第16話 ドレス
夜の帳が下りるとドルイドは1人広間でダンスの練習をしていた。静けさが支配する広間に、暖炉の火がはぜる音が響く。
灯りとしてはそれだけでは足りないのでオイルランプを3つばかり夫人から借りてきていた。揺らめく灯りの間を縫うようにゆっくりとまわりながら、ドルイドは不思議な感覚にとらわれていく。
瞑想をしている時と同じように集中力が高まっていくのを感じるのだ。
そうして半刻程ステップを確認していると、ふいに背後から声をかけられた。
「ダンスパートナーは必要ないのかい。」
ドルイドが振り向くと、からかうように笑んだレイモンドが腕を組んで壁に寄りかかっていた。
「1人の練習も大事なのよ。」
心の籠らない声で答える。
本当は彼と口を聞くつもりはなかったが
このまま無視をするわけにもいかないので
そう告げる。彼は肩をすくめただけだった。
ドルイドは気が進まなかったが仕方なく明日のことについて話すことにした。
メアリに約束させられてしまったからだ。
「明日の午後、モーリス邸を訪ねることになったのよ。
今日買い物の途中で偶然アリスに会ったの。ぜひ回復したマイラ嬢に会ってほしいと頼まれたの。
正式な招待状も夕方に届いたわ。
あなたもぜひにとのことよ。」
それを聞いたレイモンドの顔に苦いものが浮かぶ。
「誘いを受けるなんて君らしくない。
いつもなら断るだろう。」
レイモンドの鋭い指摘に思わず視線を落とす。
「…ええ、わかってるわ…いつもの私らしくないって。
でもどうすることもできなかったのよ。
姉も乗り気だったし。」
それ以上レイモンドは何も言わなかったのでドルイドが口を開くしかなかった。
「…それで、あなたはどうするの?」
「…大気の匂いから明日は晴れるだろう。
私は外出は控えたい。」
予想していた答えだったのでドルイドはただ頷くにとどまった。深追いする義務も必要性も感じなかったからだ。
しばらくの沈黙の後、レイモンドが思わぬ疑問を口にした。
「あの青年は来ているかな?」
ドルイドが眉根を寄せる。
誰のことを言っているのかわからずレイモンドを見返すと、あの堅物だよ、と告げられたところで思い至った自分が恥ずかしい。
彼はヘンリー・エヴァルについて尋ねているのだ。
「それはわからないわ。」
レイモンドはドルイドの言葉の真偽を確かめるように彼女の瞳を覗き込む。
「いつもの君らしくない行動は、あの青年に会うためだったりしてね。」
ドルイドは面食らったように固まった。
「そんなこと思いもよらなかったわ。」
どうだか、と言って彼は首を横に振った。
「とにかく私は彼らを訪ねるのは反対だ。
過去というものは私たちが思っているよりやっかいなんだよ。」
レイモンドが言わんとしていることがドルイドには理解できる気がした。
「わかっているつもりよ。」
レイモンドはため息をついて、君が決めたことなら止めはしない、と言葉を切った。
そしてこの話題はこれでおしまいとばかりに思いついたように別の質問をする。
「ところで舞踏会用のドレスはどうするつもりなんだい。」
「姉に借りるつもりよ。
まだ一度も袖を通していないけれど。」
それどころかドレス自体を見てもいない。
身頃の部分を調整しなければならないことを考えると明日の午前には着て確認する必要があるだろう。
そんなことを考えながら顔を上げると、レイモンドと目がかち合った。
それを合図にレイモンドは壁に寄りかかるのをやめ、彼女の方に歩いてくる。
ドルイドははっとして本能的に一歩退いていた。自分でも驚いたが、今は2人きりなのだから警戒するに越したことはない。
レイモンドはぴたりと足を留め、苦笑を浮かべた。
