第三話:写場
「ありがとうございました! また来てくださいねー!」
常連の商人さん二人をのれんの外まで見送り、軽く手を振る。
店内が慌ただしく賑わうお昼時も過ぎ、こうして順にお客さんもはけて行くので、商売としては一段落つく時間帯だ。
店の中に戻ると、数人のお客さんがまばらに席をとってくつろいでいる。
商人さんに近所の娘さん、そして浪士さん。
浪士さん方は、昨夜ツケを払いに来てくれたお兄さんを含む三人組だ。
ここ最近は二、三人で連れだって店の端を陣取り、ひそひそと会話しているのをたびたび目にする。
「みこちゃん、今日は釣りに行かないのか?」
空席に残った食器を片付けていると、浪士さんの一人が声をかけてきた。
視線を向けると、昨夜のツケのお兄さんがにこにこと笑っている。
「もう少しお店が落ち着いたら行きますよー! 夕方がいいって聞いたから、毎日暗くなる前までは粘ってるんですけど……」
「朝もいいらしいな。俺もたまに鴨川で釣ってるが、わりとよくかかるぞ」
相席している浪士さんも、音をたててお茶をすすりながら話題に食いついてくる。
「そっかぁ。もう何日か頑張って釣れなかったら、鴨川にも行ってみますね!」
「と言うか、毎日やってりゃ普通は一匹くらい釣れるもんだろう」
「うう、それは自分でも思うんですけど――」
がっくりと肩を落としてため息をつく私を見て、浪士さん方はにやにやと冷やかすように笑う。
よくよく見れば三人は、数日前と比べて、随分と綺麗な身なりをしている。
うちにたむろする浪士さんと言えば、食い詰めてぼろぼろの着物で呑みにくる人が多かったから、些細な変化でも目についてしまう。
「……しっかし、京菓子ってのは綺麗でいいねぇ。もう一皿追加でくれよ」
「あ、はいっ。これ、松風っていうお菓子です。おいしいですよね!」
「ふぅん……気に入ったから土産にもいくつか包んでもらうかな。今日はフトコロも潤ってるからちゃんと払うぜ」
一番長身で声が大きい浪士さんが得意げに口角を上げて懐を軽く叩くと、じゃらりと重たい音がその場に響いた。
言葉通り、好き放題使っても余りある貯えがあるようだ。
「かすみさぁん! こちらのお兄さん方に、松風を」
「はいはい。すぐに」
やわらかな笑顔で私が投げかけた注文を受けると、かすみさんはテキパキと準備をはじめる。
浪士さん達は、そんなやりとりをしばらく眺めながら、またぽつぽつと密談のようなものを再開した。
私は片付け終わった食器を桶の水につけながら、口をへの字に曲げて小さく首を傾げる。
(……不思議だな)
つい先日まで、この人達は間違いなくお金に困っていた。
それこそ毎日のように、申し訳なさそうに頭を下げ、手を合わせながらツケを重ねていたはずだ。
それが今は、折り目も綺麗な香りの良い着物をまとい、見慣れない立派な装飾の刀を傍に置いて上機嫌で談笑している。
――数日でこうも変われるものかな?
まるで、一晩で長者に成り上がった、おとぎ話のおじいさんみたいな話じゃないか。
……なんて、私がこんなことを考えても仕方がないのは事実なんだけど。
『収入があった』と昨夜本人から告げられたのだから、何かしらの働きをした上で得た大事なお金なんだろう。
いけないな、疑り深く人を詮索してしまっては。
そう自分を納得させて一息つくと、お盆を持ったかすみさんにポンと肩を叩かれた。
「美湖ちゃん、今日はもうお店落ち着いたから、出掛けてきてもいいよ」
「あ……うん!」
「写場に行ってみるのよね? 気をつけて行ってらっしゃいね」
かすみさんの言葉にうなずき返しながら、ぐるりと店内を見回す。
どのお客さんもくつろいで会話に夢中になっているようで、店の中の空気は停滞したようにゆったりと流れている。
もうあまり手伝えることはなさそうだ。
「じゃ、行ってくるね。写場に行ったあと釣りもしてくるから、帰りは昨日くらいになると思う!」
「うん。今日は釣れるといいね」
優しく見送りをしてくれるかすみさんの背後から、浪士さんや常連の娘さん方からの釣果を期待する声援が上がる。
それに応えるように、私は元気よく言葉を返した。
「今日こそ、大物釣って来ますねっ!」
大きく手を振って、まぶしい日差しが照り付ける路地へと跳ねるように足をふみ出す。
ふと軒先に視線を落とすと、折れた釣竿が転がっていた。
……先端は少し欠けたけど、使えなくはないかな。
今日のところはこれで頑張ってみようと楽観的に気合いを注入し、竿と釣り桶をつかむ。
今日も快晴。絶好の釣り日和だ!
