マリンシュガーブルー

市來 茉莉

1.入れ墨と傷跡

 天職だと思っていた仕事を辞めてしまった。

 辞めるつもりはなかったけれど、どうしてもそうなった。


「美鈴さん、三番テーブルさん頼む」

「はい、店長」

 なかなかどうして、平日の営業でもこの客入り。

「次はこれ。7番テーブル、食後のコーヒーな」

 店長の指示に美鈴も黙って頷き、すぐにフロアに出て行く。

 港に新しくできたバイパス近くにあるカフェレストラン。開店から一年半、なかなかの繁盛。

 港に出入りするトラック運転手はもちろん、フェリーで通うビジネスマン、そしてこの街のマダムにOL達の口コミも上手く流れてくれ、客足は途絶えない。

 特に瀬戸内の新鮮な魚介をつかったカフェめしランチが人気。東京で料理人の修行をしてきた弟が開いた店だった。

 その弟の店で美鈴はいま何故か手伝っている。

「姉ちゃん、また来た」

 フロアが見える厨房窓口でコックコートを着ている弟が、入口のドアを見た。

 白い木枠のドアが開いたそこには、もう初夏だというのに真っ黒なジャケットを着込んだ厳つい男。

 美鈴も身構えた。厳ついその男はぎょろっとした大きな黒目に太めの眉、そして不精ヒゲでワイルドな顔つき。いつも眉間に皺を寄せていてどこを見ていても睨んでいるような顔にしか見えない。黒いスーツ姿ならばスマートなビジネスマンを連想したいが、彼の場合は……。

「うまくやりすごしてくれ、頼む」

「わかってる……」

 厨房で調理に忙しい弟は接客ができない状態。こんな時、姉の美鈴がフロアに対して全ての責任を持つようになる。弟に信頼されて任されているから、きちんとしたい。

「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」

 いつもの笑顔で対応する。

 男が黙って、店内を見渡す。繁盛していると言っても、空席はいつもあり満席なることはなく、彼も空いている二人用テーブルへと向かっていく。

 いつものお水のコップを準備して、美鈴は彼のところへ向かう。

 すでにメニューを開いている彼の前へ、そっとお水のコップを置いた。

「ご注文決まりましたらお呼びください」

「手鞠寿司ランチでお願いします」

 メニューがすぐ決まるのもいつものこと。美鈴が来たらもう頼めるように選び終えている。

 渋くて低い声。とても落ち着いた大人の男の声だった。それだけ聞けば、美鈴もうっとりしてしまう。ただし目をつむっていればの話。

「サラダバーのセットはいかがいたしますか」

「セットで、いつも通りでお願いします。食後は……、本日はアイスコーヒーで」

「かしこまりました。暑くなりましたものね」

 思わず、いつもの調子で気軽にお客様に声をかけてしまった。

 ただこの厳つい彼には警戒をしていて、余計なことは言わないと決めていた。なのに、ついうっかり!

 だからなのか、座っているそこから彼が珍しく、エプロン姿の美鈴を見上げた。

「そうですね。暑くなりましたね」

 笑みもなにもない、ほんとうに入ってきた時のままの鋭い目線は恐ろしく、美鈴の身体は硬直する。でも……語り口は柔らかで、優しい。

 きっと、インバウンドの入電で当たったお客様だったなら『落ち着いた大人の男性。こっちが安心しちゃう』とうっとりしながら対応できるお客様のイメージ。でも、彼の風貌は……。ノーネクタイの白ワイシャツに黒いスーツ姿。厳つい顔。どうみても清潔感を必要とするビジネスマンではない。

 むしろ弟の宗佑(そうすけ)と予想しているのは『あぶない組織の人』ではないかということだった。

 だから、無難に対応して欲しいというのが店長である弟の、彼への接客方針だった。

 この男、週に一回か二回、多い時は三回来る。有りがたい常連様だけれど、客商売をしているといろいろなお客がやってくる。それでも商売をしている以上、どの方も大事なお客様。

 今日も静かに食事をして、何事もなく帰ってくれたらそれでいい。彼が騒ぎをおこしたこともないし、文句を言われたこともない。こちらが第一印象で決めつけるのはよくないけれど、どう見ても……目つきが、風貌が『怖い雷神様』の絵を思い出す、そんな風貌。彼が来るとランチで華やいでいる空気が一変することがある。特に女性客はやや怯えた表情に固まり、目線を逸らす。トラックドライバーは食後にくつろいでいるところ、そそくさと店を出て行く。誰も彼もが彼の異様な厳ついオーラーに凍り付いてしまうのだった。

 さらに怪しいのは食事が終わってさっさと精算して帰る日もあれば、その後の食後のコーヒーで一時間ほどぼんやりして居座っている時がある。その時の目つきが入ってきた客ひとりひとり確認するかのようで、来店してくださった他のお客様が気にしないかハラハラすることもある。

 今日はどっち? さっと帰ってくれる日? それとも……。

 そのどちらか判明する瞬間がある。

 本日の港ランチを終えた彼へ、食後のコーヒーを届けた時にわかる。

 今日はどっち?

