6.雨に濡れた男の匂い
ここで抵抗しても、弟がなにかされても。ましてや二階にいる義妹が見つかっても困る。
ざあざあと聞こえる雨の音が、店の中の惨状を覆い隠していくよう。その雨の音に紛れて、この男にトイレに連れて行かれる。
「ね、姉ちゃん! やめろ、姉から離れろ!」
宗佑がカウンターから飛び出してきた。
「なんや、弟か。つまらん。でもええわ。こっちこい!」
今度は乱暴にブラウスの後ろ衿を掴まれ、トイレへと引きずられていく。
いますぐ離れろ!
トイレで犯されるのも嫌だけれど、だからって弟が撃たれるのも嫌。
宗佑、もういいから。あなたはパパになるんだから。莉子ちゃんが哀しむから、あっちに逃げて!
「彼女から離れろ!」
パニックで大騒ぎだった美鈴の頭の中に入ってきた凛としたその声で正気になる。
「なんや、おまえ!」
眼鏡の男と一緒に、トイレの前で振り返ると、そこに立ちはだかっているのは『あの人』! 名前も知らない、あの厳つい彼!
彼が果敢に眼鏡の男へと突っ込んでくる。眼鏡の男が一瞬、美鈴を離し、彼に拳銃を構える。
え、仲間ではなかったの? そう思いながら……、でも、眼鏡の男が厳つい彼に向かって銃口を向け引き金を引いてしまう! パンという音がまた響く。同時に美鈴になにかがどんとぶつかってきて、その重みで後ろに倒れた。
ハッと目を開けると床の上に倒れている。目の前は真っ黒。勢いよく倒れたはずなのに、頭も痛くない。それどころかとても熱い感触。
雨の匂いに、男の匂い、埃っぽいジャケットの匂い――。黒いジャケットの胸にぎゅっと押し込められるように抱きしめられている。美鈴の頭を大きな手が抱き込んで、一緒にトイレ前のドアに倒れ込んでいた。
大きな胸に、熱い皮膚の温度が伝わってくる。それに男臭い汗の匂い、雨に湿ったジャケットの、長く着ている生地の匂い……。働く男の……。
逞しいあの腕をクッションにするようにして、美鈴をかばうように抱きしめて一緒に倒れている彼の顔を美鈴は見上げる。
険しい鋭い、見たことがない目線がもう眼鏡の男に向かっていた。
「どこのもんや!」
眼鏡の男の銃撃をなんとか除け、美鈴を奪い返してくれたが、またあの男が彼と美鈴のほうへと銃口を向けてきた。
その途端だった。美鈴からさっと離れた彼が床に跪き体勢を直すと、ジャケットの下から何かを引き抜いた。抜いた勢いで翻るジャケットの裾、ジャケットの衿がさらっと開いて見える白いシャツ、そこに肩から黒いベルトがしてある。黒いホルスター、脇に隠してあったそれを彼も正面へと構えた。
彼も拳銃を持っている! しかも使い慣れたように構え、眼鏡の男へと躊躇わずに引き金を引いた。こちらは乾いた音はしない、静かに発射する音。向こうにいる眼鏡の男の手元でキンと響いた金属音。
「っく!」
弾き飛ばされる男の手、そして床にごろっと落とされた拳銃。厳つい彼が、まったく表情も変えず、静かに構えた銃で眼鏡の男が持っていた銃だけを狙って撃ち落とした。
そんな彼の、冷徹な雄々しい姿を美鈴は床に倒れたまま見上げるだけ。非現実的な彼の姿。ジャケットの下のホルスターから、拳銃を取り出して、この状況に焦るわけでも興奮するだけでもなく、ただただいつもの真摯なあの眼差しで銃を構えて……。でも、ラフに第二ボタンまで外していた衿元の下から、やっぱりあの異様な模様が見えてしまう。
それは眼鏡の男にも見えたようだった。
「どこの組のもんじゃあ! おまえが噛んでおったんか。そいつをそそのかしたんかっ!!」
もう眼鏡の男は思い通りにならかった怒りでぐしゃぐしゃの顔になっていて、整えていた黒髪も崩れて乱れていた。
兄貴も突然現れた厳つい彼を警戒して銃を構えたが、さきほどの彼の腕前を恐れてか踏み込んでは来ない。逆に様子をうかがっている。
「答えろや!」
厳つい彼はひと言も発しない。美鈴の前からも動こうとしない。銃だけを構えている。
それでも……、力無く倒れている美鈴の身体の上に、空いている手をそっと乗せてくれていた。安心してください。あなたから離れませんよ。といわんばかりに。