「美湖ちゃん、今日も釣り行くん?」
まずは写場だ! と駆け出そうする私を背後からひき止める声が上がった。
「あ、谷口屋のおかみさん!」
お隣の蕎麦屋のおかみさんだ。
手際よく箒を動かしながら、こちらに笑みを向けてくれる。
「いずみ屋さんはお昼、大変やねぇ。お客さん次から次へと」
「谷口屋さんも、お昼どきすごく賑わってるじゃないですか! おいしいって評判だから!」
「うちはまぁ、ぼちぼちやね。美湖ちゃんまた食べにきてなぁ」
そう言って笑ってみせると、おかみさんは私の肩をつんと指先でつついた。
「はいっ! 近いうちにぜひ!」
「そうそう……最近はようこのへんを浪士どもがうろつきよるけど、いずみ屋さんは大丈夫?」
谷口屋さんは思い出したように手を叩くと、私のそばまで身を寄せて小声でささやく。
「えっと、たまに揉めごとはありますけど今のところ大丈夫です」
「甘うして居着かれたらたまらんからなぁ、ひどい客は遠慮せんと追い出したってええんよ」
持っていた箒を振って、掃き出すようなしぐさを見せる谷口屋さん。
一見いじわるな台詞だけど、おかみさんがお店を大切に思っているからこその発言だというのは理解している。
「そうですね。あんまりひどい人にはそうした方がいいのかも」
「浪士らは居心地ええと思たらすぐに居着くらしいからな、いずみ屋さんも気ぃつけて」
「はいっ、気をつけます!」
大きくうなずいて返事をすると、谷口屋さんは柔らかく表情をくずしてこちらに手をふった。
「ほな行ってらっしゃい。あらぁ、その竿折れてるけど……」
「大丈夫、なんとかしますっ! それじゃ、行ってきまぁす!」
竿を持った手を左右に振って別れを告げ、私はきびすを返して走り出した。
まぶしいお日さまが正面から照りつける。
向かいの宿屋さんが呼び込みをする声、棒手振りさんが野菜の入った天秤棒を担ぎながら威勢よく上げる決まりの口上――。
行き交う人々と賑やかな声であふれ返るこの見慣れた景色が、私は大好きだ。
「おっ、美湖ちゃん今日もおつかいか? 安うしとくで」
「今日は頼まれてないんですー! ごめんなさい!」
「釣り行くんか。堀から落っこちんようになぁ」
「はぁい!」
すれ違いざまに、こうしてご近所さんや商人さんと言葉を交わすのも、いつものこと。
皆せわしなく日々を過ごしながらも、人とのつながりを大切に生きている。
私も、一刻一刻を無駄にしないように動かなきゃ。
今日は忙しいんだ。
写場に行って、ほとがらに写る三人を探して、釣りをして――!
