第七話:月夜の逃亡者


 一日の終わり。

 いずみ屋二階にある自室の窓際に座って、静かな夜の町を見下ろすのが私の日課だ。

 日中はにぎやかなこの界隈の景色も、陽が落ちてからはがらりと変わる。

 人通りは少なく、たまに見かけるのは、提灯を提げてそろりそろりと歩く商人さんやお役人さんがほとんどだ。


(酢屋のお兄さん、鰻重食べてくれたかなぁ……)


 開け放した窓の枠に体をあずけて、酢屋のほうへと視線を向ける。

 今晩はじめて会った無口な男の人は、お兄さんの下宿仲間なのだろうか。

 それにしては、店から出入りするところをあまり見かけない気がするけれど……。


 ――明日また、お兄さんと会えそうな昼過ぎに酢屋に行ってみよう。


 びゅうと夜風が音をたてて、湯上がりの髪をなでるように揺らしてゆく。

 急にあたりが冷え込んだように感じて、小さく震えながら肩を抱いて身をすくめる。

 明日にそなえて、今日はそろそろ寝ようかな。


 ――そんなことを考えながら窓をしめようと格子になった木枠に手をかけると、通りの向こうからかすかに足音のようなものが聞こえてくる。


 ザッザッザッ……ザッ……


 それは、シンとあたりが静まりかえっているこの状況だからこそかろうじて耳に入ってくるような、小さな音だった。

 時おり歩調をゆるめながら、何かを警戒するように慎重に闇の中を移動しているものの、草履が砂地を摺る音だけは殺しきれないらしく、その不規則な足音からは言い知れぬ焦りと緊迫感が伝わってくる。


(音の主はどこにいるんだろう?)


 ひそりひそりと近付いてくる気味の悪い足音に内心おびえながらも、怖いもの見たさで私は窓から身を乗り出してあたりを見渡す。


 その時。


 ――ザザザザザザッッ


 高瀬川方面の大きな通りから、複数の足音がこちらに近付いてくるのが分かった。

 音の方へと目をやれば、ばらばらの路地を走っていた三、四人の男たちが互いに声を掛け合いながら一点に合流するところのようだ。


「いたか!?」


「いない……見失ったか? こっちに向かっていたと思うんだがな……」


 男たちの位置は、いずみ屋から一つ通りを隔てたところにある宿の裏――そこは細い裏道になっていて、表の大通りから見れば完全な死角だ。身を隠すにはもってこいの場所と言える。

 ここからなんとか目が届く距離で、声もかろうじて聞こえてくる。


(この人たちが追いかけているのは、さっきの忍び足の主かな……?)


 おそらくそうだろう。状況から考えて、間違いない。



 ザッザッ……ザッ……


 ともすれば聞きのがしそうなほどにか細い足音が、間近で聞こえる。

 あわてて真下に目を向けると、一人の男の人が、こちらに背を向けるようにじりじりといずみ屋横の小路へと後退してくる姿が見えた。


 さっきから聞こえていた、足音の主のようだ。


 暗くてよく見えないけれど、丈の長い外套に身を包み、その襟元に顔を伏せるようにして荒く肩で息をしている――……



(……ん?)


 丈の長い外套?


 そう言えば私は、似たような格好をした人を最近見たはずだ。


 ――そう……思い出した!


 あの写真の……!!


 どくんと大きく体の中心が脈打ち、じわりと額に汗がにじむ。

 震える手で懐から例の写真を取りだして、目をこらす。

 中央に写るその人物。

 今、自分の真下にいるこの人と、出で立ちがそっくりだ。


 うしろ姿でよく確認はできないけれど、短髪で外套を羽織っているところは一致している。

 田中さんから聞いた名前はたしか……中岡さん!


 ――もし本人なら、助けなきゃ……!!


