第279話 教材が届いた

「ほらこれ、例のものだよ」


そう告げるヤンは手に包みを持っていて、それを雨妹ユイメイたちの座っている卓の隅に置く。


「なんでしょうか?」


雨妹が早速その包みを開くと、中には文字手本と、多用する単語を集めている本があった。

 なんと、もう手配してくれたらしい。


「わぁ、早速ありがとうございます!」

「あぁ……」


思ったよりも早かったことに、雨妹が笑みを浮かべる一方で、ジンが不安そうな顔になるのはおそらく、勉強というこれまで経験のないことに挑むのが不安だからだろう。

 そんな静をちらりと見て、楊が言う。


「勉強っていうのは勢いも大事だからね、思い立った時にやる方がいいのさ。

 うだうだとしていると、やらない理由ばっかりを思いつくからね」

「確かに、そういうものかもしれませんね」

「うん、まあ……」


雨妹も納得して頷くと、静は心当たりがあるのか俯く。

 さすが、これまで監督者として大勢の宮女の面倒をみてきた楊であり、言葉に説得力がある。


「筆と木簡の束は、最初だけつけておいてやったよ。

 あとは自分で用意しなよ」

「はい、わかりました!」


しかもオマケをつけてくれた。

 筆と書き付けのための木簡は買う必要があると思っていたので、筆記用具まで用意してもらえたとは至れり尽くせりだ。

 墨は雨妹が自分で持っているので、これで早速今日から文字を書ける。

 

「よぅし静静ジンジン、戻ったら早速文字を書いてみようか」

「うへぇ、わかったよ」


静は勉強が必要なのだと薄らとわかりはしても、やはり未知の苦労は怖いのだろう。

 嫌々半分ではあるが、それでも逃げ出さないのは立派であるのだけれども。

 ここで、雨妹の脳裏にふと疑問が浮かぶ。


 ――いや、そもそも静静の人生の選択肢に、「逃げる」っていう項目があるのかな?


 なにせこの静は、過酷な山越えをしてしまった子どもなのだ。

 里で暮らしていた頃の育ての親の老師とやらが、そうした面で臨機応変で柔軟な生き方を授けていたとは、あまり思えない雨妹である。

 ダジャの方が教えている可能性もあるが、果たしてあの男は逃げることを良しとする生き方をしてきたのか?

 先日の杜の言い方だと違うように思えた。

 そうなるとこれまでの静の周囲には、猪突猛進型しかいなかったことになる。

 だとしたら、静が「思い込んだら一直線」的な考え方しかできないのも、頷ける話だろう。

 このままだと静の未来は、杜が心配するような「死に急ぎ」一直線ではないだろうか?


 ――そんな未来はダメダメ!


 雨妹は嫌な想像を振り払うように、ブルブルと顔を振る。

 人生とは急がば回れ、寄り道上等くらいでいくのが丁度良いのだ。

 雨妹が前世で華流ドラマに没頭したように、静もなにかに没頭できる趣味を持てば、きっとこの先の人生の選択肢だって広がることだろう。


「静静、なにが好き?」


そんな色々な気持ちが整理しきれなかった雨妹は、思わず聞きたいことを色々とすっ飛ばしてズバッと口にしてしまった。


「は?」


すると当然、静は「なにを言っているんだ?」という怪訝顔である。

 おまけに急に顔をブルブルと振りだすという奇行に、身を引き気味だ。

 雨妹の方こそ、猪突猛進な質問をした形になってしまった、ダメ先輩であるらしい。


「小妹、話が唐突過ぎるよ」


雨妹たちの様子に、楊が呆れて指摘してくる。


「まあ、お前さんが心配するのもわかるけどねぇ」


しかしどうやら楊は、雨妹が言いたいことを分かってくれたらしく、そう言って息を吐く。

 楊の方にも、この静の身の上のおおまかな情報が入っているのかもしれない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る