考えているうちに、なんだか無性にわくわくした気持ちが胸のうちを満たしていく。
私は思いきり頬をゆるませて、懐に入ったほとがらに手をそえた。
釣り道具をたずさえて鼻唄まじりの私は、通い慣れた高瀬川沿いの道筋をはずれ、寺町通りの写場の前まで来ていた。
――道すがら、場所をたずねること三回。
『写場』と告げるだけでどの人もすんなりと目的地を理解し、丁寧に道案内をしてくれた。
私が知らなかっただけで、どうやらこの界隈では有名なお店のようだ。
目の前の建物を見上げて、おおーっと小さく感嘆。
しっかりとした造りの二階建てで、光を反射するキラキラとした屋根が目を引く。
看板には堂々と立派な文字で何やら書いてある……難しい字で、読めないのが残念だ。
……よし、中に入ってみよう。
「おっ! おーーっ! いらっしゃいっ!!」
店内へと一歩ふみ込んだ瞬間――あまりにも甲高く響きわたる歓迎の声に、私はびくりと肩を震わせた。
「あ、あの……こんにちは」
出迎えてくれた店の人に、小さく頭を下げる。
派手な着物を着くずして一見だらしない風体の男の人。
ひょろりと細身の背格好で荒く髪を逆立て、腕まくりをして露出させた肌には小さいながらも凝った模様の彫り物が見える。
カブキ者のような雰囲気だ。
なんとなく話しかけづらいけれど、よく見るとまだ若い。
見るかぎり店にはこの人しかいないようだ。
「いやぁ、久しぶりだよ女子のお客さんは! いいねぇいいねぇ……釣りをする少女! 絵になるねぇ!」
店の人は観察するように私を見回しながら、周囲をぐるぐると歩き回る。
「おっ、よく見たら釣り竿壊れてるじゃないよぉ! ダメダメこれじゃ。よし、こっちに持ちかえて……おおぅ! いいねぇーー!!」
壊れた釣り竿が汚れ一つない立派な竿と交換されたかと思うと、それを持ってぽかんと立ちつくす私を見て両手を大きく叩きうんうんとうなずく店の人。
……いけない、この人はもうすでに商売に入っている。
「あのですね、今日はちょっとお話を聞きに来ただけなんです……すみません」
「ふぁぁん!?」
私の言葉に、ご機嫌だったお兄さんは変な声をあげながら露骨に顔をしかめる。
「今はちょっと手持ちがなくて……私もほとがら欲しいんですけど」
「そっかぁ……残念だなぁ。いい画がとれると思うんだけどねぇ、キミ可愛いし。んで、いくら持ってんの? ちょっとならまけとくよ」
一旦がくりと肩を落としながらも、なお営業の姿勢をくずさず媚びた視線を送ってくるお兄さんに、壊滅寸前の財政にあえぐ我が銭入れの中をご覧いただくことにする。
「全財産はこんな感じです」
「……おおう」
お兄さんは銭入れをのぞき込むなり、目潰しをくらったようにてのひらで両目を覆い、体をのけ反らせて嘆く。
いちいち面白い反応をする人だなぁ。
「ちなみに、一枚おいくらくらいするのか聞いてもいいですか?」
店内に値段を示すお品書きのようなものがないかときょろきょろ見回してみるけれど、それは見当たらない。
物が多くごちゃごちゃしているようで、備品のすべてが綺麗に端に揃えて置かれていて、この部屋の見栄えはすごく良い。
新品の釣り竿がどこからともなくポンと用意される場所だ。
おそらくもっといろんな小道具も揃えてあるんだろう。
「一人写しで一分ちょいくらいは貰ってるねぇ。二人写しは倍、三人写しは三倍ってな具合さ。個人的に、女の子はもっと安く撮ってあげたいんだけどさー」
「一分! そのくらいなら私にも用意できるかもしれません……! コツコツ貯めて、いつか撮りに来ます!」
手持ちでは到底足りないけれど、思っていたほど高くはない。
これくらいの値段なら、試しに一枚撮ってもらおうと考える人も少なくないはずだ。
「もうちょい待ってくれたら、どんどん値下げできると思うんだけどねぇ……器械とか良いのが出てきてるからさ!」
「へぇ~! そういえば、ほとがらを撮る道具ってどんなのなんですか? 箱みたいになってるって聞いたんですけど……」
「そーそー、箱だよ! 箱の中に光を取り入れて、覗いた先にあるものを写し取れるようになってんのさ」
「すごいですっ! どれがその箱ですか!? 見せてもらってもいいですかっ!?」
興奮して周囲を見回す私を、お兄さんは苦笑しながらゆるく制止する。
「いやぁ、器材は二階でね……仕事以外では人を入れない事になってるから、ホイホイ見せたりはできないねぇ。ごめんよ」
「そうですか……商売道具ですもんね、無理言っちゃってすみません」
「いや、興味持ってもらえる事自体は嬉しいのよ。話だけならいくらでも聞いとくれ!」
かすかな沈黙により二人の間で気まずく停滞しそうになった空気を、お兄さんは自然な笑顔でさらりと流してくれる。
いかつい外見に反して、すごくいい人だ。
「もう一つ聞きたいことがあったんです。えっと、このほとがらに見覚えありませんか……?」
お兄さんの商売っ気がいくらか抜けて雑談できそうな余裕を感じとった私は、昨日拾ったほとがらを懐から取りだして、彼に見せる。
「どれどれ……? おおっ、こいつは!」
のぞき込むなり、お兄さんは目を見開いて声を上げる。
――この反応は、間違いなく事情を知っている!