 私ははやる気持ちをおさえ、ぎゅっと写真を握りしめるように懐に抱きながら階段を降りて、勝手口へと急ぐ。


 勝手口を開ければ、さっきあの人が逃げ込んだ小路につながっている。



 カタン……


 できるだけ音を立てないよう、静かに木戸を引いて隙間を開ける。

 するりとそこを抜け出して小路に出ると、その人は向かいの壁に体をあずけて呼吸を整えているところだった。


「……!」


 思い切り目が合った。

 相手はふいをつかれて動揺したのか、鋭い目を見開いて二歩、三歩と後退する。


 陰が落ち真っ暗だった軒下から脱け出し、月の光にぼんやりと照らされた男の人の顔を見て、私は確信する。


「……中岡さん、ですよね?」


 写真の顔によく似ている。

 着物も、特に目を引くまっくろな外套も、ほとんどそのままだ。


「……」


 私の第一声に、中岡さんはますます表情を硬くする。

 もはや面食らって沈黙している状態を通り越し、殺意すら感じる冷たい眼差しで、こちらを見つめている。


 これは、まずい。

 こんな状況で知らない人から名前を呼ばれたら、誰だって警戒するはずだよ……!

 何者だってびっくりさせちゃうのは当たり前だ!


 混乱して一人あたふたしている私を、中岡さんは怪訝そうな目でじっと眺めている。


「あの……私、田中さんのお友達でして、それで中岡さんのこと知ってて……」


 嘘だけど! 友達ではないけど……!

 それでも田中さんの名を出せば少しは警戒を解いてくれるんじゃないかと淡い期待を抱きながら、あくまで小声で語りかける。


「……」


 中岡さんは、頑として無言をつらぬく姿勢だ。表情ひとつ変えない。



 ――そんな張りつめた空気を裂くように、すぐ近くから先ほどの男たちの足音とひそひそとした話し声が聞こえてくる。


「お前はそっちの小路を曲がれ! 俺は真っ直ぐ行く!」


「了解!」


 彼らはもう、すぐそこまで来ている。

 足音からして、いずみ屋の手前あたりにはいるだろう。

 さきほど聞こえた指示通り、小路を曲がれば私たちのいる場所にたどり着く。



 ザッ――……


 きびすを返して走り去ろうとする中岡さんの袖をつかまえて、ひっぱる。


「……中へどうぞ」


 目の前のいずみ屋勝手口へと目くばせしながら、できるかぎり足音を消して店内へと誘う。


 振り向いた中岡さんと、視線がぶつかった。

『考えている暇はない』とばかりに一瞬苦々しく眉間に皺を寄せると、中岡さんは私に袖を引かれるままいずみ屋の中へとすべり込む。

 それと同時に、私はそっと戸を引いた。



 ――ザザザザッッ


「こっちにはいないな……」


「このあたりで足音がしたと思ったんだがなぁ」


「逃げ足の早い奴だからな、もうちょい先までくまなく探すぞ!」



 あわただしく走り去る足音と、忌々しげに交わされる言葉たちが目の前を通りすぎると、安堵から膝がくずれ落ちた。

 どくんどくんと、壊れそうなほどに高まった鼓動は、しばらくおさまりそうにない。



「……助かった、礼を言う」


 静寂が戻り、いくらか場の緊張がゆるんでくると、意外にも中岡さんが先に口をひらいた。


「いえ、あの……突然飛び出してすみませんでした。びっくりしましたよね」


「いや、驚いたがおかげで助かった」


 戸口を押さえるように屈みこんでいる私からある程度距離をおき、箒や籠や瓶や、あれこれごちゃごちゃと積み重ねて置いてある壁ぎわに背をあずけるように、中岡さんは立っている。

