第十五話:螢静堂


「……ううん……」


 目を覚ますと、見慣れない部屋にいた。

 真っ白なあたたかい布団に包まれて私は横になっている。

 障子の向こうからはやわらかな光が射し込み、のどかな鳥のさえずりが聞こえてくる。



「よかった、目覚めてくれた」


 私をのぞきこむようにして、見慣れない男の人が安堵の表情を見せた。

 くりくりとしたつり目に、襟足が反るようにくるりと跳ねた髪。

 空色の清潔そうな着物は、あまり見かけない風変わりな仕立てのものだ。


「あなたは……?」


 姿が見えないけれど、中岡さんたちはどこへ行ってしまったんだろう。


「医者だよ、一応。酢屋で世話になってる身なんだけどさ、君の話は仲間から聞いてたよ。突然血を流して運び込まれてきた時はびっくりしたな」


 医者と名乗る男の人は思いだしたように苦笑しながら肩をすくめる。


「というと、坂本さんたちのお仲間ですか……? 運び込まれたって……」


「そう、仲間。長岡謙吉(ながおかけんきち)って言います、よろしくね。君はあの夜脇腹を刺されて、中岡さんたちから酢屋まで運びこまれたんだよ。酢屋だとろくな治療ができないからすぐにここへ移ってもらったんだ」


「そうですか……というと、ここは診療所ですか? 三人は今どこに?」


「河原町五条の螢静堂(けいせいどう)って診療所だよ。中岡さん達はここにはもういない。あれから二日ほど経ってるからねぇ……ずっと眠ってたんだよ、君」


 二日、と言われて唖然としながらあたりを見回し、身を起こす。


「いたたたっ……」


 すると脇腹あたりに激痛が走り、思わず顔をしかめながら体をくの字に曲げる。


「寝てたほうがいいよ、ちゃんと傷がふさがるまでは安静にしててもらわないと」


 長岡さんはそう言って微笑みながら、いたわるようにそっと私の背中をさすってくれた。

 ――なんだか、ものすごく落ち着いた人だな。

 穏やかな声色で、どこかのほほんとした語り口。

 ケガ人を前にしてこんなにも自然体な人はめったに見ない。

 二日ぶりに目を覚ましたとなれば普通はもっと大きな反応をしめすものだと思うけど、この人は始終涼しい顔でゆるく微笑んでいる。

 やっぱりお医者さんだから、こういうことには慣れっこなのかな。



 いくらか状況を把握し、深く息を吸い込むと、脳裏に焼き付いたあの夜の光景が鮮明によみがえってくる。

 燃え上がるいずみ屋、引き倒されていく周辺家屋……そして。



「……やっぱり私、刺されたんですね……」


 脇腹をさすりながら、ぽつりと漏らす。

 あの夜、谷口屋さんが背後からぶつかってきた時、私は一瞬「死んだ」と思った。

 思いきり突き刺されて、もう助からないと。


「刺されはしたけど、致命傷じゃないから安心して。背から脇腹を通って、すべるように抜けていく傷でね……相手も一瞬躊躇したんだと思うよ」


「いいえ……致命傷です」


 がくりとうなだれて、膝を抱えるようにして顔をふせる。

 店を焼かれて。

 かすみさんは行方不明で。

 私は人から刺されるほどに強く恨まれていて――。

 もう、手元には何も残っていない。

 帰る家も、大切な人も、周囲からの信頼も。

 全部、一夜にして砕け散った。

 これを致命傷と言わずして、何と言うのか。



「中岡さんたちから、事情は聞いたよ。ひどい浪士たちに目をつけられてしまって、大変だったね」


「……大変だったのは、私じゃありません。無関係なご近所さんたちです……! 取り返しのつかないことをしてしまいました。浪士と関わるなと何度も注意を受けていたのに……! 考えが甘かったです、悪い人ばかりじゃないって信頼して……その結果たくさんの人を傷つけて……」


 まさか、こんな結末が待っているだなんて思いもよらなかった。

 水瀬たちへの違和感なら、何度か頭をよぎったはずだ。

 それでも私は、見ないふりをした。

 お客さんを疑ってはいけないと。

 きっと悪い人ではないと……!



