気がつけば専属トレーナー その3

「ああ、くたびれた……」


 日が沈み、久々の運動にへとへとになったコウジはベッドに突っ伏した。与えられたのはベッド、机、箪笥と一通りそろった個室。昼間通された客間だった。


 マレビトは手厚くもてなすよう家訓にでも伝わっているのだろうか、他の若い使用人がひとつの部屋を複数人で使っているのが通常だとすれば破格の扱いだ。


 そして這うようにベッドを移動すると、机の上に置かれた小さな蝋燭の炎を頼りに、鞄からメモ帳を取り出す。


 昼間マトカから聞いたこの世界について、ちゃんと復習しないと。


 まずここはクベル大陸。五つの国から成り、ここ100年は大きな戦争も起きていない平和な大陸だ。


 そしてここが元の世界と大きく違う点だが、この世界にはいくつもの種族が共存し、ともに暮らして繁栄している。


 例えばこの領地を治めるコッホ伯爵はコウジと同じ人間だが、領民にはマトカのように角の生えた鬼族オーガや獣人もいる。貴族にも人間とは異なる者も多いようだ。


 そして彼らは種族ごとに得手不得手があり、適材適所に労働を分担して社会に参画しているという。


 人間はこの世界で最も多数派で、支配階級にも多い種族。手先が器用で知性に長けた人間は、官吏や学者として活躍する者が多いらしい。


 マトカたち鬼族は赤髪と頭の角が特徴的な種族で、人間の次に多数派の種族だ。人間よりも筋肉質で腕力に優れる者が多く、大工や兵士といった身体を使う仕事には重宝され、農民としても非常に有能な種族のようだ。平均寿命も人間より長く、100歳まで生きるのも珍しくないという。


 他にも巨人族トロール小人族ゴブリン、獣人、そして魔法を使える魔族と様々な種族が存在するようだ。それぞれの特徴をちゃんと覚えないとな。


 そんな風にメモを読み返していると、コンコンとドアがノックされる。


「お召し物をお持ちしました」


 女の子の声だ。慌ててコウジはとび起き、ベッドに腰かけた。


「お邪魔しまーす!」


 元気な挨拶。入ってきたのはメイドの女の子だった。歳は12歳くらいだろうか、まだまだあどけない顔つきで未発達の体型、それを彩るエプロンドレス。茶髪にくりっとした丸い目がずいぶんと可愛らしい、将来が楽しみな女の子だ。


 そして最も目についたのが頭に生えるネコの耳。カチューシャを被ったような位置にネコ耳が付いており、ことあるごとにぴくぴくと揺れている。俗に言うネコ耳メイドだ。


「本日よりコウジ様の身の回りのお世話を勤めさせていただきます、ナコマです」


 こんな娘をあてがうなんて、バレンティナ様は良いセンスをしている。だが欲を言えばもう少し年上の娘なら完璧だったのになあ。


 そんなメイドのナコマが手に持っていたのは夕食用の衣服だった。


「汗をかかれたでしょう、どうぞこちらにお着替えください」


 そんないちいち用途ごとに着替えるなんて、貴族の生活も楽じゃないな、なんて呑気に思っている場合ではなかった。


 ナコマは足音も立てず後ろに回り込むと、コウジの服を無理矢理脱がそうとジャケットをぐいぐい引っ張ってきたのだ。


「や、やめなって。自分で着替えるから」


 なんだか恥ずかしいので余計に身構えてしまうコウジだが、メイドは遠慮しない。


「いいえ、コウジ様は大切な客人です。お客様の手を煩わせるわけにはいけません」


 あれよあれよと言う間にコウジはジャケットを奪われ、シャツも剥ぎ取られ、ついにズボンまでつかまれる。


「わかった、わかったからせめてズボンくらい自分で脱がせろってば!」


 コウジが必死でベルトを押さえて持ち上げるが、ナコマも負けじと歯を食いしばってズボンを下ろそうとする。


「いいえ、これがメイドのお勤めですから。どうぞお気になさらず」


 気にしないわけがないだろ!