 まだ完全には警戒を解いていないようだ。



「ところで、ケンと知り合いという話は本当か?」


 ふぅと一息ついて腕を組み、質問を投げ掛けてくる中岡さんに対して、わたしは一瞬首をかしげた。


「ケンさんって、どなたですか?」


「……お前から名を出したはずだがな。田中の友だと」


 私のうかつな返答を受けて、中岡さんの声色がみるみる冷めていく。


「あの、田中さんのことは田中さんとしか聞いてなくてですね……! 下のお名前はなんていうか知らなくて。田中ケンさんですね! 覚えました!」


「……まずは、どこで知り合ったか聞かせてもらおう」


「あ、はい……!」


 怪訝そうなまなざしでこちらをにらむ中岡さんに促され、すべてをありのままに伝える。

 川で写真を拾ったこと、持ち主を探していたこと、今日田中さんに会ったこと――。



「……そういうわけで、田中さんのお顔が写真と違うんじゃないかとモメた結果、明日またあらためてお返しすることになったんですが……」


「なるほど、確かにケンは写り方がおかしいとぼやいていたな……話を聞くかぎり信憑性はあるが、証拠は? 手元にあれば写真を見せてくれないか」


 いくらか納得してくれた様子でうなずきながら、こちらに歩み寄ってくる中岡さん。


「……いつまで座っているつもりだ?」


 ぺたりと土に足をつけてその場にへたり込んだままの私を、あきれたように見下ろして中岡さんは軽く息をつく。


「あ、ごめんなさい……!」


 指摘されてようやく気づく。

 大切な話をしているというのに、この姿勢はあまりにも失礼だ……!

 あわてて腰を上げようとするものの、極度の緊張と興奮で腰が抜けたのか、力を入れようにもふにゃりと体が折れて、うまく立ち上がれない。


「そのままでは着物が汚れるぞ。ほら、ゆっくり立て」


 中岡さんはそう言って私の隣で膝を折ると、そっと肩を貸して立ち上がらせてくれる。

 膝は相変わらずがくがくと頼りなく震えているけれど、体を支えられてなんとか土間を上がった先の畳の上に腰を下ろすことができた。


「ありがとうございます……!」


「年頃の女がああやって地べたに座り込んでいては見苦しいからな。それで、写真の話なんだが……」


「あ、はい……」


 優しい人だと一瞬ときめいたものの、すぐさま盛大に突き放され、がくりと肩を落とす。

 ――そして懐から例の写真を取り出すと、目の前の中岡さんに向けてそっと差し出す。


「この写真です。真ん中が中岡さんですよね?」


「これは……そうだな、確かに俺だ」


 明かりもない薄闇の中、写真を手に取ってじっと目をこらし、中岡さんはうなずいた。

 それを見て、私はほっと胸をなでおろす。

 人違いじゃなくて本当に良かった。


「これは私から、田中さんに返しておきますね」


「預けてもらえれば、俺からケンに渡しておくが……」


「そうですか……? それだと明日の夕方までに田中さんに返しておいてもらわないと行き違いになっちゃうと思いますけど、大丈夫でしょうか」


 もしそうなって、私が写真を持ってないと言ったら田中さんは物凄く怒る気がする。


「いや、夕方までに会えるかは分からんな……この件はお前に任せた方が良さそうだ。すまんが、頼む」


「はいっ! お任せください!」


 どんと胸を叩いて返事をする。

 それを見て中岡さんはかすかに目を細めて小さくうなずきながら、私に写真を返してくれた。



「――さて、そろそろ失礼するとしよう……ここは確か、茶屋だったな?」


「あ、そうです。いずみ屋っていいます……はっ! すみません、お茶も出さずに!」


 私はいくらか自由のきくようになった足で、ふらふらと瓶から水を汲み上げ、お湯をわかす準備をはじめる。


「いや、気を遣わなくていい。お前はいずみ屋の娘なのか?」


「いえ、ここでお手伝いをしながら居候させてもらっている身です」


「そうか、名は?」


「天野美湖といいます」


 沸かそうと汲んだ水を、湯飲みに注ぎながら言葉を返す。

 かすかに波打つ水の表面は、格子窓から射し込む淡い光を受けて、きらきらと光っている。


「天野か、分かった。また後日あらためて礼に来よう」


 そう言って木戸に手をかける中岡さんに駆け寄り、湯飲みを手渡す。


「のど、かわいてませんか? どうぞ!」


「……ああ、すまんな」


 本当はあったかいお茶を淹れてあげたかったけれど、あまり引き止めるのも悪い。


 湯飲みを静かに傾ける中岡さんを見ていると、心の奥でふいにざわざわと音をたてて、不安な気持ちが沸き上がってくる。



(このまま帰してしまって、大丈夫なのかな……?)