「今の君から見たら、浪士は悪いやつばかりに見えるかな」


 突っ伏したまま嗚咽をもらす私に、長岡さんがかけた言葉はやっぱり涼しく落ち着いていて。

 その他人事のような距離感が、少しばかり憎らしく思えた。


「分かりません、もう……。浪士って一くくりにはしたくないけど、でも、こんな風に乱暴な人ばかりなら、二度と近づきたくないです!!」


 涙声でそう叫びながら。

 これまでいずみ屋を訪れた浪士たちはどんな人たちだったかと、記憶をたどる。


 申しわけなさそうに頭を下げながら、ツケにしてほしいと頼みこむ人。

 強気に大声を張り上げて、お代を踏み倒していく人。

 少ない持ち合わせから、きちんとお金を払ってくれる人。

 様々だった。

 数で言えば、満足にお代を払えない人が多かったけれど。

 そんな人たちの中でも、お代がわりに洗い物を手伝ってくれたり、ざっとお店の前を掃除してくれたりするような、さっぱりして気立てのいい人もたくさんいた。



「浪士も十人十色だよ。いずみ屋さんは浪士の客だって拒まずに受け入れて来たんでしょ? だったらよく分かってるはずだよ」


「……そうかもしれません……でも、私には彼ら一人一人がどんな色を持っているのか見極める目がありません……笑顔を向けられたら、少し優しい言葉をかけられたら、もうそれだけで悪い人じゃないって思ってしまいます……! 見せかけの優しさに、すぐに騙されてしまうんです!」


