6-3
「私、やっぱり菟田野を探してくる」
演奏が始まった途端、フェイが小声で宣言した。
「ええ?」と、言ったのはナユタと私だ。
「何も今すぐ出なくてもいいんじゃない? お仕事みたいだし」
フェイの腕を引こうとしたが、それを逃れて、フェイは席を離れて廊下になった。周りの視線がちらちら募る。
「ううん、心配だから探してくるの。迷子になっちゃうかもしれないし」
にっこりと笑いながらそう言うと、ナユタの耳元に顔を寄せた。
何かを話している。コンサートのステージからの明かりの中で、ナユタがめを見開いてフェイを見つめていた。
こうしてみると、本当に小さな子どものようだ。年の離れた妹か、あるいは、娘。彼女たちの成長過程は私も知っている。だから、そんな感慨も抱けた。
フェイが行ってしまうと、ナユタと目が合った。
「寄ってもいいですか?」
ぎこちなく問いかけられて、私は大きく頷いた。
「もちろん」
四人分の席の、真ん中の二つに集まり、両隣がぽっかり開いてしまう。周りからひと席分ずつ離れた。
聞こえてくるのは、管弦楽の織り合わさった音楽。
「オーケストラって言うんですよね」
ナユタが演奏を聴きながら小声で訊いてきた。
「そう。聴くのは初めて?」
「人間の手で演奏されているのを聴くのは初めてです」
ナユタは興味津々そうに前を向いている。本当に、喜んでくれている。それがわかって、私も嬉しかった。
静かな弦楽で始まった音楽は、次第に他の楽器のメロディと組み合わさった。今は最初の高まり。フルートやクラリネットのすばしっこい重奏の奥で、ホルンが大きく波打っている。まだまだ演奏は始まったばかり。指揮者も舵をとる船員のように身体を大きく揺らせていた。
「音楽、好きになれそう?」
私が訊くと、ナユタが私を振り向いてくれた。
整った顔立ちをした子だ。改めてそう思う。銀の髪色は人間には珍しい色味を持っている。そうなるように、菟田野が少しだけ手を加えたらしい。
「好きだと思います」
ナユタは口元に笑みを浮かべて、もう一度コンサートに顔を戻した。瞳がきらきら輝いている。
「聴いていると、心が落ち着くんです。記録媒体の音楽もいいですが、こうして空気の揺れている様を体感できるのは、もっといいですね。気持ちいいんです」
「良かった」
呟く私の喉の奥で言葉が詰まった。
それ以上のことを言いたくても、うまく形にならなかった。
演奏の高まりが小休止に入る。木管楽器がひとまず休んで、ウッドベースとスネアドラムが静かにリズムを刻んでいる。指揮者の動きは一際静かになった。
フルート奏者の持ち替えたピッコロが、一陣の音となってホールを高く貫いた。第二の波が始まりつつある。
「私の名前がまだ日下部だった頃、一人の音楽好きな女の子と出会ったのよ」
コンサートの邪魔にならない程度の音量で、私は話を始めた。
「当時はまだ、この国の西側が戦火に包まれていて、たくさんの戦災孤児たちが周辺地域に溢れていたの。大学生だった私はボランティアに参加して子どもたちの支援を手伝った。朝から晩までかかりっきりで、必死になって人の役に立とうと躍起になっていた。現地の人たちとも仲良くなって、大けがをした被災者たちを介抱してあげて、時には亡くなるその瞬間にも立ち会った。見送ってあげるだけでも救われる人たちが大勢いたのよ。今じゃほとんど、考えられないことだけど」
ナユタの顔は私を向いていた。
興味を抱いてくれている。それがとても心強くて、私に、話をする勇気を与えてくれた。
「ある日、一人の被災者が私のいたキャンプに運ばれてきた。ほとんど瀕死の状態で、意識だけはある状態だった。焼けただれた皮膚を包帯で巻いてあげて、言葉を聞いてあげた。最後の最後まで言い切るのをじっと。
そこへ一人女の子がやってきた。怪我人として運ばれてきたんだけど、じっとしていなくて、どういうわけか私の方に近づいてきて、包帯を巻かれた人の前にして座ったの。包帯の人はその子に手を伸ばして、口を開いた。『エリ』って。きっとそれは、その子の名前だったんだと思う。そのまま、包帯の女性は亡くなったわ。