「あの、ちょっと待ってください!」


 湯飲みの中の水を飲み干し、こちらに向かって口を開きかけた中岡さんの袖をぎゅっとつかんで声を上げる。


「……どうした?」


「えっと、さっきまで誰かに追われていましたよね。だから、外に出ると危ないんじゃないかなって……」


 何と言葉をかけていいのかは分からないけれど、とにかく嫌な予感がする。

 ふるえる声を絞りだしながら、中岡さんを見上げて眉尻を下げる。


「ここが宿ならこのまま泊めてもらったんだが、茶屋となればそうもいかんだろう」


「お部屋ならあいてますよ! 昔は二階を下宿部屋にしてたんです! よかったら……」


「いや、匿ってもらえただけで十分だ。あまり気を遣わないでくれ」


 そっと私の肩を叩いて湯飲みを手渡すと、中岡さんは『心配するな』とでも言うように、あたたかく力のこもった眼差しをこちらに向ける。


「でも、あの……最近はたまに、夜道で怖い事件が起こったりするから心配で……」



 最近といっても、ここ数年――京の町は血生臭い。

 夜のあいだに殺されたであろう誰かの死体が、朝になって発見されるのはよくあることだ。

 どんな経緯で、誰がそれを行っているのかは分からないけれど、そういったイザコザのほとんどを持ち込んでいるのは他所からやってきた浪士達だろうと、町の人々は噂している。


