笑顔4
私はあまり彼女と目を合わせたくなくて俯いたが、両腕をがしっと掴まれて、驚きのあまり顔を上げてしまう。
「ちょっと浅葱。あんたどうしたの。モテ期? 少女漫画のヒロインか何かが乗り移った?」
「ち、違うってば! ただの先輩だって言ったでしょ!」
「……そ。でも嬉しいわ、目の保養よ彼」
「やめて。本当にやめて。頼むから先輩に迷惑かけないで」
「分かってるわよ~。遠くから二人のこと見守っててあげるからっ。頑張りたまえ我が娘よ!」
はっはっは、とよく分からない高笑いのような声を上げながら、お母さんは家の中に入っていく。ほんの少しの間の後、私もその背中を追いかけるようにして、リビングに駆け込んだ。
テーブルの上には鮭のムニエルとご飯と味噌汁、海草サラダとマッシュポテト、デザートのレアチーズケーキが並んでいた。多分今後紫苑先輩がご飯を食べに来ると言ったら、もっと豪勢な食事を用意するのだろう。
私は先輩の向かい側に座って、いただきますと両手を合わせる。
私の家のリビングはキッチンの正面に食卓があって、その奥にテレビとソファがある。萌葱とお母さんはソファに座っていた。萌葱はというとテレビに釘付け、お母さんは紫苑先輩に釘付け。背中に視線が突き刺さっていることに紫苑先輩はきっと気付いていない。
「……美味しい」
テレビの音声だけが響いていた室内に、紫苑先輩の呟きが響く。歓喜したお母さんが立ち上がって、先輩の隣の椅子の背もたれに両手を突いた。
「本当!? こんないつも通りな食事しか出せなくて本当に申し訳ないんだけど、口に合ったのならよかったわ!」
愛想笑いを浮かべる先輩とお母さんのテンションの差がすごくて、とても恥ずかしくなってくる。先輩、ただでさえ疲れているだろうに、これ以上疲れさせないであげてほしい。そんな思いを込めてお母さんをじーっと睨むと、嫉妬だと誤解されたのか、悪戯っぽく笑われた。
「ふふ、母さん邪魔者みたいだからちょっと部屋に引っ込むわね! 紫苑君、ゆっくりしてって!」
鼻歌交じりに立ち去る母を横目で見て、私は小さく溜息を吐いた。
「ごめんなさい先輩、あんな母で」
「……素敵なお母さんだと思うよ」
お世辞でもなんでもなく、本当にそう思っての発言みたいだった。先輩は小さく笑ったまま、ご飯を食べる。
私も冷める前に食べないとと思って慌てて箸を持ち始めた。味噌汁に口を付けていると、萌葱がテレビに向けていた視線をこちらに移す。
「ねえ、もしかしてわたしも邪魔かな? やっぱ初おうちデートとかいうのは二人きりがいいよね?」
「――げほっ、ごほっ!」
飲んでいた味噌汁を噴き出すという最悪なことを紫苑先輩の前でするところだった。なんとか飲み込んだものの、きちんと喉を通らなかったみたいで咳き込む。
「っもう、黙って! 萌葱の馬鹿!!」
にしし、と妙な笑い方をして、萌葱がソファに寝転がる。紫苑先輩に今のやりとりはどう思われただろう。気を悪くされていなければいい。不安に思いながら前を見ると、先輩はもうご飯とムニエルとポテトを食べ終えていた。早い。味噌汁を一口飲んで微笑み、私の視線にようやく気付いてくれる。
「……今日はありがとう。外で食べるより美味しいよ」
「あ、ありがとうございます……母に伝えておきますね」
「よろしく」
それからは萌葱がちょっかいを出してくることもなく、食器の音とテレビの音声にリビングが占拠される。ちらとテレビを見てみると、ホラー特集のようなものがやっていて私は青ざめた。
「も、萌葱、ごめん。テレビ変えて」
見たくないのなら見なければいい話だが、つい目がテレビに向いてしまうのだ。多分、目の前にいる紫苑先輩を見ると顔が真っ赤になりそうだからだろう。私は涙目で萌葱に懇願するも、萌葱はとても冷めた視線を私に寄こしてくる。
「姉さん酷くない? ここから面白いところなのに」
「ごめん本当に無理なの。私先輩の前で恥かきたくない。変えて」
「紫苑さんの前でそう言ってる時点でもう遅いと思うんだけど。……おっ」
「いやぁああああ無理ぃいいいい!!」
萌葱は鬼だと、この時心の底から思った。紫苑先輩が今どんな顔で私を見ているのか、見たくない。俯いて両手で顔を隠したまま、私はしばらく顔を上げられなかった。
◇
あの後、紫苑先輩はご飯を食べ終えてすぐに帰ってしまった。お母さんに挨拶してから帰ろうとする先輩に、そんなことしなくていいですからと言って半ば押し出すような形で玄関前まで見送った。
本当に、嫌な日だった。お母さんはいつも以上に元気だし、萌葱は酷いし、ホラー特集で泣いて紫苑先輩に笑われるかと思いきや本気で心配されるし。あの後ようやく萌葱がテレビを変えてくれてなんとか落ち着き、先輩と他愛のない話で盛り上がったが、それでも今夜先輩に会うのが嫌だった。失態ばかり見せてしまったのに、更に醜態を晒すことになりそうだ。
なんて思っていても、当然夜は来て、私の家の前で訓練が行われる。先輩は今日あった事なんて全く気にしていない様子で、菖蒲くんと私を見守っていた。
その先輩の顔を盗み見ていると、菖蒲くんに描かれて実体化させられた黒い猫が、ひゅんっと音を立てて私の眼前に迫っていた。
「ひゃあっ!」
