第十三話:救いの手
かぐら屋までの道のりを半分ほど来たところで、私は足を止めた。
限界だった。体が、足が。
呼吸もままならずぜえぜえと荒い息が漏れ、体力気力を絞り尽くしてその場に倒れ込みそうだった。
「……だめだ、止まっちゃ……」
別れぎわに見たかすみさんの覚悟の眼差しが脳裏をよぎり、弱気になった自分の頬を叩く。
膝を折って楽になりたい衝動をぐっと押さえ込み、細く長く続いていく小路をふらふらと進んでいく。
片手を民家の壁に添えて体を預けながらじゃないと歩くこともままならない。
暗い細道を抜けると、少しひらけた幅の広い通りに出た。
まだ店を開けている料理屋もぽつぽつと見られ、少ないながらも行き交う人々の気配が日常を感じさせてくれる。
あちこちの店からもれるやわらかな灯りと生活音に、ほっと安堵の息をついた。
「腹へらねぇっすか? あそこの蕎麦屋寄っていきません?」
「ダメですよ田中くん、かぐら屋まで我慢してください」
「持ち合わせも少ないし、かぐら屋についても食事はできんがな……」
「ちくしょう! いっぺんでいいからお高い料亭で腹いっぱい食ってみてぇぜ!!」
こちらへ向かって歩いてくる浪士らしき一団の話し声がぼそぼそと、耳に入ってくる。
(かぐら屋の話してる……? それに、この声は)
聞き覚えがある。
声のするほうに体を向けてじっと目をこらすと、こちらが反応するより早く向こうが声を上げた。
「天野……!」
「うおおっ! なんでおめぇがこんなトコにいんだよ!」
「どうしたのです? こんな時分にお一人で……」
中岡さんと、田中さんと、大橋さん。
あの時ひろった写真のように三人そろって、こちらへ順に声をかけてくれた。
思いがけずばったりと遭遇し、三人とも少しあっけにとられたような表情でぽかんとしている。
「みなさん……」
見知った顔に出会えた安心感からか、気持ちがゆるんでじわりと涙が溢れてきた。
「朝方いずみ屋に寄ったら、ガチガチに戸締まりして人の気配もねぇしビビったぜ! もう転居したのかよ!」
「ちょうどこれから三人でかぐら屋へ向かうところだったんですよ、先日は慌ただしく追い返してしまったので、おわびも兼ねて」
ご立腹な様子の田中さんをまぁまぁとたしなめながら、大橋さんは申し訳なさそうに小さく笑って頭を下げる。
「いえ、あの……まだかぐら屋へは移ってなくて……」
うつむいてぎゅっと着物の裾をにぎりながら、声をしぼり出す。
もうそんな、普通の会話をしている余裕はない。
「……どうかしたのか? 何かあったのなら話してくれ」
異変に気付いたのか、中岡さんが私の顔をのぞき込んだ。
この人たちを厄介ごとに巻き込むべきじゃないのは分かってる。
だけど、いずみ屋を出てからはじめて私の言葉に耳を傾けてくれる人に出会えた。
この三人は私を拒絶しない。
ただそれだけのことが、まるで奇跡のように有り難く感じられた。
三人は心配そうに眉をよせて、私が話し出すのを待ってくれている。
「どした? おめぇにゃ借りがあるしな、言ってくれりゃなんでも力になるぜ」
田中さんが懐から例の写真を取り出して、私の目の前でぴらぴらと振ってみせる。
「本当ですか? 話をきいてくれますか……?」
彼らは、はじめて言葉を交わしたその日よりもいくらか優しい表情をこちらに向けて、見守るように目の前に立っている。
その眼差しと『力になる』という一言が、心細く不安でいっぱいだった私の心にどれだけ力強く響いたことか。
ピンと張りつめていた糸は、もう限界とばかりに悲鳴をあげながらプツリと切れた。
私はぼろぼろと涙をこぼしてその場に膝をつき、頭を下げる。
「助けてください……! お願いしますっ!! いずみ屋が大変なんです!!」
もう、この人たちにすがるしかない。
私の話に真剣に耳を傾けてくれるこの人たちに――!
