嘆きの断片

河野 る宇

◆世界の境界線

*ビールと伽羅

 ──都内、某所

 深夜の住宅街は、どこか別世界への扉を孕む空気をまとっている。春になろうかという青い薫りの背後には、先にあった凍える空の断片が散らばっていた。

 切れかけて点滅を繰り返す街灯はともすれば、何かの影を落とし込み、眠れぬ人の恐怖を具現化していく。

「おい。本当にいるのか」

「要請が来たのですから、何かがいるのは確かでしょう」

 二人の男は、住民に気を遣うように小声で英語を使い何やら話していた。何かを探るように男たちはしばらく彷徨うろついていたがふと、立ち止まる。

「だめだな」

「ええ。これだけ負の気が充満していては、見当もつきません」

 丁寧に答えた男は垂れた目で住宅街を見回し、彼らだけに解る、重々しい空気に顔を歪ませる。

 年の頃は二十歳を過ぎたばかりかもしれない。

 目尻は垂れているけれど、整った精悍な面持ちには、どこかしら過去の経験が織りなす重みが感じられる。

 みどりの瞳にクセのない肩までの金の髪、まとっている雰囲気にはどこか気品が漂っていた。

「ひとまず、ホテルに戻ろう」

 隣にいた男はそういうと、メッセンジャーバッグを背中に回す。

 三十歳近い、あるいは過ぎたあたりだろうか。左頬にある傷跡に似つかわしく、吊り上がった青い目と日に焼けた肌、栗色の髪は短くそれなりの戦場をくぐり抜けてきたようなきつい印象を持つ。

「そうですね」

 青年はそう返し、口の開いたショルダーバッグのファスナーを閉じて持ち直した。



 ──二人がいた住宅街から歩いて十分ほどのホテル

「狭い!」

「町から近いホテルはここだけです」

 仕方がありませんと男に苦笑いを向ける。

「よりによって、なんでバジェットホテルなんだよ」

 俺には小さいんだよとぶつくさ文句をたれて、二段ベッドの上段にバッグを投げ置いた。安ホテルにはよくある、小さな冷蔵庫から缶ビールを取り出して乾いた喉に流し込む。

「カー!」

 炭酸の刺激と冷たさに歳相応の声を上げた。

 青年はそれを見て嫌味のない笑みを浮かべ水の入ったペットボトルを手に、男が座った安いソファの向かいにあるもう一つに腰を落とす。

 ペットボトルの水を何度か口に含み、男が500ml缶を空けたところで切り出した。

「頼めますか」

「おう。サポートよろしく」

 テーブルに飲み終わった空の缶を置き、背もたれに体を預けると安物のソファに顔を歪めながら二・三度、深く息を吐き出してゆっくりと目を閉じる。

 すると、男の体から白いもやが立ち上り、頭上から何かが抜けていく様子を青年はじっと眺めた。

 白いもやのかたまりは人の形になり、青年に軽く手を上げる素振りをしたあと、壁を通り抜けて町を見渡し、目指す方向に飛んでいく──

 青年は微動だにしない男の体を見やり、十五センチほどの細長い桐の箱から線香を一本取り出した。

 ライターで火を付けると立ち上った小さな炎はすぐに消えて、上品な伽羅きゃらの香りが部屋を満たしていく。

 代表的な香木の一つである沈香じんこうの、特に質の良いものが伽羅と呼ばれる。ほぼすべての沈香属はワシントン条約に指定されている。

 現在のところ栽培に成功していない伽羅だが、人知れず栽培されている場所がある。それらは決して人の世には出ず、限られた者のみが使用する事を許されている。

 そこから採集される天然沈香で作られた線香には特殊な力が宿され、立ち上る煙と薫りが横たわっている男をいま護っているのだ。

 青年は香皿に線香を乗せ、窓の外に意識を向ける。

「見つかるといいのですが」

 不安げにつぶやき、男の体から伸びている細く白い糸に眉を寄せた。



 ──幽体を飛ばした男は、先ほどの住宅街に到着し精神を集中する。

 魂の一部を肉体から分離することで自在に飛び回り、目的のものを捜し出す。彼はそのためにここに来た。

「さあて。どこだ?」

 肉体でいるときよりも感覚は鋭く、物理的なものを無視できるため、捜し物にはうってつけの能力だ。

 ふいに、強い負の気配を感じてそちらに向かう。幽体から見える景色はどことこなく揺らぎがあり、この世界とは違う次元に片足を突っ込んでいることが解る。

 黒い影が角を曲がり、それを追って同じく曲がる。

「なに!?」

 影は目の前にいて、驚く男に襲いかかった──



「パーシー!? パーシヴァル!」

 嫌な予感に青年は男の肉体に呼びかける。ここでむやみに体に触れて揺すると危険なため、声を掛けるしかない。

 男はびくりと痙攣し、そのあと強く咳き込んだ。

「パーシー」

「大丈夫。大丈夫だ」

 パーシヴァルは心配そうに見つめる青年に手で示し、ピッチャーの水をグラスに注ぐ。

「どうでした」

「かなりやばい」

 一気に飲み干し手の甲で口を拭う。呼吸を整え、疲れたように深い溜息を吐いた。

「ラクベス。お前で正解だったかもな」

 あれは、そんじょそこらの霊術士れいじゅつしでは手に負えない。

「ひっかかれはしたけどよ。いくつか解ったぜ」

 そう言ったパーシヴァルの右腕には、猫にでもひっかかれたようなミミズ腫れが何本か出来ていた。

 伽羅の香が護ってくれたのか、本来ならば切り裂かれていたかもしれない。

 彼らが追っている相手は、霊的な存在である幽体にすら傷を負わせる事が出来る物理的な存在だということだ。

 パーシヴァルは幽体が接触することで、対象の思考をある程度読むことが出来る。危険な方法ではあるものの、特定が困難な調査にはかかせない能力ではある。

「日本人の男。名前は、石動 春仁いするぎ はるひと

「そこから辿れますね。ありがとうございます」

「これが俺の仕事」

 礼を言われることでもないと口角を吊り上げ、二本目の缶ビールを開けた。

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