「君の反応はもっともだよ。
私はそれだけのことを君にしてきたんだから。だからこそ今日はお詫びに来たんだ。」
ドルイドは信じられない気持ちでレイモンドの言葉を聞いた。
「…どういうこと…?」
レイモンドは力なく笑う。
「森での振舞い。一昨日の夜のこと。」
それだけ言って彼は口を閉じた。
ドルイドは彼の真意を掴もうと彼の目を捉えたが何も読み取ることはできなかった。
確かに彼は紳士にあるまじき行為を繰り返しているのだから彼女に謝罪して然るべきなのだが、なぜ今なのかがわからなかった。
「どうして今さら…。」
「お詫びの品を受け取って欲しいんだ。」
そう言って彼は後ろのテーブルに置かれていた箱を指し示した。
先程まではなかったもので、一抱えほどある大きさのそれは暗闇の中でもぽっかりと浮かび上がり存在を主張している。
「そんなものいらないわ。」
「そう言うとは思っていた。
ではドルイド、君は私が森で君の服を裂いてしまったことを覚えているね。」
唐突な話題にドルイドは言葉につまる。だが彼はドルイドの答えを待たずに箱を抱えてこちらに歩み寄って来た。
今度はドルイドも立ち尽くすしかなく、彼が彼女の前で立ち止まるとそっと箱を差し出した。
「代用品なら受け取ってくれるだろうね。」
自然と彼女の視線は箱に吸い寄せられてしまった。それは美しい白の化粧箱だった。
ドルイドが無言で顔を上げると、レイモンドは優しく微笑んだ。
「開けてごらん。」
ドルイドは少し戸惑ったが黙って立っているわけにもいかず仕方なく箱に手をかける。
ドルイドが箱の蓋を持ち上げると思わず息を飲んでしまった。
中に入っていたのは溜息が出るほど美しい、紺色の舞踏会用のドレスだった。
夜空を思わせるビロードと絹のドレスは華美を嫌うドルイドまでをも虜にする。
「…これが代用品ですって?」
囁くように言葉がもれる。
レイモンドは悪戯がうまくいったような笑みを浮かべ、箱を彼女に託すと彼はドレスを取り出して広げて見せた。
滝のように流れていくドレスをドルイドは思わず目で追ってしまう。
そんな自分が嫌になったが、すでに遅かった。
立ち上がったドレスは箱の中にあった時より一層美しく、そして優雅だった。
V字にカットされた襟は黒いレースで縁取られ、袖は肩から流れるようにフレア型のレース編みになっている。ドルイドは目の前にある芸術品から目が離せなくなった。
「メアリーが贈ったブローチと合うだろうね。」
レイモンドの言葉にはっとする。彼は苦笑交じりに言葉を続けた。
「あのグリーンの
レイモンドはドルイドがパッツィとクリスマスパントに出かけた時のことを話しているのだ。そこで彼女もふいにあることを思い出した。
「公会堂に席が用意してあったわ。」
ドルイドがパッツィとクリスマスパントに出かけることに決めたのは、レイモンドが樫の賢者に連れて行かれた後だった。
つまり彼はそれより前に席をとっていたことになる。
レイモンドはゆっくりと頷いた。
「私がスタイン牧師に頼んで用意してもらっていたんだよ。
実はメアリー嬢と2人でクリスマスに向けていろいろと計画していたんだ。
ジェイクがあんなことになって、全ては計画倒れに終わってしまったけれど。
ジェイクを責めているんではないよ。
ただ彼女の努力を知ってもらいたかったんだ。
ブローチも彼女がクリスマスに君のために用意していたんだよ。」
そしてレイモンドはこのドレスを用意していたに違いない。
そこでメアリがドレスを出してこない理由がわかった。彼女はこのドレスの存在を知っていたからこそ、自分のドレスを貸す必要はないと思っていたのだろう。
「それで?