地べたに這いつくばったまま、うまく言葉も出せずに泣きじゃくる。
頭の中がまっしろだ。
話さなきゃいけないことはたくさんあるはずなのに、何もでてこない。
ここにたどり着くまでに気持ちも体力もすり減らしきった。使い果たした。
しばらく嗚咽を漏らしながらみっともなくうずくまっていると、ふいに私の背をポンと優しく誰かが叩く。
「話を聞こう、まずは場所を変えていいか?」
中岡さんだ。
片膝を折って私に目線をあわせてくれている。
流れおちる涙をぬぐいながらこくりとうなずくと、大橋さんがそっと肩を支えて私を立たせてくれた。
「あの、ゆっくり話す時間はないので歩きながらでいいですか……?」
「もちろんです、まずは涙をふいてくださいね」
まだぐすぐすと鼻をすする私に手ぬぐいを渡しながら、大橋さんはなだめるような口調で微笑みかけてくれる。
優しい人たちだ。
「んで、いずみ屋がどうしたって?」
田中さんだけは、さっきから声をかけづらそうに一歩ひいたところに立っている。
そして困り顔で頭を掻きながら、「泣き止めよ、助けてやっから」なんてぼやく。
彼なりに心配してくれているのかな。
私は三人とともにいずみ屋までの道を引き返しながら、これまでのことを語った。
いずみ屋が浪士のツケに甘く、いつの間にかたまり場になっていたこと。
三人の浪士に目をつけられて今回の騒動が起こったこと。
新選組からも監視されていること……。
そこまで黙って話を聞いていた三人は、険しい表情でそれぞれ顔を見あわせた。
「今、いずみ屋に立てこもっている浪士はどんな奴らだ? 名は分かるか?」
まず、中岡さんが神妙な顔つきでこちらに問いを投げかける。
「気性が荒そうな水瀬という人と、一見親切な深門さんという人で……」
「水瀬に深門ぉ!? おい! そりゃあ確かかよ!?」
田中さんが血相を変えて、私の肩をつかんで揺さぶった。
「確かです、名前を呼び合っているのを聞きました」
そう言ってうなずいてみせると、三人は息をのんで何とも言えない緊迫した表情のまま立ち止まった。
「あの、どうかしましたか?」
おそるおそる尋ねながら、急がなければと気持ちがはやり、進行方向に幾度か目線を流す。
「――水瀬と深門は、私達が先日から探していた相手です」
ぽつりと、重く苦々しい声色で大橋さんがつぶやいた。
「えっ!? それって……」
「あの夜、俺を追っていたのも水瀬達だ」
困惑する私に向けて中岡さんがいい放った言葉は、稲妻のような衝撃を私の脳天に落とした。
「そんな……どういうことですか!? 彼らと中岡さん達はどんな関係なんですか!?」
頭の中がますます混乱して、もう何がなんだか分からない。
まさかいずみ屋の騒動と中岡さんたちが抱えている問題がつながっていたなんて――。
「あいつらは元はオレらの仲間だったんだが、数日前に突然裏切って出て行きやがったんだよ」
「その際、金品を盗んで持ち去りました」
田中さんと大橋さんが、鋭く冷たく相手への憤りをにじませながら言葉をつなぐ。
「……心当たりあります。お金とか刀とか、いくつかはいずみ屋に隠してあったみたいで」
「どんな刀だったかわかるか!?」
田中さんが、急かすように声を荒げながら私に詰め寄った。
「えっと確か一昨日のことです……水瀬が突然立派な刀を腰に差して来店したんですよ。それが上品に塗られた朱鞘の長刀で、何か鞘に龍みたいな模様が入っていたような……」
分不相応なその姿には違和感しかなく、よく覚えている。
ほとんど使った形跡のない、新品同様のぴかぴかの刀だった。
「間違いねぇ、そいつぁオレの刀だッッ!!」
田中さんはギリリと歯噛みし青筋を立てて怒鳴り散らすと、物凄い速さで暗い小路を駆け出した。
「急ごうぜ! あいつら取っつかまえてブッ殺してやらねぇと気が済まねぇ!!」
猛獣のように両の目を血走らせて、髪の毛が逆立つほどの殺気を振りまきながら、田中さんは前へ前へと進んでいく。
「ずいぶんと大切にしていたものですから、気持ちは分かりますが……」
やれやれといった様子でため息をつきながらも、大橋さんの瞳も冷たく殺気立っている。
「できれば新選組が駆けつける前に、俺たちの手でやつらを捕まえたい。天野、協力してもらえるか?」
思わぬ展開に足がすくんでいる私の両肩をがっしりとつかんで、中岡さんが真剣なまなざしをこちらに向けた。
「新選組に見つかるのはよくないですか……?」
「よくないですねぇ、あまり仲がよろしくないもので」
肩をすくめて首を左右にふりながら、大橋さんは長々と息をつく。
……この人たちは、一体何者なんだろう?
