第5話 エリザベートは笑う

 超柔闘拳舞。それが、私がソウルから教わっている護身術の名前です。

 名称は何だか三流小説に登場する悪役が使う必殺技みたいですが、ソウルの故郷である東の離島に古くから伝わっている由緒正しい拳法なのだそうです。

 その真髄は、己の肉体を蛇のように柔らかく動かすことができることにあります。常識外れの柔らかさを備えた体は関節の方向すら無視した究極の動きを体現し、それによって生み出された力で相手の息の根を確実に止めることを可能にしたのです。

 ソウルの故郷では、それは時に暗殺拳として利用され、拳法を極めた者は一流の暗殺者として世界に身を投じていったといいます。

 そう。ソウルは、裏の世界ではそれなりに名が知られている一流の暗殺者なのです。

 ──私がソウルと出会ったのは、ある日の夕暮れのこと。深い傷を負っている彼がゴミ捨て場の陰で身を隠すように座り込んでいたのを私が見つけて声を掛けたのが始まりでした。

 私はソウルをお屋敷に招いて傷の手当をして、お食事を御馳走しました。彼は人前に出るのは好かないからと最初は頑なに私の申し出を断っていましたが、私の必死の説得に最終的には折れて、私の部屋でなら招待を受けるとの条件で申し出を受け入れて下さいました。

 その時に、色々なお話を伺ったのです。彼が裏の世界では有名な暗殺者であること、彼が東の離島に伝わる暗殺拳の使い手であること、他にも色々と。

 当時の私は、父から護身術を学ぶように言われてそのための家庭教師を探している最中でした。

 ソウルの話を聞いた時、私は確信したのです。ソウルは私にその暗殺拳を教えるべくして私と出会ったのだと。

 私は思いました。ソウルが欲しいと。家庭教師として、私の傍に置きたいと。

 私は欲しいと思ったものは全て手に入れてきた女。このような素晴らしい逸材を逃すはずなど、あるわけないではありませんか。

 私はソウルに熱烈なアプローチを繰り返して、彼を破格の報酬で私専属の家庭教師として雇いました。一緒のお屋敷に住むことだけは承諾しては頂けませんでしたが、彼は真面目に私を教えて下さり、そればかりか私が持ちかける相談事を親身になって聞いて下さるようになりました。

 今の私があるのは、ソウルのお陰です。彼は私にとって、掛け替えのない心の支えなのです。

 彼は私にこう言いました。


「例えそれが世間では悪だと言われる所業だったとしても、それが己にとっての正義ならば最後まで遣り通せ。自ら望んで地獄に堕ちて、誇りを持って悪の道を歩け」


 望むところです。私は私が私であるために、彼から教わった全てを生かして己を貫き通しましょう。

 悪として針の道を歩き、罵られ忌避されてもなお前に向かって進み続けましょう。

 それが、私が私たる最大の証明となるのですから。

 私はエリザベート・ヴィーヴル。欲しいと思ったものはどんな手を使っても必ず手に入れてきた強欲の女。

 全身全霊を掛けて、必ずや、ルーク様を私のものにしてみせますわ!


「ぐぅえっ!」


 私の肘をまともに鳩尾に受けた最後の一人が、潰れた蛙のような声を漏らしながらその場に倒れます。

 筋肉のない細身の体でも、肘や踵など尖った箇所は立派な凶器になります。ちゃんと急所を狙って打ち込めば、騎士でもないただの人間など失神させることは造作もありません。

 床に転がった商人たちを踏み越えて、私はルーク様へと歩み寄ります。

 ルーク様は完全に青ざめた様子で、全身を震わせて、倒れた商人たちに視線を注いでいました。


「この……役立たず共め!」


 口汚く吐き捨てて、自棄になったのか、粉末麻薬の入った小瓶を握り締めたまま私の方へと突っ込んできました。

 右の拳を握り締めて振りかぶります。私を殴るつもりなのでしょう。

 でも、残念なことに動きが遅いです。まるで亀の歩みのように見えます。そんなもので、私を捉えることなどできはしませんわよ?

 私はルーク様の拳を余裕の動きで避けると、反撃のつもりで右足を垂直に振り上げました。

 ごすっ!

