4-2
「帰ってきたよ」
病室に入って早々に、菟田野靖が私に言ってきた。誰のこと、と口で問おうとする前に答えが頭に浮かび上がり、私の口から「あの子?」と形になって出た。「そう、ナユタ」と靖が続けた。
「研究所に留守番してもらっている。フェイも一緒だから、心配はないよ」
靖は喋りながらスツールに腰掛け、テーブル脇のテーブルに紙袋を置いた。私のためにもってきてくれた着替えの裾が袋の上から少し見えている。
「これが最後の着替えだと思う。検査が終われば外に出られるって担当医には言われたよ」
「私は聞いてない」と、咄嗟に言ってしまった。口を押さえたときにはもう遅く、靖の口には嫌な弧が描がかれていた。
「僕が問い詰めたら簡単に教えてくれたよ。君が意欲さえ見せればもう外出可能だって」
「気づいていたの」
「いや、勘。せっかくナユタが戻ってきたんだから、こんな真っ白だらけの病院じゃなく、青空の下で会えたら良いなと思ってね」
そう言いながら、靖は手提げ袋を漁り、小切りにされた林檎を詰めたガラス瓶を取り出した。
「これも彼女が作った。そう、料理をするようになっていたよ。綺麗に切ってくれた」
靖は言い終わると同時に、楊枝でひとつ林檎を刺して自分の口に運んでいった。「食べる?」と尋ねられたが、私は首を横に振った。
「まだ怖い?」
返事はすぐにはできなかった。黙り込んだ私を前に、靖が林檎を次々と頬張っていく。深く問いただしてこないところが靖のいいところでもあり、嫌なところでもある。彼の口に運ばれていく林檎を見つめている間に、私の思考は結論を下すことを放棄していた。
「病院を出るかどうか、結局は君次第だ」
靖は林檎の数切れが残った瓶をまた自分の手提げ袋の中にしまい込んだ。
「お医者さん方に追い払われるってこともありうるけどね。そうなったら嫌でもナユタに会ってもらう。決めてから会うか、そうじゃないか。どっちがいいかはわかってくれるでしょ」
靖の視線が私を初めて突き刺してきた。
「努力はする」と頷いて、それに続けて訊いてみた。
「ねえ、これだけは教えて。あの子、私のこと覚えている?」
「覚えていたら、戻っては来ないと思うよ。僕とも会わなかったかも」
微笑みながら靖は答えた。
私の口を今度は安堵の溜息が流れていく。温かかったそれは、微かに震えを帯びていた。
実際怖がっていたことが、私自身にもようやくわかった。
「また検査の前にここに寄るよ」
靖は立ち上がった。敷かれたカーテンが彼の肩に当たって揺れた。
「それまでに、答えを決めておくこと。これは君への宿題だよ。ハンナ」
じゃあ、と手を振って、靖はさっていった。扉の向こうにその影が消えて、また私は溜息をついた。
病室には私以外の人はいない。昼下がりの眠くなる時間帯。私独りだけが、胸の鼓動のせいで上手く横になれないでいる。
「戻ってきたのね」
帰ってくることは知っていた。靖自身、短期間の実験と称して彼女を知人の下に送ると言っていた。その言葉の裏側に、私への配慮があることも十分にわかっていた。
それなのに怖がるなんて、情けない。
自分に叱咤しながらも、シーツを握る掌はなかなか広がってくれなかった。
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