「そうだな……俺もこんなところで追いかけ回される謂われはないんだが」


 ため息をつきながら、うんざりしたように中岡さんは小さく吐き出す。


「それじゃ、中岡さんも迷惑してるんですね? 彼ら、物盗りか何かですか……? しつこいようならお役人さんを呼んで来ましょうか」


「いや、それは必要ないが……物盗りというのは間違っていないかもな」


「許せませんっ! 大事なもの、盗られないように気をつけてくださいね! そうだ、近くの宿までご案内しましょうか? すぐそこにありますから!」


「近場に知り合いがいてな、今夜はそこに世話になるつもりだ。心配はいらない」


 一人鼻息を荒くしながら憤りをぶちまけている私を見て、中岡さんはかすかに苦笑する。


「この近くですか? それでも心配だな……私、送っていきます!」


「そうすると帰りはお前一人になってしまうだろう。こんな時分におなごを一人で帰らせるわけにはいかんからな……気遣い無用だ」


「うう……ごめんなさい、全然お役に立てなくて」


 しょんぼりと肩を落として私はうなだれる。

 思えばついさっき会ったばかりなわけだから、いくら頼りにしてほしくても、それに足る信頼が築けていないのだろう。


 私は写真を通して以前から中岡さんを知っていたけれど、中岡さんにしてみれば今しがた偶然出会った娘にすぎないんだ――。



「変わっているな、お前は」


 勝手口の戸に背をあずけるようにして腕組みをすると、中岡さんはフンと小さく笑みをもらしながら私のほうに視線を向ける。


「どういうことですか……?」


「会ったばかりだと言うのに、やけにこちらを気にかけてくれると思ってな。普通なら、厄介ごとを抱えていそうな輩とは関わり合いになりたくないと思うはずだ」


「それは、中岡さんだからです! あ、もちろん田中さんや橋本さんも、同じように逃げていたら助けますよ!」


 胸を張って言う。

 写真を見つけた瞬間から、興味を持っていた……会いたいと思っていた。


「つまり、写真を見て俺たちを探していたからというわけか……? 実際はどんな人間かもよく分からんというのに」


「そうです。でも、写真の落とし主さんを探していたからというより、もっと単純に、会いたかったんです。写真の中の人に! 本当にいるんだって確認したかった!」


「好奇心旺盛なのは結構だが、危ない橋を渡っていることに気付いているか? そうやって迂闊に接触して、もしこの俺が、極悪人だったとしたらどうする――?」


 私の言葉に釘を刺すように中岡さんの重い声が静まり返った空間に響く。



「極悪人は、こんなふうに優しい顔で笑ったりしません。中岡さんは、きっといいひとです」


 懐から写真を取り出して、紙の中で微笑む中岡さんに柔らかく笑顔を返す。

 そうしてそのまま顔を上げて、目の前に立つ中岡さんへと視線を向けた。


 中岡さんは、目を丸くしてきょとんとした表情を浮かべている。


「……お前、何を言って……」


「この写真の顔、すっごくいい笑顔だと思います!」


「……はぁ、もういい。この話は止そう。お前が本当に変わった娘だということは分かった」


 中岡さんは、呆れたようにため息をつきながら、手のひらをこちらに突き出して無理矢理に私の言葉をさえぎった。


「笑顔だけじゃなくて、今日話した田中さんは気さくで明るい人でしたし、中岡さんだって話していて悪い人のようには見えないし……それで、やっぱり三人ともいい人なんだろうなって」


「……そうか。しかし、あまりそうやってよく知りもしない相手を信頼しない方がいい。そして一つ言っておくが、その写真を人に見せたり、俺たちとこうして接触したことを他言したりは出来る限りしないでほしい」


「はい。もちろん、人にペラペラ喋ったりはしません!」


 今夜の様子を見ても、なんだかわけありな感じだから、余計な詮索はしないでおこう。

 かすみさんにだけは写真のこと相談しちゃったけど、あれくらいならいいよね……。



「……危なっかしいところはあるが、お前は意外と信頼できそうだな」


「意外なんて言い方しないでくださいよ……! 私は中岡さんたちの味方ですからね! 何でも言ってください!」


 表情をくずして小さく笑う中岡さんを見て嬉しくなった私は、ぐっと両拳を握り、熱いまなざしで身を乗り出す。


「ついさっき話した、すべて他言無用の約束を守りきれるのであれば、頼みたいことがある」


「何ですか!? 誰にも話しませんから言ってください!」


「まず、紙と筆を用意してほしいんだが……」


「はいっ!!」




 ――あれからどのくらい経っただろう。

 中岡さんを部屋の中に案内して、書くものをそろえて、お湯を沸かして……今ちょうど熱いお茶を湯飲みに注いでいるところだ。


「お茶が入りました。よかったらお菓子もどうぞ」


 何やらせっせと文のようなものをしたためている中岡さんの背後から声をかける。


「ああ、ありがとう……よし、こんなものだろう」


 私がそばに腰をおろしたのとほとんど同時に、中岡さんは筆を置いて書き上がった文を読み返し始めた。


「書けました?」


「ああ。これを明日、ケンに渡してくれ」


 小さく幾重にも紙を折り畳むと、それを懐から取り出した御守りの中につめ込み、こちらに手渡す。

 御守りはよほど使い古されたもののようで、ところどころ色あせてほつれかけた布でおおわれており、紅く長い飾り紐のようなもので口を縛ってある。


「このお守りごと、ですか?」


「そうだ、持ち運びやすいだろう。なくさないように首からさげておけ」


「はい!」


 言われるままにお守りをそっと首にかける。

 身につけると何となく、気が引き締まる。ご利益ありそう……!



