5 決死行

由里の応えはなかった。


肩に海神の手が触れた。

ぐっとなにかが肩に食いこんできた。


焼けつく痛みが走り、賢司は、がくりと膝を落とした。膝にガラスが刺さって痛かった。


どっどっどっ。


どこか少し遠いところから足音が聞こえた。


「這って! 這うの賢司君ッ!」

その叫び声もまた遠いところから聞こえた気がした。

「這うのよッ! 足元には槍がないのッ! だから這って階段まで来て!」


賢司は、はっと正気に戻った。

雄たけびを上げて海神を振りほどいた。肩から少し血が噴き出して、頬を濡らしたが構わなかった。


賢司は、ためらわなかった。足元にはずっとガラスが敷き詰められている。だが、それでも、活路には違いない。


賢司は、両手を伸ばして、勢いよくガラスの海に飛びこんだ。胸の辺りに、突き出した槍が当たって息が詰まった。

ガラス敷きの床に滑りこむと、ざあっときれいな音がした。肘からつま先までガラスが切り裂いていった。


賢司は匍匐前進を開始した。

両肘をがっしりと床に叩きつけ、そして身体を引っ張った。割れて散乱しているガラスを、両腕でかきわけた。


両腕が痛い。気が狂いそうだった。

なんという痛みだろう。腕を大根おろしみたいに擦ったらきっとこんな痛みなんだろう。


痛みを忘れるためにとにかく叫んだ。

ひたすら前進した。後ろは見なかった。


自分の叫び声の間に、海神がときどき悲鳴を上げるのが聞こえた。

海神は、賢司のように匍匐前進をするという手段はとらず、廊下をまっすぐ歩いているようだった。

それならば、微妙な角度をつけて壁に突き立てられている細い槍が、海神の身体に細かい傷を負わせているはずだった。


それに、床にはガラスが撒かれている。

その効果は皮肉なことに賢司が身をもって実感していた。

海神の足の裏が鋼鉄製でもない限りこれは効くだろう。


だが、這い進む賢司よりも、立って迫る海神のほうが速かった。

再び海神の手が賢司の足首を掴んだ。


賢司は悲鳴を上げて、廊下の途中にあった少し太い槍をとっさに掴んだ。

腰をよじって上半身を半身にし、海神の両足首があるとおぼしき辺りを狙って、その槍を円を描いて力一杯振りまわした。


確かな手応えがあった。


海神がよろめいて壁のほうにふらつき、激しい咆哮をあげた。槍の一本が深く刺さったのだ。


賢司の足首にかかっていた圧力が、ふっとなくなった。


賢司は槍を捨て、また前を向き、がむしゃらに前進した。

身をよじったときに、火傷した背中にもガラスが刺さったらしく、前も後ろも、痛みを通り越して熱さと化した苦しみが襲っていた。


玄関から階段まで、五メートル足らずのはずだった。それが、なんという距離なのだろうか。

おそろしく緩慢な行程で、階段はまだ百メートルも先にあるのではないかと思えた。もう一時間はガラスの中を這い進んでいるような気がした。


前に進むのだという信念だけが賢司を突き動かした。

両肘で上体を支え、気合の叫びを上げながら匍匐前進を再開した。

肘からどくどくと血が流れて床を濡らしていく。腹も腿も脚もガラスに擦れて出血しているのがわかった。


それでも、賢司は、まだ自分が生きていることを実感していた。

生を強く感じていた。

生に向かって、必死に這った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る