 人の善悪がわからない。

 自分の判断に自信が持てない。

 私の前ではいつもにこにこと優しかった深門さんの顔が頭に浮かんで、思わず叫びだしそうになる。



「そっか。あんなことがあった以上、そう考えるのも仕方ないね」


「……」


「でもね、君のことを助けようと必死になって、きっと今でも心から心配している浪士たちを知ってるよ」


「それって……」


 はっとして、伏せていた顔を上げた。

 涙で濡れた両目をぬぐうこともせずに、長岡さんを直視する。


「君のことを酢屋まで運んでくれた三人だよ。彼らにも二度と近づきたくないと思うかな?」


「それは……」


 中岡さん、田中さん、大橋さん。

 火事の中、火傷を負ってまでかすみさんを探しにいずみ屋に飛び込んでくれて。

 周りから何を言われても耳を貸さずに、消火を手伝ってくれた。

 そして不安な私のそばで、ずっと励ましながら見守っていてくれた。

 その上こうしてお医者さまのもとにも運んでくれて――まさに命の恩人だ。

 ……けれど。


「すごく感謝しています……だけど私、あの人たちのこと何も知らなくて……そんな状態でこのまま付き合いを続けてもいいのかなって……」


 不安でもある。

 彼らは悪い人じゃないとは思うけれど、その素性をまるで知らない。

 陸奥さんからも、もう彼らには関わるなと言われてしまった。

 悲しいけど、住む世界が違うんじゃないかと薄々感じている。


「あの人たちは、罪もない町人を苦しめるようなことをするような人間じゃないよ。藩を出て京にいるのは、彼らの志を遂げるためさ」


「こころざし……?」


「そう。今はこんな暗いゴタゴタしたご時世だからさ、この国がよくなるように何かしたいって思いながら活動してるってこと」


「それって、どんなことをしてるんでしょうか……」


「まぁ、そのへんはヒミツなんだけどね」


「そんなぁ……」


 肝心なところではぐらかされて、がくりと肩を落とす。

 そんな私の様子を見た長岡さんは、くすりと笑って言葉をつないだ。


「でもね、成し遂げたあとは胸を張って報告できることだから。あと一、二年待ってあげて。そしたら彼らの口から教えてくれるよ。あの時あんなことを頑張ってたんだってね」


「本当ですか……? 後ろめたいことはしてないですか?」


「してないしてない。彼らなりの正義を貫いて生きているよ。保証する」


「そう……ですか」


 納得できる答えではないけれど、いくらかほっとする。

 やっぱり私は、彼らを信じたいんだ。

 周りに何と言われようと、あの人たちは私の恩人だもの。



「――少しは落ち着いてくれたかな?」


「はい」


「そっか、よかった。それじゃあ最後にもう一つ」


「なんでしょう?」


 私はぐすぐすと鼻をすすりながら首をかしげる。

 思えば長岡さんとは初対面なのに、なんだかたくさん悩みを聞いてもらって少し申し訳なかったな……。


「三人から文を預かってるんだ」


「ええっ!? そんな大事なこと、はやく教えてくださいよ!!」


 とにかく早く見せてほしいと、長岡さんに詰め寄る。

 彼は苦笑して懐からそれを取りだし、こちらに手渡した。

 文は全部で三枚。

 それぞれ字の大きさと筆跡が違うから、一人一枚ずつ書いてくれたのだと分かる。

 さっそく読もうとして、はたと動きをとめた。


「あの……長岡さん」


「ん? なに? 読んでみなよ」


「いえ、その……難しい字がいっぱいで読めません……」


「え、そう? あー、中岡さんの文ねぇ……ちょっと女の子向けじゃないもんね。よかったら読み上げようか?」


「お願いします、できれば三枚とも……」


「了解。おまかせあれ」


 長岡さんは、人差し指と親指でマル印をつくって、にっこりと笑ってくれる。


「まず中岡さんのからいくね」


「はいっ」



『天野

 傍にいながらお前を守れなかった事

 言葉に尽くせぬほど後悔している

 本当に済まなかった

 俺達がもっと水瀬らの動きに注意を払っていれば

 いずみ屋にまで被害が及ぶ事はなかっただろう


 この件の責任は俺たちにある

 決して自分を責めるな

 水瀬らとの決着は必ずつけるつもりだ

 いずみ屋女将の行方も追う

 彼女は必ずお前のもとに帰すから心配せずに待っていてくれ


 最後に

 浪士との付き合いを続けるのはお前にとって良くない事かもしれん

 以後こちらからの連絡は控える

 もし何かあれば長岡くんを通して文をくれ


 中岡』



「中岡さんらしい、お堅い文面だね……次、ハシさんのいくよ」


 胸がいっぱいになって言葉につまる私にそっと目配せをして、長岡さんは紙のたばをめくる。



『天野さん

 怪我の具合はいかがですか

 しばらくは無理をなさらずどうか安静にお過ごしください


 このような事態になり責任を痛感しております

 何一つお力になれなかったことを恥じるばかりです


 浪士を店に受け入れたこと