 私の爪先が、ルーク様の股間に見事に突き刺さりました。

 ルーク様の表情が面白いようにころころと変化しています。怒ったようにも、笑ったようにも、泣いているようにも見えます。人間ってこんなに一瞬で百面相のように表情が変えられるものなんですね。初めて見ました。


「あ、あ、あぐぅぅぅ……っ!」


 何とも言えない情けない呻き声を漏らしながら、ルーク様が左手で股間を押さえながら両膝をつきました。

 完全に転がらないのは立派ですわね。額には脂汗が浮かんでいて唇からほんの少しばかり涎が垂れていますけれども。

 でも、安心なさるには聊か早いですわよ。

 私はルーク様の胸の中心に蹴りを叩き込んで、彼を仰向けの格好に転がしました。

 そして、無防備になった股間を踵で力一杯踏みつけました。

 ハイヒールの尖った踵が、柔らかい肉に深く突き刺さっています。ちょっと癖になる感触ですわね。

 男性にとって、股間は最大の急所だといいます。どんなに屈強な肉体を持った人間でも此処だけは鍛えようがないのだとソウルも言っていました。此処を潰せば大抵の男性は行動不能になるそうで、もしも大勢に囲まれるような事態に陥ったら遠慮なく狙って潰せと教えて下さいました。

 確かに……ルーク様が抵抗する素振りは感じられません。変な声を発しながら全身をびくびくと痙攣させているばかりです。

 私は股間に刺さっているヒールにぐりっと捻りを加えながら、ルーク様の目を冷たく見下ろして、言いました。


「私を麻薬中毒になさる? まあ、何と恐ろしいお言葉なのでしょう。でも、ただ言葉にするだけで実行できないのでは、脅し文句にすらなりませんわよ。さあ、やってみて下さいませ。貴方が口先だけの殿方ではないということを証明してみて下さいな」


「はぁ……あはぁぁぁぁぁぁっ!」


 次の瞬間。ルーク様の口から飛び出したのは、何とも艶めいた色を含んだ叫び声でした。

 彼は口の端から涎を溢れさせ、身を捩らせながら、言いました。


「あ、ああ、この感覚、何て気持ちいいんだ! その僕を見下すような目も堪らない、ゾクゾクするよ! 興奮して全身が熱くなって、思わず下半身が膨らんでしまいそうだ! もっと、もっと僕を踏んでくれ! 最高の快楽を与えてくれ! エリザベート!」


 それは、品行方正だったルーク様の口から出たものとはとても思えないほどに品のない言葉でした。

 そういえば、ルーク様は先程オグシードを吸っていらしたのでしたわね……そのせいで思考力が低下していて、痛覚も麻痺しているため踏まれている痛みがおかしな方向に変換されて伝わってしまっているということでしょうか。おそらくそれが、ルーク様の何らかの琴線に触れてしまったのでしょう。

