喪失2

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 想定外の出来事が起きたが、だからと言って焦るわけにも止まるわけにもいかない。私は紫苑くんと自分への怒りを燻らせたまま塔を駆け上がった。

 紫苑くんだけに任せたのは間違いだったかもしれない。作戦を聞いておくべきだったかもしれない。こんなことになる前に、止めるべきだったかもしれない。

 そんな今更なことばかり考えても、苛立ちが増すだけだ。噛み締めた奥歯を鳴らして、なんとか冷静になろうとする。今は紫苑くんのことを考えている場合ではない。『彼』を止めなければならないというのに、これほど感情的になっていては説得力のある言葉など与えられないだろう。

 蘇芳さんも彼も、少し道を間違えてしまっただけだ。まだ戻れる。私の言葉では蘇芳さんを救えないことくらい分かっているが、何もしないよりは声をかけた方がいい。

 駆け上がった先で揺らめく影を捉えて、私は彼を壁の方へ吹き飛ばした。その衝撃音に蘇芳さんが振り返る。彼女に小さく笑いかけてから、私は起き上がった彼を嘲笑う。すると不機嫌そうな低い声を響かせられた。


「なんなんだよお前。紫苑が今日動くって俺に教えておいて、なんで邪魔するんだ」

「私が教えたのはこんなことをさせるためではありませんよ。何かあった時に紫土くんが紫苑くんを助けてくれればいいと思ったのですが、君は『彼』に変わらなかったのですね」


 私の予想では、紫苑くんは優しく蘇芳さんの心を溶かし、この世界を終わらせるはずだった。紫土くんに連絡したのは、紫苑くんの言葉に彼が何かを感じてくれればと思ってのことだったのだが、何一つとして思い通りにいっていない。いつも通りの笑顔というポーカーフェイスを彼に向けているが、計画が狂いに狂っているのは私の方だ。ただ、紫苑くんが死んで彼が動いたことだけは予想通りだった。

 何が起きているのか分からない、という様子の蘇芳さんを庇うように立って顔を振り向かせると、彼女は泣き腫らした瞳に私を映した。「大丈夫ですよ」そう呟いて、彼に向き直る。


「君の目的の一つは確か、紫苑くんの記憶を全て失わせること、でしたよね。そうして一からやり直す。今日紫苑くんが死んで二つ目の目的――この世界から抜け出すことを果たそうとしたのでしょうが、そもそもここで死んで失うのは全ての記憶ではありませんよ」

「は……?」

「紫土くんなら知っていると思いますが、やはり君は知らなかったのですね。そんな君を紫土くんが止めようとしなかったのは、自分のことを忘れてくれるかもしれない可能性に賭けていたから、といったところでしょうか。それとも、紫土くんがこちら側にいると、紫苑くんを殺した時のことを思い出してしまうから逃げているだけ、ですかね。逃げてばかりだから何も変われないというのに」


 私の言い方が気に食わなかったのか、彼は私の胸倉を掴んだ。今にも叫び出しそうに震えている口元は、しかし意外なことに冷静さを保ったまま動く。


「違う。『あいつ』を馬鹿にするな」


 僅かに震えた声が、堪えた怒りのせいだというのは考える時間がなくとも分かる。あえて彼の心を乱すように、私は口角を吊り上げてみせた。


「あいつではなく『俺』でしょう?」

「俺じゃない。逃げてるのは俺じゃない!」

「自分で言いましたね、逃げていると。ほら、やはり逃げているのではないですか」


 炎の如く、彼の目が落ち着き無く揺れていた。荒い呼吸と血走った瞳は獣を思わせる。視界の端で蠢く彼の影が、その心情を表しているようだった。

 私を押しのけるように突き飛ばした直後、彼は牙を剥く。出鱈目な軌道を描いた影が私の頬を掠めてから壁に突き刺さった。


「むかつくんだよお前……! なにがいけないんだよ、逃げてなにが悪いんだよ!!」

「誰が、悪いと言いました?」


 取り乱し、悲鳴じみた怒号を上げた彼を見ていると、不思議と笑みが消えていく。そんな私に動揺したのか、目を瞠った彼に続けた。


「誰が逃げる者を馬鹿にしたのですか? なにがいけないのか……そうですね、その通りです。逃げることのなにがいけないんです? 臆病でなにがいけないんですか?」

「……っ」

「ですが、ずっと逃げているだけではいけませんね。――紫土くん、君は、いつまでそこに閉じこもっているつもりなんです?」

「黙れよ! 俺は『紫土あいつ』じゃない!!」


 感情的になっているせいか、彼は考えなしに影を操っていた。触手のように分かれたそれは壁だけを殴りつける。向かってきた一塊も、避ける必要がないくらい的外れな方へ飛んでいく。

