第43話 優斗の事情2

 教室であくびを噛み殺しながら、優斗は机の上でうつぶせていた。

 頭が重く、まるで靄がかかったように思考がままならない。その原因が寝不足にあるのは分かっていた。思えばここ最近、家ではろくに寝ていない気がする。

 そうしていると急に声をかけられた。


「有馬君、部活行かないの?」


 顔を上げるとそこには、同じ軽音部に所属している大沢泉がいた。その言葉を聞いて、ようやく今が放課後だと言うのに気付く。そんなことも気付かないなんて、これはいよいよマズいかもしれない。今夜こそはちゃんと寝よう。


「ねえ、もしかして何かあった?なんだか最近顔色悪いし、それに疲れてるみたいだけど?」


 大沢が心配そうに言う。その様子から、最初から部活のことはついでで、こっちが声をかけた本来の目的なのだと理解した。

 疲れているという彼女の見立ては正しかった。現に今だって眠いし、時間の感覚が無くなるくらいに疲労がたまっている。


「毎晩練習し過ぎて寝不足なんだ」


 嘘は言っていない。だが両親に関することは一切口にしなかった。

 こうなったそもそもの原因が両親の喧嘩にあるというのは分かっている。最近では両親が家にいない時でさえも口論が聞こえてくるような気がして、それを紛らわすために毎晩ベースの練習にかまけた結果、すっかり寝不足になってしまっていた。だがそれは決して話さない。話したくない。

 しかし彼女は、そんな言葉の裏にある隠し事の匂いを確かに嗅ぎ取っていた。


「本当にそれだけ?」


 それは単なる好奇心ではなく、本気で心配しているのだと分かる。だが優斗の答えはこうだ。


「それだけだよ。文化祭も近いし、つい熱が入るんだ」


 泉はその答えに納得しきってはいないようだったが、ここからさらに追及されるのは避けたかった。


「帰り支度終わったらすぐ向かうから、先に行っててくれ」

「本当に、大丈夫なの?」

「平気だって。眠いってだけで大袈裟だよ」

「そう?それじゃ、待ってるから」


 泉は渋々と言った様子で、それでも何とか引き下がってくれた。優斗がこの話を続けたくないのだと察したのかもしれない。

 泉を見送った後、教科書を鞄に詰め終えようやく席を立つ。その時目の前が暗くなり足がもつれた。立ちくらみだ。

 だがそれに対して驚くようなことは無かった。連日の寝不足のせいで最近では何度も起こっていて、もうすっかり慣れている。しばらく何もせずに立ったままでいると、思った通りほどなくしてそれは収まった。


 泉が行った後で良かったと安堵する。もし彼女が今ここにいたら、また何があったのかと問い詰められるかもしれない。

 泉は、優斗の家が今どんな状況なのか知らないし、話す気も無かった。話せばきっと彼女は気を使う。心配する。だけどそんなものは望んでいなかった。

 藍の父から家のことを聞かれた時、大丈夫と言ったのと同じだ。軽音部も藤崎家も、自分にとって大切な居場所だった。ただ睡眠と惰性だけで帰るような自宅とはちがう。

 そんな大事な場所に、あんな醜い争いの一端だって持ち込みたくない。自分のせいで心配なんてさせたくない。楽しいと思える場所を壊したくない。大事な人達の顔を、ほんの少しだって曇らせたくない。

 だから、何があったかなんて言わない。辛いや苦しいなんて、そんなことは絶対に言えない。


(ダメだな……)


 何だか思考がすっかり暗くなっていると自覚し、ふっと溜息をつく。

 今自分はどんな表情をしているのだろう。せっかく話さないと決めているのに、暗い顔なんてしていたらやっぱり何かあったのかと感づかれるかもしれない。もう一人の部員はともかく、泉はそういう所によく気が付く。

 あんな両親のことばかり考えているのがいけないんだ。そう思い、もっと楽しい事を考えよう。

 そんなことを思いながら、優斗は本校舎を出て部室のある旧校舎へと入っていく。


 今一番楽しみにしているものといえば、何と言っても間近に迫った文化祭だ。去年は不本意な演奏しかできなかったが、あれから一年たって少しはマシになったと自負している。今年はもっと満足できるようにしたい。

 文化祭には藍も来るって言っていた。だけど人が多いから迷子になったりしないかが心配だ。当日は軽音部だけでなくクラスでやる喫茶店だってあるが、上手く時間ができれば案内してやれるかもしれない。それなら事前に藍が喜びそうな出し物を調べておかないと。


 そうして優斗は、二階へと続く階段へと足をかけた。ここを上がってすぐ隣が部室となっている。

 その時、再び目の前が暗くなった。

 またいつもの立ちくらみか。また動かずに治まるまでやり過ごそうとする。だが今回は普段のものより少々酷かった。

 頭が大きく揺れ、足がもつれる。それでも、立っていられないというほどではない。少々辛くはあったが、何とかこらえきれる。しかしそれは全て、ここが普通の床だったらの話だ。


 もつれた足は、運悪く階段を踏み外し彼を大きく転倒させた。そしてさらに運の悪い事に、それは最上段で起きた出来事だった。


「うわっ!」


 短く上げた声は誰にも聞こえることなく、優斗の体は階段を転げ落ちる。あまりに突然のことだったので、痛いと思う余裕は無かった。ただその後、頭に強い衝撃が走った。そしてそれが、優斗が覚えている、生きていた頃の最後の記憶となった。

 倒れている彼を最初に見つけたのは、偶然通りかかった生徒だった。その後すぐさま病院に運ばれ治療を受けたが、その後意識が戻ることは無かった。


 これが有馬優斗の、あまりに唐突で,あまりに呆気ない最後だった。

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