 後悔していらっしゃると思います

 ですが私は

 あの店のあたたかさに幾度となく心癒され救われました

 そのような浪士はきっと他にもいるはずです


 いずみ屋を非難する方は今後大勢目につくでしょう

 ですが私はいつまでもあなた方の味方です


 かすみさんは必ず探しだしますのでどうか待っていてください


 大橋』



「ふぅん、ハシさんはいずみ屋に通ってたんだねぇ……それじゃ最後、ケンくんいくよ」



『必ずカタキは討つ

 泣かずに待ってろ


 田中』



「――だってさ。ケンくんのは簡潔だけど、字がすごい気合い入ってるねぇ」


 長岡さんは三枚の文をそっと畳の上に並べて見比べながら、ふっと笑みを浮かべる。

 私は、その言葉に返事を返すことができなかった。

 彼らのまっすぐで素直な気持ちを耳にしながら、顔も上げられないほどにぼろぼろと涙がこぼれ落ちてきたからだ。


 だめだ、泣き止もうと思ってもとまらない。

 三人が、こんなにも私やかすみさんのことを気にかけていてくれたなんて――。

 少しでも彼らとのつながりを断つべきか迷っていた自分を、思い切り殴りつけてやりたい気分だ。

 情けなく鼻水をすすりながら涙をぬぐい、ぐしゃぐしゃになった顔で長岡さんのほうを見上げる。


「三人とも、決着をつけるとかカタキをうつとか……水瀬たちと戦うつもりなんでしょうか?」


「戦うかどうかは別にして、まぁ追いかけ続けるだろうね。盗まれたものもあるようだし」


「そう……ですよね」


 まだ何も終わってはいないんだ。

 結局、水瀬たちには逃げられてしまったのだから。

 中岡さんたちの目的は、奴らを捕まえて盗まれたものを取り返すこと――。

 文によれば、彼らはそれと並行してかすみさんの行方も探してくれるようだ。


「三人とも、本当に君のことを心配していたよ。そして、君やいずみ屋を守れなかったことを悔いていた。今後の不安もたくさんあると思うけど、水瀬たちのことについては彼らに任せておくといい」


「……はい。私もできる限り、かすみさんの行方について調べてみます。もしかしたら、かぐら屋に戻っているかも……」


「うん。ただ、無理だけはしないでね。何よりまずは元気出して! 暗い顔でいると、なかなか傷も癒えないよ」


 長岡さんは私の頬をつんと優しくつついて、やわらかく微笑んだ。

 一通り不安を吐き出し、そして三人の文に励まされた私は、つられて小さく笑みがこぼれる。


「長岡さん、ありがとうございます」


「いやいや、自分は何もしてないよ。それより、中岡さんたちに何か伝言はない?」


「伝言――ですか。そうだなぁ……言いたいことはたくさんありますけど、とりあえず、ありがとうと、また会いましょうって伝えていただければ」


「了解。伝えておくね」


 ふたたび指でマル印を作る長岡さんに、深々と頭を下げる。

 またあの三人に会って話をしたい。

 いや、会わなきゃ。

 これっきりで終わらせるなんて絶対にいやだ。

 ちゃんと直接会って、お礼を言うんだ。


 決意をこめて、ぎゅっと布団をにぎりしめる。

 すると、その脇で思い出したように長岡さんが手を叩いた。



「あ、そうだ!」


「びっくりした……何ですか?」


 もしかしてまだ何か預かりものでもあるのだろうかと、首をかしげる。

 すると彼は、ちらりと障子の向こうへ視線を向けて、こう切り出した。


「この診療所を営む兄妹が君を知っているらしいんだけど、覚えているかな? 山村霧太郎(やまむらむたろう)さんと雪子(せつこ)さん」


「えっ!? ゆきちゃんとむた兄……! 知ってます、よく覚えてますっ!!」


 ゆきちゃんは、幼いころによく一緒に遊んだ私の一番の友達だ。


 二人の名を聞いて驚きのあまり、私は大きく布団から身を乗り出す。

 そして脇腹に走る痛みに悲鳴を上げ、涙目になってお腹を抱えた。


 長岡さんはそんな私を見て苦笑すると、「しばらく横になったら?」と優しく声をかけて布団に寝かしつけてくれる。


 ――そうして、納得した様子で二度、三度とうなずきながら口をひらいた。


「やっぱり雪子ちゃんとは深い付き合いだったんだね。君の手当てをしながら彼女、ずっと泣いてたんだよ」


「そうなんですか……? ゆきちゃん……」


 ゆきちゃんこと山村雪子ちゃんは、以前私が父と暮らしていた長屋のすぐ近くに診療所を構える医者の娘さんだった。

 父同士の仲もよく、物心つく前から互いの家を行ったり来たりしながら毎日一緒に遊んだものだ。


 けれど、ゆきちゃんが八つになった頃にお父さんを亡くして――それからすぐにむた兄が大坂に遊学することが決まり、幼いゆきちゃんも一緒について行ったはずだ。


「大坂から戻ってきてたんだ……」


 知らなかった。

 もう二度と会えないものだと思っていたから。


「霧太さんがここで診療所を開いたのは、ほんの一月ほど前だよ。自分も以前大坂で医術を学んでいたことがあって、その頃山村兄妹と知り合ってね。けっこう長い付き合いになるかな」