 ひょっとしたら、先程股間を蹴られた時の痛みも、実は痛みとしては感じていなかったのかもしれません。

 ……まさか、ルーク様がこれほどまでの変態嗜好の持ち主だとは思いもよりませんでした。

 踏まれて、冷たい目で見られて、それで興奮するなんて……流石に私もこれにはちょっと引いてしまいます。理解できません。

 私が微妙に困惑してルーク様を見つめていると、ルーク様が欲しいものを強請る子供のような目をして私に懇願してきました。


「お願いだ、黙っていないで僕を踏んでくれ! もっと苛めてくれ! さっきの快感がもっと欲しいんだよ! 頼む、何でもするから! この通りだ!」


「…………」


 ルーク様は、どうやら私に股間を踏み潰されることが癖になってしまったようです。

 何でもするからなんてそんなあっさりと身売りをするような言葉を吐くなんて……頭のネジが何処かに吹っ飛んでしまったのでしょうか? 呆れてしまいます。

 でも、ある意味これは好都合です。此処は、彼の望みを叶えて差し上げることに致しましょう。

 私はにこりと微笑んで、彼に問いかけました。


「それでは……私のものになって下さいますかしら? 今すぐにシャーロットとの婚約を解消して、今後は私の傍にいて下さると、今此処で約束して下さいませ」


「……そ、そうすれば、君は僕のことを苛めてくれるのか? さっきのように、冷たい目で見下して、踏んでくれるのか?」


「ええ、二言はありません。約束は必ず守りますわ。何でしたら特別に作らせた専用の鞭でも御用意して、それで叩いて差し上げましょうか?」


 これは、甘言です。捕らえた獲物を懐に引き寄せるための。

 鞭で人を叩くなんて、そのような馬鹿げた趣味は私にはありません。でも、今のルーク様を誘い寄せるためには、これくらいの誘い文句は必要なのです。

 ルーク様の喉がごくりと鳴ります。私の言葉にかなり興味を示しておられるようです。

 もう一息ですわね。


「今すぐ決断して下さいませ。私は気が長い方ではありませんの。此処で決意して下さらないのでしたら、残念ですが、今の話は全てなかったことに……」


 ルーク様を踏みつけていた足の力を緩めながら、私は呟きます。

 ルーク様がかなり慌てふためいた様子で声を上げました。


「ま、待ってくれ! あの快感をもう二度と味わえないなんて、僕には耐えられない! そんな悲しいことを言わないでくれ!」


「では、約束して下さいますね? シャーロットとの婚約を解消して私のものになって下さると」


「分かった! 君のものになる……いや、君のものにしてくれ! 僕はもう、君の虜なんだよエリザベート! 僕に最高の愛を与えてくれる、僕だけの女神……!」


 ……陥落致しましたわね。

 人間というのは、何とも脆いこと。

 私は胸に生まれた何とも表現し難い大きな充実感に身を震わせて、笑みを零しました。

 これで、ルーク様は私のもの。私は、長きに渡っての悲願であった『ルーク様を私のものにする』という所業を遂に達成したのです。

 何と喜ばしいこと! これ以上の幸せはありませんわ!


「嬉しいですわ、ルーク様。それでは……約束通り、御褒美ですわ」


 私はヒールの先端で力一杯ルーク様の股間を踏み潰しました。

 通常であれば悶絶するであろう痛みも、今のルーク様にとっては快楽以外の何でもありません。彼はびくんと全身を跳ねさせて、嬌声を上げました。


「あああっ、あはああああっ! 気持ちいい、気持ちいいよぉっ! 駄目だっ、余りにも最高すぎて漏らしてしまいそうだよぉ! エリザベート、僕の女神っ、もっと、もっと痛くしてくれ! あふぅううううっ!」


「……な、何をしているのですか!? エリザベート……それに、ルーク!?」


「!」


 聞き覚えのある声に、私はそちらを肩越しに振り返りました。

 部屋の入口。そこに、シャーロットが立っていました。

 ドレスのスカートをきゅっと掴んで、目を丸くして、私たちのことを凝視しています。

 まさか、彼女が此処に来るとは……予想外のことではありますが、私が密かに期待していたことでもあります。

 わざわざこちらから会いに行く手間が省けましたわね。

 私はルーク様の股間から足をどけて、シャーロットの方に向き直りました。


「あら、どなたかと思えば元婚約者様ではございませんか。ノックもせずに部屋に入ってくるとは無礼ですわね。一体何の御用ですの?」


「も、元婚約者……!? 一体何を言って……」


 私の言葉にシャーロットがうろたえます。

 私は小さく溜め息をついて、ゆっくりと立ち上がろうとしている背後のルーク様に視線を投げました。


「ルーク様。丁度良い機会ですから、この場で貴方の口からこの女に仰って頂けますか? 貴方がお決めになられたことを」


「……シャーロット」


 ルーク様が私の隣に並びます。

 先程までの痴態が嘘のようにすっかり普段の様子へと戻ったルーク様は、私の肩を優しく抱き寄せて、言いました。


「すまないが、君との婚約はなかったことにさせてくれ。僕は、気付いたんだ……僕が本当に心の底から愛していたのは、このエリザベートだということを!」


「え……えっ?」


「今から、僕は大広間に行く。そこで正式に宣言するつもりだ。僕は今日、君との婚約を解消して、正式にエリザベートと交際することを心に決めたということをね」


「そんな……嘘、嘘ですっ!」


 シャーロットが私との距離を詰めてきました。

 私の両腕を横から鷲掴みにして、揺さぶりながら、言い募ります。


「エリザベート! 貴女がルークを誑かしたのね! 一体ルークに何をしたの!?」


「私はルーク様を誑かしてなどいませんわよ? 私はただ、此処でルーク様のお願い事を聞いていただけですわ」


 私は飄々と答えました。

 無造作にシャーロットの手を払って、続けます。


「ルーク様が私をお選びになられたのは、他ならぬルーク様御自身です。私はその御決断を承諾しただけにすぎませんわ。それを、誑かしただなんて……失礼にも程がありますわね。そんなですから、捨てられるんですのよ。シャーロット」


 私は肩を抱いているルーク様の手にそっと指先を触れて、言いました。


「さあ、パーティー会場へ参りましょうか。ルーク様」


「ああ。僕は必ず君のことを幸せにしてみせるよ、エリザベート。だから、永遠に僕だけの女神でいておくれ」


「ええ。他ならぬルーク様の頼みですもの。安心なさいな、私は絶対に貴方を捨てたりなど致しません」


 ショックでその場に座り込んだシャーロットを残して、私はルーク様と共に部屋を後にしました。

 そういえば、先程私が叩きのめした商人たちをそのままにしてきてしまいましたが……殺すつもりで殴ってはおりませんし、そのうち意識を取り戻されることでしょう。

 離れていく部屋の中から、シャーロットの泣き喚く声が聞こえてきます。

 それは廊下に満ちた静寂に溶けていき、私たちが廊下の角を曲がる頃には完全に聞こえなくなりました。

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