ひなかご 11(最終)
「僕は一生、君に会うことはないと思っていた。君の婚約者に会うまでは」
「クロードが?」
クロードがなぜジォンの居場所を知っているのだろう。カミーユはふと息を詰めた。クロードは弁護士だ。戦後の裁判の記録を見て、クロードはジォンを捜しだしたのだろう。カミーユは肩をふるわせた。何のために。
「君にとって僕は特別な存在であるようだと、彼は言っていた。彼が僕のアパルトマンへ電話をかけてきたとき、ちょうど遊びに来ていた息子が出たんだが」
「シリルと会っているの?」
「ああ。妻と会うことはないけどね。シリルは、彼を僕とまちがえた。僕が息子をからかっていると思ったらしい――彼は僕のもとへ来た。僕も君の婚約者も、自分たちの声がそんなに似ているとは思わなかったが、シリルは僕らの声はそっくりだという」
カミーユは口元をおさえて沈黙していた。クロードの口調は明晰で、訛りのないきれいなものだった。そんなことに気づいたことは一度もなかった。
「彼女はいつも、そこにはいないだれかを捜しているような気がしていた」
声が記憶を辿る。カミーユは妹のうつろな目を思い出していた。
どこにもいないだれかを捜す目。自分はアンリエットと同じ目をしていたのだろうか。
「彼女は僕に会うとき、いつもほんのすこしだけがっかりした顔をした。僕は、戦争のときに大事な人をなくしたと彼女から聞いていた。彼女が僕に失った人の面影を重ねているのなら、それでいいと思った。僕は彼女の思い出ごと、彼女を愛していると思っていた」
リヨンで彼と別れたときのことを思い出していた。いつもと変わらない、おちついた笑みだった。彼がそのまえにジォンに会いにいっていたことなどまったく気づかせることのない泰然とした態度で、カミーユを見送っていた。
「君たちの仲はうまくいっていなかったのかい?」
「――いいえ……」
クロードのアパルトマンを出たとき、かれはらせん階段を降りていくカミーユを呼び止めた。
――なに?
カミーユは首をねじ曲げてふりかえった。自分がかれから逃げ出そうとしていることに気づくことを恐れていた。
――我らのチェリストが勝利したよ。
部屋のドアの前で腕組みをして、クロードは笑っていた。
――三日前にマイヤーさんが引っ越していった。これで彼を邪魔する者はいなくなった。
半年前から、ここには音楽学校の学生が住みついていた。
学生がこのアパルトマンに入った当初、彼を追い出そうとする住人と彼の演奏を楽しみにする住人は半々の人数で拮抗していた。が、朝はかならずアパルトマンの住人が全員起きたころに演奏を始め、夕食のあとはけっしてチェロの音を鳴らそうとしない彼のつつましやかな態度を見て、住人たちは次第に彼を許すようになっていた。音楽の好きなクロードは、毎朝チェロの音がかすかに流れるこのアパルトマンを気に入っていた。
――よかったわね。
――僕もそう思うよ。では、いい旅を。
彼はなにを思ってカミーユを呼び止めたのだろう。
自分のもとへ二度と戻ってこないかもしれないと思っていたのだろうか。
「君が思い出を愛しているのなら、僕は君をそのまま受け入れよう。君が愛しているのが思い出でなければ」
声はすこしかすれて低くなっていた。
「君は彼と行くといい」
「おじさん」
「すべて君の望むままに」
「クロードがそんなことを」
「僕は君を愛してはいない。僕が君を連れていくことはできない」
胸を引き絞られるような痛みが走った。カミーユは、胸から突き上げてくる重い衝撃を感じていた。
この感覚は何だろう。
この、名前のない悲しみは。
「僕には誰かを愛する資格がない」
地の底から響くような、低い声だった。
「彼が君を思うように、僕は君を思うことはできない」
視界が急に低くなった。かわいた音が地面に広がった。膝に小石が食い込む痛み。自分が倒れ込んだことに気づいた。
身体が支えていられなくなった。