「そうだったんですか。というと、長岡さんは大坂の方ですか?」


「いや、違う。土佐の出だよ。大坂は医術を学ぶにはいい場所で、地方から遊学に出てくる医者が多いんだ。霧太さんとは同じ塾で学んでいた仲間さ」


「へぇ……」


 そういえば、むた兄は昔から立派な医者になるとコツコツ勉学に励んでいたっけ。

 大坂へ行く前には京でも有名な塾に通っていたはずだ。



「それじゃ、雪子ちゃんたちを呼んでこようかな。自分は今日のところはこれで失礼させてもらうけど、また様子を見にくるからね」


 優しく笑って私の額をツンと指でつつくと、長岡さんは立ち上がって廊下へと続く障子に手をかけた。


「はいっ! いろいろとありがとうございました、坂本さんや陸奥さんにもよろしくお伝えくださいっ」


「うん――ああ、そういえば、まだ名前を聞いてなかったね。教えてくれるかな?」


「あ、はい……! すみません! 天野美湖ですっ!」


「そっか、美湖ちゃん。お大事にね。また会おう」


 布団に横になったまま大きく頭を下げる私を見て、あまり無理な動きをするなとでも言うように片手を小さくあげて苦笑しながら、長岡さんはゆっくりと部屋をあとにした。



「ふぅ……」


 長岡さん、すごく話しやすくて親切な人だったな……。

 坂本さんたちのお仲間か。

 またいつか、坂本さんや陸奥さんにも会いたいなぁ。


 今回の騒動で、いろんな人に心配と迷惑をかけてしまった。

 謝りたいし、お礼を言いたい。

 この怪我が治ったら、必ずまた彼らに会いにいこう――。



 天井を見つめながらぼんやりとそんなことを考えていると、障子の向こうから何やらドタバタと騒がしい足音が聞こえて来た。

 大きな床鳴りとともに、襖や箪笥が小刻みに振動する。

 誰かが全力疾走でこちらへ向かっているようだ。


「みこちん! みこちーーーん!!」


 壊れるんじゃないかという勢いで障子が開き、姿を見せたのは目に大粒の涙を浮かべながらこちらを見つめる一人の女の子。


「ゆきちゃん!? ゆきちゃんだよね! うわぁっ、久しぶりっ!!」


 怪我のことなどすっかり忘れて、私は布団をはねのけながら体をおこし、ゆきちゃんのほうへと手をのばす。

 間違いない。昔の面影の残る、懐かしい顔だ。


「みこちん、まだ起きたらあかんよ……!」


「うん、うん。でも本当に久しぶりだから嬉しくて! また会えるなんて思ってなかった!」


「うちは会いに行く気まんまんやったんよ? けど、前住んどった長屋を訪ねたらみこちんおらんくてなぁ……」


 ゆきちゃんは私の体をぎゅっと抱きしめて優しく背中をさすってくれる。


「そっか、ごめん……! あれからしばらくして転居したの。でもまた会えたね、こんな形でなんてちょっと笑えないけど……」


「うちは嬉しいよ! ずっとみこちんに会いたかったんや。怪我、しっかり治したるからな! うちと兄ちゃんにまかしとき!!」


 こぼれる涙を袖でぬぐい、照れたように強気の笑みを見せながら、ゆきちゃんはトンと拳で胸を叩く。


「うん、ありがとうゆきちゃん……」


 変わってないな。

 笑い方も、みこちんって呼び方も。

 ひとつ年上のゆきちゃんは、元気で強くて、頼りになるしっかり者だった。

 別れてからもう十年――。

 ゆきちゃんも、十八歳か。

 中身はそのままだけど、見た目は凜として愛嬌のある綺麗なお姉さんといった感じに成長している。

 三つ編みにした長い髪を上でくるりとまとめ、残りをしっぽのようにうしろに垂らす結い方は昔から変わらない。


「みこちん、傷痛むやろ? 体横にしよか?」