 私は平然と、鋭い瞳で見返してみせた。気に食わないと言いたげに影が襲い来る。今回は私を貫ける軌道だ。しかし避けなくても死にはしない。彼の動揺を誘いたくて、避ける素振りを見せずに刃を受け止める。

 右腕を貫かれて表情一つ変えない私に、彼の瞳から鋭さが消えた。私は痛みを笑顔の裏に隠し、弧を描く唇を開いた。


「ええ、私が呼んだのも君じゃない。聞こえているのかは知りませんが、言わせていただきますね。君は、君を受け入れなさい」

「っ、なんなんだ……。俺は、別に……」


 別人格かれが揺れている。解離性同一性障害に詳しいわけではないため、私がしていることは賭けでしかなかった。私が今話をしたいのは紫土くんの方だ。このまま別人格の心を揺さぶれば、このまま紫土くんに語りかければ、紫土くんが出てきてくれるかもしれない。そう思いながら私は、聞こえないほど小さな彼の呟きに、己の声を重ねる。


「弱くてもいいじゃないですか。逃げたい時は逃げればいいんですよ。好きな所まで逃げなさい。満足するまで逃げればいい。なのに何故君は中途半端に逃げ、抱え込んで弟に当たるんです?」

「俺は、逃げてなんか……!」

「――まあ、君はただ君を認めて許してくれる逃げ場が欲しかっただけなんでしょう?」

「違う!!」


 空気が震えた。耳を劈いた声に眉を顰めて彼の顔色を窺うと、違和感を覚える。瞳は変わらず揺れているが、先ほどのように血走っていない。泣き出しそうにも見える疲弊した顔が、別人格かれらしくないと感じさせた。

 私は、真剣に問いを落とす。


「……君は今どちらなんですか?」

「俺は」


 分かりきったことを聞くなと言わんばかりに彼の目と眉が吊り上がった。かと思えばその目が見開かれていって、なにかを探すように黒目が彷徨う。

「俺は、主人格あいつじゃ、ない。俺は……『あいつ』じゃないんだ。『あいつ』みたいに逃げられないのに、代わりに刃を振るわなきゃいけなかったのに、消えないと、いけなくて……――消える? 俺は、……違う、消すんだ、俺が――『あいつ』を……俺は」


 始めは自分に言い聞かせるような重い響きを伴っていた。しかし言葉が続くにつれて徐々にたどたどしくなっていく。彼は彼自身何を言っているのか、何が何なのか分からなくなっているように思えた。

 困ったような視線を向けられ、私は内心戸惑う。先ほどまで怒りと苛立ちで満たされていたのであろう彼は今、弱々しい眼に怯えの色を塗っていた。

 私は出せる限りの優しい声を投げかける。


「もう一度聞きますね。君は、今どちらなんです?」

「俺、は……」

「紫土くん――」

「……っぁあああああああああ!!」


 名を呼んだのは間違いだったかもしれない。紫土、という言葉は彼に引き金を引かせた。影が滅茶苦茶に放たれて何度も壁を打つ。影と壁がぶつかる度に塔が揺れているように思え、冷や汗をかく。しかし、蘇芳さんによって造られた塔は傷付いてもすぐに元の形状に戻っており、壊れる心配はなさそうだった。

 彼の咆哮が収まっていくにつれ、影が勢いを失い彷徨し始める。叫び疲れたみたいに彼は呼吸を乱していた。ようやく静まった中、私は敵意が一切混ざっていない透明な声を吐き出す。


「私は医者ではないのでちゃんとした治療法などは知りませんが、これだけは言っておきます。君は他人の記憶を消そうとする前に、向き合いなさい。自分とも、家族とも」


 気に障る言葉だったかもしれない。けれど真っ直ぐに伝えなければ、伝わらない。真っ直ぐに向き合おうとしなければ、受け入れてもらえない。だからきっと大半の大人は子供の心を開けないのだと思う。傷付けない程度に探りを入れるだけでは本心なんて聞き出せない。確証も無いまま勝手な解釈をして責めては傷付けるだけ。真っ直ぐに受け止めようと、理解しようともしない声に、誰も心を開こうとしないだろう。

 私はそれほど大人なわけではなく、紫土くんともそれほど年が離れているわけではない。けれど『大人』でありたいと思う。紫苑くんや蘇芳さん、紫土くんにこんな説教くさいことばかり言ってしまうのは、自分勝手な贖罪をしているつもりなのかもしれないが。