「ご存知ですか!? もしかして、ここで撮られたものでしょうか?」
「そうだよ! 確かにうちで撮った。よーく覚えてるよ、面白い三人組だったからねぇ……しかもつい最近のことさ。ほんの三、四日前」
「ええっ!? そんなに最近のものなんですか!?」
返答を受けて、目を丸くしながら思わずほとがらを二度見する。
三、四日前ということは、撮ってすぐに落としたことになる。
「そーなんだけど、何でキミがこれを? もしかして三人の関係者? そうは見えないけどねぇ……」
お兄さんは、腕を組んで少し難しい顔をしながら私の顔をしげしげと見つめる。
「いえ、昨日拾ったんです。落とした人は困ってるだろうなぁと思って手がかりを探しているんですが……三人はどこに住んでるか分かりますか?」
「拾いものかぁ……うーん、お客さんの情報は些細なことでも漏らせないからねぇ」
「そう……ですか。でも、ここで撮ったものだと分かっただけでも収穫です、ありがとうございます!」
最近ここで撮ったということは、まだ近くにいるはずだ。
探していれば近いうちに会えるような気がしてくる。
「ああ、そうだ。もし本人達がまた訪ねて来たらキミが写真を持ってるって伝えとくからさぁ、どこの子か教えてもらえる?」
「あ、はいっ! 木屋町にあるいずみ屋の、天野美湖(あまのみこ)ですっ!」
「ほほう、いずみ屋さんかぁ、聞いたことあるな。まぁ、何か手がかりがつかめたらこっちから出向くよ。早く本人に返せたらいいねぇ」
親切な対応に、私は深々と頭を下げてお礼を言う。
ほとがらの話もいろいろと聞けたし、来てみて本当に良かった!
