテクニックが必要なわけ」

「凡庸……って褒めてないよな。俺以外にも適任者はいるだろ?」

「その押し加減が最高なのよ」

 何がどう最高なのか、車椅子なんか誰が押しても一緒なんじゃないか? そんなことを思うショウタの耳に、軽やかなアキの口笛が入ってきた。

 そっちは楽だろうが、こっちはこんな重いもの押さないといけないから、地獄だよ、とショウタが心の中で毒づく。口に出せば、どんな目にあわされるかわからない。

「さあ、学校ついたらさっそく充電しなくちゃ。誰かさんのせいで無駄に走ったからね」 涼しげな顔のアキに対し、ショウタの背中は汗でぐっしょりと濡れていた。これからもっと暑くなるんだよな、と思うと気が重くなる。

 

 こうして三上ショウタの『いつもより早く登校して一瀬アキに出会わず、車椅子を押さないようにする作戦』はもろくも崩れ去ったのだった。

 

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