町で悪さをして人を困らせるような人たちには到底見えないだけに、何か取り締まりの対象になる点があるのかと疑問が浮かぶ。
ただ新選組は、相手が他藩出身の浪士というだけで疑ってかかることも多いそうだから、そういう意味で衝突を避けたいだけかもしれない。
……詳しいことはよく分からないけれど、今は深く考えている時間はない。
「中岡さんたちに協力します! 私も、水瀬たちが捕まるまで安心できませんから!!」
中岡さんの目をまっすぐ見上げて、意思を固める。
この人たちも同じ相手に裏切られ、苦しめられて来たんだ。
力を貸さない理由はない。一緒に問題を解決しよう――!
「ありがとう。こちらもいずみ屋を守るため、出来る限り力を貸す」
中岡さんは力強い眼差しをこちらへ向け、誓うようにトンと掌でその胸を叩いてみせた。
「そうと決まれば、急ぎましょう。田中くんがしびれをきらしてこちらに突進してきています」
真面目な話の途中、大橋さんがおかしなことを言い出したと顔を上げて目の前の路地を見渡せば、すぐそばに田中さんの姿があった。
「おっせぇよ! オラ天野、乗れ! ろくに歩けもしねぇんだろ? 圧倒的肉体派のオレ様が運んでやっからよ」
そう言って膝を折りこちらに背を向け、万全のおんぶ体勢の田中さんを見て、一瞬ためらう。
「田中くんはあなた一人くらいなら、おぶったまま走れますよ」
「馬か何かだと思って、遠慮なく乗るといい」
大橋さんと中岡さんのお墨付きをもらって、おずおずと田中さんの背に体を預ける。
その瞬間、まるで宙に浮くようにふわりと私の体は持ち上げられた。
いくら背が低いとはいえそれなりに重たいはずなのに、田中さんは涼しい顔で軽々と私を運ぶ。
そして、道の両脇に据えてある樽や桶をひょいひょいとかわしながら、韋駄天のように猛進して行く。
「しっかりつかまっとけよ! 首んとこに手ぇまわせ」
おんぶなんて幼い時分以来だ。
どきどきしながら背中にしがみついている私のほうをちらりと振り向いて、田中さんが声をかけてくれる。
「はいっ」
おそるおそる首を包みこむように両手をそえると、隣を走っていた中岡さんがぶほっと顔をそむけながら噴き出すのが見えた。
「わざとやってんのかコラァ! 絞まっちゃってんじゃねーか!! 腕を前にまわせっつうこったよ!!」
「あ、はい! ごめんなさいっ……!」
緊張のあまり自分でもわけのわからないことをしてしまったと、反省。
田中さんの首にゆるく巻きつけるように腕を回す。
「重いですよね、すみません」
「軽ぃよ」
なんてことはないと言うようにフンと笑ってみせると、田中さんはまた少し速度を上げて入りくんだ路地を矢のように抜けていく。
私が全力で走ってきた時間の半分もかかっていないんじゃないかという恐るべき脚力で、あっという間にいずみ屋付近の通りまでたどり着くことができた。
「ん……? あれは……」
そうつぶやいて中岡さんが立ち止まると、田中さん大橋さんも足を止めた。
そして見上げた空の異様さに、私達は言葉を失う。
いずみ屋の方角――北西の空が、橙から朱に染まり、もうもうと立ち上る煙のようなものでその周辺はひどく淀んでいた。
火事だ。
燃えているのは、恐らく――……
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