「また来ます! ありがとうございました!」
店を出てすぐのところまで見送りに出てきてくれた写場のお兄さんに、笑顔で頭を下げる。
あのあとお茶をご馳走になり、更に折れた竿を新品の竿に交換してもらったりと、身にあまるおもてなしを受けた。
お兄さんいわく『女の子には特別待遇』なのだそうだ。
「またいつでも遊びに来なよ。最近ちょいと暇だったりするし、話だけでも大歓迎さ」
「はい! またお話聞かせてください!……あ、そういえば」
「ん? 何だい?」
私は顔を上げて視界に広く建物をおさめ、一点を指差す。
その先にあるのは、堂々とした筆づかいで屋号らしき文字が入った看板だ。
「あれって、何て書いてあるのかなぁって」
「ああ、これ。『西洋伝方写真処』さ。異国から伝わった写真のお店ですよって意味ね」
誇らしげに看板をさすりながら、お兄さんは気取った口調で口角を上げる。
「わぁ、素敵ですっ! ちなみにシャシンって何ですか?」
つい先ほど、店内で会話していた時にも一度出てきた言葉だ。
「写真は、ほとがらのことさ。ほとがらってのは元は異国の言葉でね。ほとぐらふとか言うんだけど……それをこの国の言葉に直して、写真って呼んでるわけ」
ほとぐらふ、か。
なるほど……それでかすみさんは、ほとからひーとか言ってたんだ。
異国の言葉はなじみがないから、どうしても正確に覚えにくい。
「へぇ……それじゃ、看板にならって私もこれからは写真って呼びますね!」
「うんうん、そうしてよ。美湖ちゃんの写真を撮れる日をお兄さん楽しみにしてるよ!」
「必ず撮りに来ますね! あと、釣竿もありがとうございました……! 本当に助かりますっ!」
「店の奥の方でホコリかぶってたやつだからねぇ、使ってもらえた方がいいよ。これから釣るんだろ? 頑張ってな!」
「はいっ! 頑張ります! 落とし主さんに写真をお返しできたらまたご報告に来ますね!」
お兄さんに別れを告げ、元来た道を跳ねるように駆けて行く。
いつの間にか鼻唄混じりでご機嫌だ。
写場は思ったよりも近い位置にあるし、通おうと思えば毎日でも通えそうだ。
それに、拾った写真の情報もいくつか得た。
撮った場所、落とした場所を考えると、橋本さん達がこの近くに住んでいる可能性は高い。
普通に生活しているだけでも、いつか道の上ですれ違う事があるかもしれない。
しばらく川沿いを歩いて見慣れた柳の下にたどり着くと、私は釣り道具を傍らに置いてそっと石造りの堀のふちに腰を下ろした。
「さぁ、今日は釣るぞー!」
いつもの場所、いつもの餌。いつも通りの手順で釣り糸を垂らす。
――ただ一つ、いつもと違うのは竿だ。
何か一つ変えるだけで、なんとなく今日はいけるんじゃないかと気分が上向きになってくるから不思議だ。
のどかな空気にちゅんちゅんとさえずる鳥の声。
目の前を行き過ぎる舟をぼうっと見送りながら、邪魔にならないよう釣り糸をたぐり寄せる。
「釣れるかのう?」
あくびをしようと気の抜けた顔で口をあけた私の背後で、声が上がる。
振り返ると、そこには見慣れた顔がひとつ。
「あ! 酢屋のおにいさんっ!」
高瀬川沿い、私がいつも釣りをする場所からすぐ向かいに店を構える酢屋に宿を借りているらしいお兄さんだ。
背が高くお洒落な人で、会うたびに変わった仕立ての着物や履き物を身につけている。
クセのある髪の毛がピンピンと寝癖のようにはねているのも特徴だ。
よく酢屋の二階の窓際から顔を出して川を眺めているので、自然と顔見知りになり、こうしてたまに話すようになった。
「昨日は惜しかったのう! 竿ごと流されてしもうて……はっはっはっ」
「わ……! 見てたんですかっ!? 恥ずかしいなぁ」
派手にすっ転んだ昨日の自分を思い出し、赤面する。
「二階からやとよう見えるき、嬢ちゃんが毎日めげずに頑張りゆうがは知っちゅうよ。そろそろ一匹釣りたいとこじゃのう」
「はい。そうは思ってるんですけど、釣れなくて……何がいけないんでしょうか?」
「ふぅむ……」
右手を顎の下に添え、考えこむようなしぐさでお兄さんは屈み込む。
目線は、餌入れの中だ。
「餌が良くないですか? 昨日とったみみずです」
「……ほやのう。よしっ!」
お兄さんはポンと膝を叩いて威勢よく立ち上がり、そのまま履き物を脱ぎ捨てると、静かに川面へと着地する。
――ぱしゃりと涼やかな音を響かせながら、高く水しぶきが上がる。
そしてそのまま袴の裾をまくり上げ、ざぶざぶと躊躇なく水面を蹴りながら、目についた岩を持ち上げては底の砂を掘り返していく。
「――ほい、こいつで釣るがよ。竿を貸してみ」
活きがよく、まだうねうねと身をよじって動いているみみずを数匹餌入れの傍らに置いて、お兄さんは笑顔で右手を差し出した。
「はいっ! どうぞ!」
言われるがまま、私は竿を手渡す。
お兄さんはてきぱきと慣れた手つきで餌を付け替えると、川に足を浸したまま、大きめの岩沿いにそっと糸を垂らす。
……釣れるかな?