その熱い手に美鈴もとりあえず落ち着いて、彼の後ろにいられた。
銃を構えたままの厳つい彼の冷静さも癪に障ったのか、眼鏡の男が床に落としてしまった拳銃を再度拾い上げようとした。
「それ以上動くな!」
店のドアが開き、そこから数名の警察官が突入してきた。
装備をしている警察官も拳銃を構え、眼鏡の男、兄貴とデニムパンツの男それぞれに銃口を向けた。
さらに後方から戦闘服姿の男達が突入、不審な男達へと突撃し、それぞれ制圧へ向かう。
「大丈夫ですか」
銃を構えていた体勢をといた彼が、床に倒れている美鈴へとやっと振り向いた。
でも……、美鈴は声を出せなかった。そして彼がややショックを受けた顔になったのも見てしまう。目線が、美鈴の胸元で留まっている。エプロンがずれてしまい、その下は思ったよりも荒らされてはだけた胸元がやや露わになっていたから。
なのに。彼の目がそこから離れない。じっと見つめて、惚けている。そして、彼と目が合う。その目に、美鈴は色を見た。こんな時なのに。でも、甘いなにかを感じずにいられない。
「おまえも動くな!」
気がつくと突入してきた戦闘服の警官が彼にも拳銃を向けていた。
彼はこんな時も落ち着いて、表情を崩さない。その上、振り向かず、さっと黒いジャケットを脱ぐとそのまま美鈴の胸元にかけた。
「両手を挙げ、こちらへ向け。彼女から離れなさい!」
助けてくれた彼が、こんなふうに警察に捕まってしまうなんて……。やっぱり、こんなに頼もしくて優しそうな人でも? 肌にその絵模様がある限り、怪しい男と関わっていると逮捕されてしまうの?
「静かに立ちなさい」
彼が振り向かず、両手を挙げ、静かに立った。
「こちらへ向いて……」
その瞬間だった。彼がトイレのドアを開けて、そこへ入ってしまう。ドアも閉め、鍵を閉めた音。
あまりの素早さと大胆さに突入してきた戦闘服の警官も唖然としていた。
「しまった! 拳銃を所持した男がひとり、トイレから逃走!!」
突入してきた警官達が騒然とした。眼鏡の男も兄貴もデニムの男も制圧され、手錠をかけられ、連行されるところ。手の空いている警官達が外からは裏口へ走り、目の前で逃げられた警官はトイレのドアノブを引いたが開くわけもなく。
「ドアを壊します。よろしいですか」
美鈴に許可を求めたが、美鈴は声が出ない。それにあの人を逃がすべきかどうかにも迷いが生じていた。でも、あの人なにも悪いことしていない! 少なくとも助けてくれた!
業を煮やした警官がそのまま拳銃を構え、ドアノブを壊した。ドアが開けられたが、もうそこには誰もいない。
換気用の窓が二枚とも器用に外され、開けられたままになっていて、そこから雨降る夜空が見えた。
「くっそ。やられた」
外も騒々しい。あっちにいった、あっちに回れ――と彼を追跡する声。
「……すけてくださったんです」
やっと声が出た。トイレから出てきた警官に美鈴は涙を流しながら告げる。
「あの人が助けてくださったんです。悪いことはしていません」
逃げられた警官がそれでも冷たく言い放った。
「しかし、拳銃を持ち、あの男達と関与していた可能性があります。あとでお話をお聞きします。大丈夫ですか」
警官がやっと手を差し伸べてくれたのに。美鈴が覚えている『大丈夫ですか』は彼の声のもの。ほっとした安堵したのは、あの声と眼差し、あの匂い。
パトカーの赤いランプが回る光が店を取り囲む。
黄色の規制テープも貼られてしまい、店の中には鑑識の警官がうろうろしていた。
二階の自宅では、銃声を聞いて怯えていた義妹が無事に待機していた。弟が抱きしめ安心させる。
それでも刑事がずかずかと上がり込んできて、事情を聞きたいという。
弟と一緒に美鈴も対応した。ダイニングテーブルで向きあって座り、状況を説明した。
美鈴が男に乱暴されかけたことを気遣ってくれたのか、また明日からということでその日を終えることができた。
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