その女の子はまだまだ小さい、五歳くらいの女の子だった。身寄りがいなくて、最後には施設に運ばれていったんだけど、行ってしまうそのときまで私がそばにいてあげたのよ」
目を閉じれば、当時のことが思い浮かんだ。
キャンプ場で私を見つめている不安げな瞳。灰色に汚れた肌の奥で、その子の口が私の名前を呼んでいた。言葉を喋るのもままならなかったのに、私の名前だけは何回も読んでくれた。
「私があげたハーモニカをその子が気に入ってくれて、頼めばいつでも演奏してくれた。結局施設に入ってからも、その楽器を持って行ってくれていたみたい。少しあとになって、その施設を私が訪ねたときも、その傍らにはハーモニカがあったから。成長したあの子には少し小さすぎたけどね。
私はその子と友達になった。研究職に勤める傍ら、会えるときは会って、そうでないときは電子メールでやりとりした。あの戦地で出会ったのも何かの縁。施設を出られるときまでは一緒にいてあげようと思っていたのよ。
だけどそのうち、戦場で散布された生物兵器が、遅効性の毒を帯びていると話題になった。吸い込んだ量が一定値を超えていればほぼ確実に死んでしまうって、当時は大騒ぎになったのよ」
私の病気は、ようやく収まりつつあった。
より戦地の深いところで毒を吸っていたエリには助かる見込みも立たなかった。
「エリは病院に移された。私は何度も通い詰めた。行くたびにあの子は痛みを訴えていたわ。肺気腫でぼろぼろになって、呼吸もままならなくなって。ハーモニカも演奏できなくなった。私は彼女のそばで吹いてあげると、とても喜んでくれた。でも次第に静かになった。喜ぶことにすら疲れちゃったみたいに」
なんとかしたかった。
私の言葉は、語りを離れて譫言のように浮いた。
演奏が盛り上がりを見せている。乗り出してきたトランペットが高鳴り、アルトサックスのメロディとぶつかりあっている。指揮者の指先が勢いよく奏者を差し、音が弾けて、ホールを染めた。
「菟田野はね、学生の頃から、研究者の間で有名人だった。ものすごく、何でもできる人。他の研究者が近寄れないくらい頭の回転が速くて、どんなに怖い人相手とも物怖じせずに接していた。実績もあったし、表には出せないような秘密の研究や取引にも手を出していた。詳しくは教えてくれないけれど、汚い仕事も随分あったらしいわ。今は、足を洗ってくれたみたいだけど」
ナユタの顔が引きつった気がしたので、私が最後に一言添えた。引きつった顔は戻らなかった。
一息ついた。その途端、シンバルの音が高鳴った。一曲目が終わろうとしている。
「菟田野にお願いしたのは、保存。私はエリがこのまま何もできずに死んでしまうのに耐えられなかったの。菟田野は私の話を聞くと、頷いてくれた。それから数日後に、エリは死んだ。無縁仏としてひっそりと埋葬された、と表向きにはなっているけれど、実は菟田野がその遺体を引き取った。
菟田野の手口は鮮やかだったわ。エリの頭脳と肉体を選り分けて、必要な箇所は人工の細胞を移植した。脳細胞だけはどうしようもなくて、菟田野の開発した新しい人工知能を移植した。身体組織の培養技術そのものは昨今珍しくないけれど、一度亡くなった人間の身体を再生させるなんて、私は見たことも聞いたこともなかったわ。そんなことが平然とできるのは、神様か、もしくは悪魔くらいなものよ。
だけど私は菟田野に賭けた。どんな報いでも受けるつもりで、あの男に頭を下げたの。そして、菟田野はやり遂げたわ」
その景色を、私も今でも思い出せる。
透明の大きな筒の中に、緑色の溶液が満ちていて、その中にエリの身体が浮いていた。薄暗い部屋の中で、菟田野が先を歩いてその前に立った。
「ナユタ」
菟田野が呟いた。
名前を決めたのは、私だ。なるべく末永くその命が続くように、と願いを込めた。
薄目を開いたナユタの顔には、何もなかった。感情の芽生えはなく、表情もなく、ただぼんやりと溶液の海を漂っていた。
「それがあなたの最初の目覚めだったのよ」
私を見つめるナユタの瞳が、微かに揺れた気がした。
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