こちらに背を向ける形で竿を握っているお兄さんの表情はよく見えないけれど、たまに退屈そうに腰に手をあてて背を伸ばしたり、あくびをしたりしている。
今日は暖かくて眠くなる陽気だからなぁ……と、微笑ましく頬がゆるむ。
あたりにはのどかな鳥のさえずりや、きゃっきゃと走り回る子供たちの甲高い笑い声が響き、私も自然と心地よくまぶたが重くなってくる。
――ばしゃっ
ふいに上がった水音が、ゆるゆるとしたまどろみを散らし、私の意識を覚醒させる。
あわてて顔を上げると、釣り糸の先に食いついた獲物を誇らしげにこちらへと掲げるお兄さんの笑顔が視界に飛び込んできた。
「いっちょあがりぃ!」
それはもう立派な、よく身のしまった川魚が、ぴちぴちと水滴を飛ばしながらお兄さんの手の中でもがいている。
「わっ……わぁっ! すごいですっ!! 釣れたぁっ!!」
今まで一度も釣り上げたことがない私にとっては、待ちに待った瞬間だ。
お兄さんの奮闘を讃えて、ぱちぱちと拍手を送る。
桶に川の水を満たし、釣り上げた魚をその中へ放ると、お兄さんはよっこらせのかけ声とともに堀の上へと上がってくる。
「ちなみに、次に釣るんやったらあっちの岩陰あたりがえいはずじゃ。あとは、このあたりの草の陰と――この石の下には、もしかしたら鰻がおるかもしれん」
さらさらと穏やかに音を立てる川の流れに目を細め、あちこちを指差しながらおすすめの場所を丁寧に教えてくれるお兄さん。
ざっと見回しただけでそんなことまで分かっちゃうんだ。
「すごいです、お兄さん! さては達人ですね……!?」
「ふっふっふ……見ての通りの実力やき。海でも川でもどんとこいなこの達人に何でも聞いとおせ!」
「おおーーっ!」
おみそれしましたー! と、仰々しく芝居のノリに乗っかると、お兄さんは愉快そうに笑ってお腹を抱える。
「いやいや、まぁアレじゃ。釣りも慣れやき、続けよったらよう釣れる場所も時刻も分かってくるはずぜよ」
「なるほど……私なんてまだまだ経験不足のひよっこですね。めげずにこれからも頑張ってみますっ! ようし! 釣るぞーー!!」
目の前で釣果が上がるところを見て、いくらか勇気づけられた。
同じ道具、同じ場所で私だけ釣れないはずはない!
「その意気じゃ! またちょくちょく達人が様子ばぁ見に来るき、頑張りや!」
「はいっ! またいろいろ教えてください、達人!」
そう言って二人で笑い合うと、脱ぎ捨ててあった履き物を履いてお兄さんは立ち上がった。
「さぁて、そろそろ行かにゃ。ほいたら嬢ちゃん、また会おう!」
去り際に私の肩をポンと叩き、お兄さんは人の波を縫うようにして足早に路地へと消えて行った。
――気さくで、明るくて、なんだかお陽さまみたいにぽかぽかした人だなぁ。
普段何をしている人なのかは知らないけれど、こうしてたまに話すと、いつも去り際には『人と会う』と言いながら風のように消えていく。
いくらか交流はあるけれど、実のところは謎だらけだ。
だけど、こうして毎日何かしら言葉をかけてくれるお兄さんとの会話が、楽しみだったりもする。
きっと、また明日にでも会えるだろう。
その時にいい報告ができるように、陽が落ちるまでに自分の力で一匹でも釣り上げられたらいいな――。
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