第30話 胡昭儀
後宮の妃嬪(ヒヒン)たちの朝は遅い。
それは胡(フー)昭儀も例外ではなく。
日も高く昇った頃にようやく起き出し、のんびりと朝食をとるのが通例だ。
であるからして屋敷の主に合わせて働く宮女や女官たちも、夜明けとともに行動を始める宮女に比べて、比較的ゆったりと行動しがちである。
しかしこの日はそんなのんびりとした朝の時間、屋敷に騒音が響いた。
まだ胡昭儀が夜着から着替え終えたばかりで、朝食前のことだ。
「なんですかあなた方は、どういうつもりなのです!?」
騒音の発生源である屋敷の入り口で、年配の女官が招かれざる客をギロリと睨む。
そこにいるのは、三人組の男女だ。
背の高い宦官に小柄な宮女、そして医官。
そう、言わずと知れた雨妹(ユイメイ)たちである。
「この者は陛下の意向で、友仁皇子殿下の診察に参った医官です。
道を開けてください」
立彬が(リビン)悠然とした態度で宮女に告げるのに合わせて、子良(ジリャン)が頭を下げる。
その一歩後ろで、雨妹は俯いて控えていた。
これが一昨日に太子宮で出された作戦、「友仁皇子の健康診断」である。
こそこそと探るのではなく、大義名分を手に入れて堂々と調べればいいというわけだ。
ちなみに今の雨妹の立場は子良の助手だった。
頭巾をきっちりと被り、布マスクだって装着済み。
雨妹的にはいつものスタイルだったが、相手の女官からすれば怪しいことこの上ない格好らしく。
胡散臭そうな視線が頭上に注がれるのがわかる。
そして立彬は、皇帝の使いという立場でここにいる。
雨妹と子良だけだと、話を聞いてもらえず追い返されるかもしれないが、太子付きの立彬がいれば信頼性が上がると、太子に言われたのだ。
「陛下の意向ですって?
ならばいつもの侍医殿を寄越されるはずでしょう?」
疑わしい顔の女官に、立彬はきっぱりと述べる。
「それも、陛下の意向です」
嘘ではない、本当に太子が皇帝から許可を貰って来たのだ。
けれど相手は当然、それを素直に信じたりはしない。
「こちらで確認させます、結果がわかるまで屋敷に入ってはなりません」
「それは困ります。
陛下から速やかに行動するように、と言われております」
女官の言葉に立彬が即座に反論すると、二人の間で見えない火花が散った。
怪しい一団の侵入を阻止しようとする女官と、押し通ろうとする立彬とが舌戦を繰り広げようとしている時。
「どうしたのですか?」
屋敷の奥から、数人の宮女を連れた女が現れた。
彼女の登場に女官がスッと頭を下げ、立彬も礼をとったので、雨妹も慌てて続く。
「あの方が胡昭儀だ」
すると立彬が姿勢を低くしたまま、後ろの雨妹に囁いた。
どうやら騒ぎを聞きつけた屋敷の主が、様子を見に来たらしい。
「一体何事ですか?」
女官にそう尋ねる胡昭儀は美人なのだろうが、派手な容貌ではない。
どちらかというと線の細い女だった。
――あー、王(ワン)美人寄りでギリギリ皇帝の好みそうなカンジ。
だから皇子が生まれたのだろう。
下世話な推測をしている雨妹を余所に、立彬は交渉相手を胡昭儀に変える。
「我々は皇帝陛下のご命令で、友仁皇子殿下の診察に参りました」
頭をあげてそう言う立彬を、胡昭儀が疑うというより不思議そうな様子で聞いてくる。
「……あなたは、太子殿下付きの宦官ではなくて?」
「太子殿下を通じて、皇帝陛下に命令を受けましたので」
経緯の前後はさて置くとしても本当のことなので、立彬の言葉によどみがない。
――それにしても立彬様、「皇帝陛下」を連発するなぁ。
使える大義名分をとことん使う気らしい。
「ただいま真偽を調べさせておりますゆえ、待つように申しております」
「けれど我々としても、陛下のご命令を速やかに実行しなければなりません」
女官が胡昭儀に告げるのに、立彬が即座に反論する。
二人の静かな戦いを見て、胡昭儀がおっとりと首を傾げる。
「どちらにせよ、友仁が必要ということですね。
友仁はどこに?」
「それは……」
この胡昭儀の質問に、年配の女官がついっと視線を下に逸らす。
「……今朝も『呪い』を発せられましたので、ただ今処置の最中かと」
「そうなの」
低く呻くように話す女官に、胡昭儀は悲しそうに目を伏せる。
「しまった、遅かったか」
話を聞いた立彬が小さく呟く。
雨妹たちは胡昭儀の朝の行動パターンを調べて、朝食前に突撃をかけたつもりだった。
だがどうやら友仁皇子は、先に食事を済ませてしまったようだ。
――だったら、余計に早く助けてあげなきゃ!
「処置」という言葉を聞いた時の胡昭儀の表情からして、その内容はろくなものではないと想像がつく。
「失礼ながら、申し上げます!」
控えている背後から発言した雨妹に、胡昭儀たちの視線が集中する。
「私たちはその『呪い』の正体を明らかにするために、ここへ遣わされたのです。
どうか友仁皇子殿下への速やかにお目通りをお願いします!」
雨妹は頭を上げ、真っ直ぐに胡昭儀を見た。
頭巾と布マスクで顔が隠れている中で青い目だけが、まるで光を放つかのように強い意志を感じさせる。
「……!」
その目を見た胡昭儀が、何故か息を呑む。
そしてしばらくすると。
「わかりました、この方々を案内して」
胡昭儀がそう告げたのだった。
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