「あと何か田中さんたちに伝えておくことはありますか? 今夜のこと、一応私からも話しておきましょうか……?」


「いや、そのあたりのことも文に書いておいた。読めば分かるだろう」


 湯飲みを傾けてちびちびとお茶を流し込みながら、中岡さんは大福を手にとって一口頬張る。


「そうですかぁ。それじゃ、何か聞かれたら答えておきますね」


「ああ。そうしてくれ……うまいな、この大福は」


 何気なく二口、三口とかじりついて咀嚼したあと、中岡さんは残りあとひとくちほどになった大福をまじまじと見つめて感心したように声をあげる。


「いずみ屋自慢の大福です! 女将のかすみさんが作ったんですよ! おはぎもおいしいので、是非っ!」


 誉められたことが嬉しくて、あれこれと菓子を並べたお皿を中岡さんの膝元まで持っていく。


「……女将もここに住んでいるのか?」


「はい、今は二階に。早寝早起きだから、たぶんもう眠ってます」


「そうか……騒がせて申し訳なかったな。あまり長居をするのも良くない、そろそろここを出よう」


 中岡さんは、先ほど私が差し出したお皿を一瞥して申し訳なさそうに小さく笑うと、ぐいっとお茶を飲み干して立ち上がる。


「かすみさんは一旦眠ると朝まで起きませんから、大丈夫ですよ……! それにその、うしろめたいことは何もないし、堂々としててください」


「ああ、しかし今夜はもう遅い。また後日、客としてここに来よう」


 中岡さんはそう言うと、迷いなく帰り支度をはじめる。

 土間に向かって足を下ろし、手早く草履を履き――ついさっきまで座ってくつろいでいたというのに、こんなにもあっという間に戸口まで見送りに行くことになるなんて思いもよらず、私はあたふたとお土産用に菓子を包みながら中岡さんに声をかける。


「あのっ! お店、わけあってしばらく閉めることになってるので、一見留守に見えるかもしれないんですが、私やかすみさんは中にいるので、その……訪ねてきてくださった時は声をかけてくださいね」


 今にも戸を開けて外へ飛び出して行きそうな中岡さんの外套の袖をつかみ、早口でまくし立てる。


「そうか、店を閉めるのか」


「はい。本店のかぐら屋にしばらくお世話になる予定で。まだしばらく……数日のあいだはここに留まるつもりですが、もしいずみ屋にいなかったら、かぐら屋まで来てくだされば」


「かぐら屋……? あそこは確か、番付でも真っ先に名が挙がるような一流店だろう? 俺のような懐事情ではとても……」


 かぐら屋の名を聞いてわずかに息をのみ、手持ちの少なさを伝えるように、ポンポンと懐を叩きながら、中岡さんは肩をすくめる。


「かすみさんがかぐら屋の娘さんで……でも私は向こうでもただの居候ですし、そんなに身構えずに気軽に訪ねてきてくださって大丈夫ですから!」


 なにも値の張る料理をたらふく食べて行けと言っているわけではないと、しどろもどろに説明する。

 ただ、またいつでも会えるようにと行き先を告げておきたいだけだ。


「分かった。なるべくお前がいずみ屋にいるうちに……近々会いに来る。女将にもよろしく伝えておいてくれ」


 小さく口許を緩めて、中岡さんは微笑む。

 その柔らかく優しい表情は、写真の顔にそっくりだった。

 じわりと胸に込み上げるものを感じながら、私は包んだお菓子を中岡さんの手元にそっと差し出して頭を下げる。


「これ、さっきのお菓子です。よかったら召し上がってください」


「ああ、いろいろと世話になった。ありがとう……それでは、またな」


 ポンと私の頭に軽く掌を乗せると、中岡さんは木戸を開けて外の様子をうかがい、そのまま暗い路地へと飛び出して行った。



「お気をつけて……!」


 半身を外に乗り出して小声で別れを告げるその背中は、みるみる遠くなって闇の中へとまぎれて行く。


(無事に、お知り合いのもとへたどり着けますように)


 首からさげたお守りを、ぎゅっと強く握りしめる。

 吹き抜ける冷たい風に身を晒して、もうすっかり見えなくなった背中を、私はただただ祈るように見送った――。



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