 ゆきちゃんはいくらか落ち着いた様子でそう声をかけると、傷口を上にして私が寝返りをうつのを手伝ってくれた。


「ありがとうゆきちゃん……そうだ、むた兄は?」


「兄ちゃんは、謙吉さんと少し話してから来るいうてたけど……あ、今こっち向かってるな」


 廊下を歩くかすかな足音に耳をかたむけながら、ゆきちゃんは立ち上がって障子を開く。


「兄ちゃん、遅いで! 早う入って! みこちん目ぇ覚ましたんや!」


「知っとるよそりゃ……こらこら、押すんやない」



 ゆきちゃんから背中をぐいぐいと押されて布団の前まで連れてこられると、むた兄は私を見てにっこりと笑った。


「美湖ちゃん、久しぶりやなぁ。気分はどうや? 傷は痛むか?」


 細身で猫背、人なつっこく優しい顔立ち。

 動きも喋りもゆっくりとして、亀のようだと昔からゆきちゃんにからかわれていたっけ。

 ゆきちゃんの七つ上だったはずだから、むた兄は今二十五歳だ。

 全体的に大人びてはいるものの、あの頃のままの雰囲気だ。


「むた兄、久しぶり……動くとまだ少し痛いけど、大丈夫だよ。すぐ治るよね?」


「すぐとは言えんけど、もう数日このまま安静にしとったら次第にようなってくはずや。田中さんの話やと、住まいも焼けてしもうたんやてなぁ……しばらくはここにおってくれてええからな」


「せやで、みこちん! ここにおり! もううちの子になったらええよ! な!」


 むた兄の言葉に大きくあいづちをうちながら、ゆきちゃんは私の手を握ってぶんぶんと振りまわす。


「ありがと……でも、一旦かぐら屋に帰りたいな」


 雨京さんの元には山崎さんが運んでくれた私の荷物が届いているはずだし、もしかしたらかすみさんもうまく逃げ出してかぐら屋に駆け込んでいるかもしれない。


「怪我がなかったら、あの日からかぐら屋さんに世話になる予定やったんやろ? その話も田中さんらから聞いとるよ。で、昨日かぐら屋のご主人とも話してきたんやけど……」


「え!? 本当に!? むた兄、雨京さんと会ったの!?」


「会うてきたで~、かぐら屋恐ろしなぁ。貧乏人や思われたんか知らんけど、六度も追い返されてな、いずみ屋と美湖ちゃんの名を出してようやくご主人が会ってくれはったわ」


「……大変だったよね、ごめんなさい。それで、雨京さんは何て?」


「会いに来てくれるそうや、今夜」


「今夜!?」


 信じられない。

 あの雨京さんがわざわざ出向いてくれるなんて。

 いつもすごく忙しそうにしていて、あいている時間なんてほとんどないと聞いていたのに。


「せやで。いや、ホンマに美湖ちゃんが目ぇ覚ましてくれてよかったわ。いろいろ話したいことあるやろ、ご主人は店が落ち着いてから四ツ半以降に来るそうや」


「四ツ半……ずいぶん遅くなるね、夜道大丈夫かな?」


「ああいうお人は一人歩きなんかせんやろ。心配やったら、僕が迎えに行ってこよか?」


「兄ちゃんはヒョロガリ貧弱やからかえっておらん方がええやろ、金持ちさんにはたぶんちゃんとした付き人がおるよ。ダイジョブや、みこちん!」


「う、うん……」


 元気づけるようにひときわ明るくこちらに笑みを向けるゆきちゃんの隣で、貧弱と呼ばれたむた兄ががっくりと肩を落としてため息をついた。


 変わらない二人を見て自然と笑みがこぼれる。

 思わぬ騒動の連続ですっかり気持ちが弱りきっていたけれど、こうしてゆきちゃんやむた兄と再会できたことは、何か特別な巡り合わせだと感じる。

 長岡さんがここに連れてきてくれたことに感謝しなくちゃ。



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