 客間にて繰り広げられる命がけの攻防。ついにコウジの手が緩んだ隙をついて、ナコマが一気に力を込めてずり下ろす。


 ついにコウジは陥落した。ズボンと、その下も巻き込んで。




「うう、一生の恥だ……」


 真っ赤を通りすぎて顔を紫色にしながら、コウジは今にも泣き出しそうな顔で廊下を歩いていた。まさか異世界に来た初日に、幼い少女に自分のあられもない姿を見せつけることになるとは。


 夕食用の焦げ茶色のジャケットを羽織り、襟にはエメラルドのジュエリーも飾られている。


「何をおっしゃるのです、我々使用人は皆様の手足です。ご自分の手足に恥じる方がいますか?」


 一方のナコマは平然としていた。コウジの数歩前を歩いて食堂へと案内する。


「ここでは普通のことなの?」


「もちろんです。皆様の衣服をお選びし、飾るのは使用人にとってこの上無い名誉なのです」


 そして誇らしげに胸を張る。


 晩餐に招かれたコウジはその荘厳さに息を呑んだ。


 寸分の狂いもなく定位置にきっちり並べられた食器に盛られた料理の数々は、昔家族でフランス料理を食べに行った時よりも質、量ともに優っていた。


 ローストビーフと七面鳥は色とりどりの野菜に飾られその存在感を主張し、銀のボウルの蓋を外すと濃厚なクリームスープが湯気を立てている。


「よくぞおいでになられました」


 既に席に着いているバレンティナの隣では、ボーイが食前酒のシャンパンをグラスに注いでいた。


 こんな生活も悪くはないな。コウジはこの時ばかりはこの世界に来たことを喜んだ。




「ところでコウジ殿」


 コウジが2杯目のスープを受け取ったとき、不意にバレンティナが呼び掛けた。


「あなたの元いた世界はどのような場所なのですか?」


「私も興味あります、是非お聞かせください」


 ローストビーフを頬張っていたアレクサンドルも便乗する。


「どのようなと言われましても……私のいた日本という国では人は皆電気を使い、町には自動車や電車が走っていたりと、ここよりも便利な物がたくさんありましたよ」


「デンキ? ジドウシャ? デンシャ?」


 コウジ以外全員の頭に大きなクエスチョンマークが浮かぶ。この世界に無い物をどう説明しようか。


「ええ、目には見えないエネルギーなのですが、私たちは発電機という機械から電気を作り出して利用しています。その力を使えば物を動かしたり光や音を出したりと、大変便利なのです」


「蒸気機関みたいなものですか?」


 アレクサンドルが口をはさんだ。大都市では機関車が走る程度には、この世界の科学力も発達している。


「近いですが……蒸気機関は動力を得るために多大な燃料が必要になります。電機は熱だけでなく、風や水の流れからでも生み出すことができ、さらに電気を通すための導線があれば遠くまで伝えることも可能です」


「そんな便利な物があるのですか、羨ましい。その電気というものは作ることはできませんか?」


 バレンティナとアレクサンドルの姉弟はじっとコウジに熱望の視線を送る。


「生憎ですが……電気を扱うには非常に専門的な知識や技能が必要で、私のようなただの一般人が作り出すことはできません」


 いたたまれない気分だった。こんなおもてなしをされているのに、期待を裏切るようで。


「そうですか、残念だなあ」


 アレクサンドルも苦笑いする。そして思い出したように尋ねた。


「そういえばコウジ殿、サッカーは一番人気のあるスポーツだとお聞きしましたが、どれほどの人気なのですか?」


「ええ、私がいた世界は人口がおよそ70億人と言われています。その中で日常的にサッカーをする人は2億5000万人、試合を見るだけの人ならもっといます」


「お、億!? そんなにたくさん?」


 姉弟はそろって目を丸くした。赤ワインを注いでいた使用人もその数字に驚いてグラスからこぼしてしまい、慌てて布巾で掃除する。


「はい、世界中の国に大抵サッカーのプロチームがあって、その中から強い選手たちが選ばれて国の代表チームを作ります。そして世界中の予選を勝ち抜いた強豪国が集まって、世界一を決める大会もあります。会場には10万人近くが押し掛けて、自国の代表を応援するのですよ」


 ここでコウジははっと気付く。また話しすぎちゃった。好きなことになるとどこまでも話し続ける、オタクの悪い癖だ。


 だがアレクサンドルもバレンティナも、完全にコウジの話に聞き入っていた。


 そういえばこの領地内では村対抗の競技会も開かれていたなと、村の子供の会話がコウジの頭をよぎる。主催は伯爵家なのだから、元々この家系はスポーツ好きなのかもしれない。

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