フランスギクの花束が地面に倒れていた。
なぜいまになって気づいてしまったのだろう。
いままでずっと、心に潜んでいた秘密に、気づいてしまったのだろう――
「おじさんが、昔、時間を元に戻したいと思うことはあるかって、聞いたわね」
声は沈黙を守っていた。
「昔に戻れたら、おじさんを止めることができたのに」
フランスギクの白い花びらが、月に照らされてほのかに光っていた。
「みんな元通りになることができるのに」
行ってしまった人たちを。失ってしまった時間を。裏切られた同胞を。
みんな元通りにすることができたのに――
嗚咽が喉から溢れてきた。自分の両手に顔を埋めて、カミーユは身体をうちふるわせる痛みに耐えるように歯を食いしばった。
足音が遠くなっていく。
カミーユは、止めることのできない歩みにじっと耳をすませて、息を殺していた。
追いかけていきたい衝動と、顔を合わせてはいけないと思う理性に、引き裂かれていた。
「カミーユ?」
声が背後から降ってきた。手をさしのべられて、腕を捕まれる。
シリルがカミーユを自分の肩で支えて、立ち上がらせた。
「――おじさんは?」
「帰った」
シリルは家に帰ろう、とカミーユを促した。
「父はなんて言ってた?」
シリルの平静な声に聞かれて、涙が溢れてきた。シリルは目を拭うカミーユの腕を引いて、すこしずつ墓地の坂道を下っていった。
「君を愛していないと言った?」
カミーユは下を向いたまま、うなずく。
「馬鹿だねあの人たちは」
シリルの間延びした声に、カミーユは顔をあげた。
シリルはがしがしと髪をかきまぜながら、月にむかってぼやいた。
「そんなに好きだったらとっととベッドに連れ込んで一発やりゃいいのにさ」
「ベッド……」
カミーユは呆然とおうむ返しにした。今までのおだやかな口調とはちがう、乱暴な口調。やはりシリルはシリルだ、とカミーユは妙な感心をした。
「あの人はさ、おじけづいてるのよ。いきなり訪ねてきた弁護士が、自分の婚約者をあなたが幸せにしてやってくれって言われて。そんなふうに君を愛してる奴に自分はかなわないって思って」
それで、君を愛してないと言ったわけだ、とシリルはつづけた。
「まあ元凶は君なんだろうけどさ。でもそこで遠慮しあって何になるのさ。一生やってろ」
シリルはなぜか怒っているようだった。カミーユは泣いていたことも忘れてじっとシリルを眺めていた。
「で、君は誰を好きなのさ。べつに俺にしといてもいいぞ」
「シリルに?」
「妻子いるけどな」
「いたの?」
「なんだその顔は。やっぱりお前かわいくないな」
あいつらの気持ちがわからん、とおどけた口調で言って、シリルは頭のうしろで腕組みをした。
「まあ、君がどうするか、明日考えればいいさ」
「明日?」
「今日は何も考えずに寝ろ。馬鹿どもにつきあわされて疲れただろう」
シリルは子供の頭を撫でるようにポンポンとカミーユの頭を叩いた。
住宅街へ入ってきていた。カミーユは家の路地を見下ろす月を見上げた。
満月よりもすこし欠けた月は、やさしい光を街路に落としていた。
「子供……かわいいだろうね」
「まあ、世界一だな」
シリルはカミーユにつられたように上を見上げた。
「宇宙一がべつにいるけどな」
「何よそれ」
「生まれてくる子供のために空けてある」
自分のもとを去っていく人と、生まれてくる人のことを思った。よせてはかえす波のように、命は永遠につづいていく。
自分もその輪のなかで命を繋いでいくことができるだろうか。
カミーユはジォンとクロードのことを思った。
自分の思いをカミーユはまだ決められずにいた。胸に言葉があふれて、カミーユはなにも考えられずにいた。
――明日考えよう。また、明日。
彼らの思いにふさわしい自分であることができるように、カミーユは月に祈っていた。
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