この品は受け取ってもらえるのだろうか?」
彼は真剣な面持ちでドルイドの言葉を待っている。
ドルイドは迷った。これを受け取ることは彼を許すということにはならないだろうか。
眉間に皺を寄せてしばらく考えた後、溜息をついて答えた。
「ドレスがなければ踊れないもの。
仕方がないわ。」
レイモンドは安堵の表情を浮かべたが、ドルイドは勘違いされないように言葉を足した。
「だけどあなたを許したわけではないわ。
あなたの最近の振る舞いは目に余るものがあるもの。」
レイモンドは何も言わずにドルイドから箱を受け取ると、テーブルの上に置いて丁寧にドレスをしまいはじめた。
ドルイドはそれをただ見ていたがレイモンドが箱に再び蓋をした時、苦笑を浮かべた彼が口を開いた。
「少し肩の力を抜いて生きることにしたんだ。
あの方が教えて下さったんだよ、ドリー。
私はこの国のこの人間社会の規則で生きるには適していないんだ。
私に流れる血はそもそもが奔放で、
だからこそあの時も落ち着くまで森に身を潜める必要があった。」
レイモンドが吐く言葉ひとつひとつに苦悩が焼きつけられていた。
その言葉が
彼が風見鴉屋敷に来た時から、彼が自分の
彼は器用で賢く何事もうまくこなしていたからこそ、ドルイドは彼の中の葛藤に気づかなかった。少し考えればわかることなのに彼は自身の苦しみすら器用に隠していたのだ。
ドルイドは彼の支援者としてあまりにも愚かであったことを認識した。
メアリは彼を
「あの老鹿は、あなたを守ってくれていたのね…。番犬などと言って悪かったわ…。」
彼女の謝罪に驚いたようで、顔を上げたレイモンドと目が合う。
ドルイドは言葉を選んで話し出した。
「あなたが森に行った後、あなたが変わってしまったようで私は不安だった。
今までのあなたが失われてしまったような気がしたのよ。
だからこそ恨みがましい口をきいてしまった。
だけどあなたが望むなら…あちらが生きやすいというのなら私に止めることはできないわ。」
ドルイドが力なくそう告げるとレイモンドはしばらく逡巡した後、そちらに行ってもいいかいと尋ねた。ドルイドはレイモンドの真剣な瞳を捉えながらゆっくりと頷くと、レイモンドはこちらに近づいてくる。
そしてそっと彼女の両手をとった。
「ドルイド、これだけはわかって欲しい。
私は何も変わっていないし、私の居場所はあちらではないということを。
変わったように見えるのはこちらで生きていくためにそうしているだけだ。
確かにここはとても生きにくい。
だけどここを離れるつもりはないよ。
私は自分を人間だと思っているのだから。」
「…あなたはあなたよ。」
ドルイドが悲し気に告げる。
彼が自分を否定して生き続けることが悲しい。彼がいつか自分の全てを受け入れる日が来ればいいと思うが、自分にできないことを彼に求めるつもりは無かった。
ドルイドが彼を見上げると苦笑を浮かべるだけだった。
「…私にできることはあるかしら…?」
彼女の言葉に彼は優しい笑みを浮かべた。
「私はあの時…君とダンスを踊っている時に言ったね。
私は君の傍にありたいと。
だから君にしか頼めないことがある。」
ドルイドは息を呑んだ。
レイモンドは握っていた彼女の両手を解き
片方の手を彼の左胸に押し当てたのだ。
「私が間違いを犯せば、君が私を止めてくれ。他の奴らにここを刺し貫かれたくない。」
ドルイドは瞠目し、しばらく何も言えなかった。ドルイドの視線は自分の左手に注がれ、目を離すことができなかった。
そこには確かな脈動が伝わり、温かな血潮を感じることができる。
彼が今ここに生きているのだと証明している。
「…あなたは間違いは犯さない。
だからそんな心配はいらないわ。」
ドルイドが励ますように言うと、レイモンドはくすりと笑う。
「それはどうかな。
君の行動には苛立つことがあってね。
時々、我を忘れそうになる。」
ドルイドが驚きと困惑が入り混じる顔で見上げるとレイモンドは彼女の隙をついて、額にキスを落とした。
「こんな風に別の男に肌を許してはだめだよ。」
レイモンドがいたずらな笑みを浮かべると、ドルイドの頬に朱がさす。
彼はパッツィのことを言っているのだ。
ドルイドは彼に馬車の中で同じようなことをされたことを思い出した。
今の今まで忘れていた出来事だが。
「別に許したわけじゃないわ。
…いいわ、あなたが私の保護者きどりでいたいならそれはそれで結構よ。
私もその方が都合がいいもの。」
レイモンドはなぜか
そうして距離を置いてから、ドルイドは意を決したように口を開いた。
「…あなたを許すわ。
だけどこれからは容易く私に触れないでちょうだい。
あなたが抗いがたいものと戦っていることはわかったけれど、でも私に何かあれば彼は間違いなくあなたを切り刻むでしょう。
私はあなたを傷つけたくない。
だからわきまえてちょうだい。」
レイモンドはため息交じりに笑みを浮かべた。
「わかったよ。」
その言葉にドルイドはほっと息を吐いた。
レイモンドは話は終わったとばかりに扉に手をかける。
「君のドレス姿を楽しみにしているよ。
おやすみ、ドリー。」
レイモンドはそう言って部屋を出て行った。
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