 沈黙に浸りながら独り言を心に吐き捨てていると、ようやく彼が開口した。


「どう、向き合えばいいんだよ。お前、俺が何をしてきたか、知らないだろ? 紫苑の大切な人を奪ってさ、そいつと紫苑が似てるからって亡霊が目の前にいるような気がして、何度も紫苑を殺そうとして……。今更、どう向き合えばいいって言うんだよ。あいつに消えない傷をいくつも刻んできたのに、『俺』は、『あいつ』は……っ『俺達』は、今更何をすればいい……!?」

「君が抱えているものを全部、暴力ではなく言葉で伝えればいい。それだけですよ。紫苑くんは素直じゃないだけで優しいですから、大丈夫です」

「……そんなの、知ってるよ。紫苑が優しいことくらい、俺を突き放さないことくらい、分かってるんだよ」


 彼は俯くと、黙り込んだ。私はこれ以上彼にかける言葉を持ち合わせておらず、無言で彼を見据える。冷静さを取り戻したらしい彼が、これからどう動くのか警戒しながらも、優しく見守り続けた。

 一人で悩みこむように地面を睨んでいた彼が顔を上げる。


「もういい。蘇芳、殺さないでおいてあげるよ。その代わり、早くこの世界を壊して欲しい。まあ、ここがお前の逃げ場だって言うなら無理にとは言わないけど、せめて俺を解放して。俺は弟みたいに、お前を助けてやろうとか思ってないから。この世界にはいらない存在でしょ?」


 私の後ろでずっと黙っていた蘇芳さんが、靴を鳴らして前に出た。今までの会話を彼女がどんな思いで聞いていたかは分からない。けれど私の言葉が彼女の心を揺さぶれた可能性は低いだろう。紫苑くんに恋をしてからの彼女には、恐らく紫苑くんの言葉しか響かない。


「紫土さん、元の世界に返す前に、教えてください。あの時、呉羽先輩はなんであたしを庇って死んだんだと思います?」

「俺の想像でいいんだよね? 紫苑は多分、俺の手をこれ以上汚したくなかったんじゃないかなと思うよ。自惚れかもしれないけどね」

「そう、ですか……。ありがとうございます」


 抑揚の欠けた声で礼を言うと、蘇芳さんは彼の肩に触れる。彼女が無感情に何かを呟いた刹那、彼の姿は室内の闇に溶け込んでしまった。

 私がここに来るまでそうしていたように、蘇芳さんは窓の傍に寄って、外をぼうっと眺める。私はその華奢な背を見つめた。


「蘇芳さん。君はこれからどうするつもりなんですか?」

「あたしは……どうしたらいいんですかね。東雲さんは、なんでここに来たんですか? あたしを殺してくれるんですか?」

「はは、そんなわけないでしょう。死にたいだなんて思っていないくせによく言いますね」


 自虐的な発言に、つい挑発を返してしまう。けれど彼女はなんの反応も見せなかった。まるで時が止まっているかのように、彼女は動かない。その後ろ姿だけでは何を考えているか全く読み取れず、私は仕方なしに問いかける。


「紫苑くんともう一度会って話したいと、思います?」

「……今は、嫌です。呉羽先輩の前になんて、立つ勇気ないです」

「そうですか。この世界を壊す気は?」

「ないです。あたしは、ここがないと生きていけない」


 紫土くんにとっての逃げ場が、己を受け入れてくれる存在と暴力なら、蘇芳さんにとっての逃げ場は孤独と静寂。けれどそんなものに満たされていないことは、死にたいだなんて言葉うそだけで察せられる。今目の前にいる自分では、彼女を孤独から救えない。それは複雑な気持ちを抱かせる。

 悶々としている間に、蘇芳さんが顔を振り向かせた。目を合わせて私の意識を引き付けると、外に向き直ってしまう。


「東雲さん、一人にしてください。あたし今、一人になりたいんです。さっきから東雲さんの声、すごい不愉快なんです」


 不愉快。それはつまり、私が紫土くんに言った言葉が蘇芳さんにも何かを思わせた、と解釈して構わないだろう。ならばもう少し何かを言おう――そう思ったが、今の彼女をこれ以上追い詰めるのは良くない。大人しく、階段を一段下りた。


「それは残念です。また明日ここに来ても?」

「あたしは、一人でいいんです。出てってください。放っておいてください」


 僅かに震えたソプラノに、立ち去ろうとする足が固まる。しかし私がここにいても彼女に何も出来ない。なんとか足を動かして、階段を下って行った。

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