 アイスコーヒーのグラスを置くと、彼がメニューを開いた。それだけで美鈴は『今日はそっちか~』と密かに唸る。

「瀬戸内レモンのレアチーズケーキをお願いします」

「ありがとうございます」

 笑顔でにっこりと伝票にオーダー追加を書き記す。

 今日は長居の日、決定だった。そう彼が一時間以上ここでくつろぐ時は、必ずデザートのスイーツをオーダーするからそれでわかる。

 今日も弟特製のレアチーズケーキをゆっくりと食べながら、雑誌を眺め、ランチ時間を含めて一時間半、滞在していた。そのうちにランチタイムが終わり、お客様も彼だけになった。

「あんな怖い顔して、甘いもの好きだよなー」

 手が空いた弟がキッチンとフロアを仕切っているカウンターに出てきて、そっとひとこと。それは美鈴も感じていた。どの料理もよく眺めて、きちんと食べてくれる。そのうえ、デザートまで。週に多くて三回も来てくれる彼。弟も怖がって警戒しているけれど、心の中では料理人としてのやり甲斐を特に感じているお客に違いない。

 これからティータイム。女性客と休憩で入ってくるビジネスマンが主になってくる前に彼がやっと席を立つ。。

 もうすぐ梅雨がやってくる蒸し暑い初夏のせいか、彼が初めて黒いジャケットを脱いで腕にかけレジにやってきた。

「ご馳走様でした」

「いつもありがとうございます」

 精算をしておつりを渡そうとしたその時、彼がうっかり黒いジャケットを腕から滑り落としてしまう。

「大丈夫でしょうか。汚れませんでしたか」

「大丈夫です」

 渋く低く落ち着いた声、決して慌てることもなさそうな動作。それに、ワイシャツをめくっているその腕、とっても筋肉質で逞しそう!? 

「汚れたようでしたら、おっしゃってください。拭くものを持って参りますから」

「お気遣いありがとうございます。着古している仕事着なのでなんてことはないです」

 その腕を伸ばして彼がジャケットを拾おうとして……。美鈴はハッとする。

 腕を伸ばすことで捲った袖口が上へとずれたその時、ちらっと見えたのは赤や緑そして青色や黒の……模様? そして長さがある傷跡。

 青ざめた。思わず、そこに控えていた弟を見ると、宗佑も気がついたのか呆然としている。

 彼は気がつかず、そのままジャケットを拾い腕にかけ直した。

「あの……?」

 彼が立ち上がってもおつりを握ったままの美鈴を見て、彼が訝しそうにしている。我に返り、美鈴は彼の手におつりを手渡す。その手が震えないよう、精一杯、いつも通りを意識して。

「ありがとうございました。お気をつけて――」

 弟と一緒に、ランチタイム最後のお客様を見送った。店内に誰もいなくなる。

「姉ちゃん、見たか、さっきのあの人の腕」

「う、うん……。でも、はっきりと見えたわけじゃないし」

「んなわけないだろ。あれ入れ墨だろ! うわー、やっぱりそうだったんだ! 言葉遣いが紳士的だけれど、イマドキのヤクザさんはきっとそうなんだ! うわーー!」

 コックコート姿の弟が黒髪をかきむしって取り乱した。俺がやっと独立した店にヤクザが来た、ヤクザが常連になっちゃったと、お客様がいないのをいいことに大騒ぎ。

「どうしよう、姉ちゃん、やっぱり出入り禁止にしたほうがいいのかな」

「やめなさいよ。まだはっきりとわかったわけではないし、なんの問題も起こしていないのだから。いいお客様じゃない。なんでも美味しそうに綺麗に食べてくれて、週に三回も来てくれるんだよ」

「わかっているよ……。俺だって……」

 あの人ほど通ってくれて、あの人ほど美味しそうに残さず食べてくれて、自分の料理を気に入ってくれている人はいない。料理人としての喜びと、やっと手に入れた自分の城を守るオーナーとしての気持ちがせめぎあっているようだった。


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