ぼうっとしていたせいで腰を抜かして尻餅をつく。黒い前足の爪が私に向かって振り下ろされかけたが、私を傷付ける前にぴたりと動きを止めてくれた。
菖蒲くんが「ストップー」と言っていたのが聞こえたから、猫はご主人の命令に従ったのだろう。私はほっと息をつく。
「良かった……」
「なにぼうっとしてるのさ」
家の前に立っている紫苑先輩が、目を細めて私を見ていた。明らかに呆れている端正な顔に、私は苦笑を返すことしか出来ない。
「ご、ごめんなさい……」
「昨日はそれくらい避けられていたよね。能力を使う感覚、忘れないようにして欲しいんだけど。昨日やったことが出来なくなっていたら、訓練の意味がない。少しでも反応が遅れたら死ぬんだ。それを忘れないで」
「は、はい……」
手厳しい言葉を噛み締めるようにしながら歯を食いしばって、私は立ち上がり、菖蒲くんを見据える。黒猫は菖蒲くんの傍に戻っており、彼に撫でられていた。
「……浅葱、もし体調が悪いんだったら、無理はしなくていいから」
「大丈夫です……元気ですから!」
「そう。じゃあ頑張って。言っておくけど、僕は君の努力家なところは気に入っているし、コツを掴むのが速いところも好感が持てる。だからもう少し自信持っていいと思うよ」
紫苑先輩が珍しく厳しくしてから優しい言葉を投げてきたため、動揺して心臓が跳ね上がった。こんな時に胸の内の恋心が騒ぎ出したが、それをなんとか静める。今は、こんな気持ちではいられないのだ。気を引き締めなければならない。
私がぐっと地面を強く踏み付けて猫を睨むと、紫苑先輩が短く呼びかけた。
「菖蒲」
「はい! じゃあ、もう一回いきますよ浅葱さん!」
菖蒲くんの猫が、私に真っ直ぐ向かってきた。私は素早く菖蒲くんの斜め後ろあたりをじっと見つめ、目を閉じてその場所を思い浮かべ、瞼を持ち上げる。そうして転移した直後、私は手を振り上げた。菖蒲くんが慌てて後退したけれど、もう遅い。その手を――いや、スケッチブックを、私は払い飛ばす。
地面に転がったスケッチブックの音に菖蒲くんが驚いて肩を震わせ、私を見上げる。ここまで出来るようになった私に驚いているというよりも、どこか嬉しそうに唇で弧を描いた。
「浅葱さん、転移にかかる時間短くなりましたね!」
「やっと、だけどね……一週間もかかっちゃったよ……それに、菖蒲くんが今から攻撃するって合図をくれてるから避けられるだけで、多分いきなり攻撃されたら避けられないし」
この一週間、始めの方は菖蒲くんの猫からの攻撃をひたすら避けるだけの訓練だった。五日目あたりから、攻撃を避けつつ菖蒲くんに攻撃をしろという訓練に変わったのだ。
道路の中心に立っている私達の方へ、紫苑先輩が革靴を鳴らして歩いてくる。
「やったね、浅葱。一週間くらいしかかからなかったのは凄いと思うよ。もっとかかるかと思ったけど……見くびっていたみたいだ。ごめん」
「い、いえ……」
「けど、使えるようになったからって人兎に突っ込んで行ったりはしないこと。君の能力は戦いに向いてない」
少しむっとしてしまったのは、ここまで訓練をさせておいて未だに役立たずのように扱われている気がしたからだ。私は不機嫌を露わに頬を膨らませた。
「でも、転移して逃げながら近付いて、人兎を倒せばいいじゃないですか。人兎から武器を奪って戦えば、私だって」
「やめておきなよ。人兎の武器はその人兎を殺したら消えてなくなる。他の能力者がいきなり現れて人兎が殺されれば、君は丸腰になるんだ。そんな戦い方はやめた方が良い」
戦っている際にいきなり武器を失う。そのことを想像しただけで、足が震えそうだった。紫苑先輩の言う通りにした方が良さそうだ。私は私に出来ることだけを考えた方が良いような気がした。
表情を固めたまま紫苑先輩と見つめ合っていると、その口が小さく開いて、「あ」と発せられた。
「悪い点を言い忘れていたから言わせてもらうね。君は優しいから、今菖蒲のスケッチブックを落とすことしか出来なかった。それで菖蒲の猫が消えるわけじゃないんだから、安心したのは良くなかったと思う。以上、かな」
以上、という言葉は、批評の時間が終わったことを意味している。紫苑先輩はやはり上げて落とすタイプだ。最初に褒めてくれて、後で駄目だったところを言ってくれる。本音を言うと、さっき私が尻餅をついてしまった時みたいに、褒めるのを後にしてくれた方が嬉しい。けれど、それでも先ほど褒めてくれた点を思い出せば、嬉しさは自然と込み上げてくる。
車道の先を見てみると、菖蒲くんの猫がこちらをじっと見つめて佇んでいた。紫苑先輩の言う通りだ。菖蒲くんのスケッチブックを落としたことで戦闘が終わったと思い込んで、気を緩めた。あの時猫が向かって来ていたら、確実に攻撃を避けられずに負傷していただろう。
「気を付けます……」
「うん、気を付けて」
「いざとなったら、ぼくが浅葱さんを守るので大丈夫です!」
大きな声で言い切った菖蒲くんが、私の両手を握って微笑んでくれる。無邪気で優しくて、本当に可愛い子だなと思う。弟がいたらこんな感じかもしれない。私が菖蒲くんの頭を撫でていると、紫苑先輩が私と菖蒲くんの柔らかい雰囲気を凍り付かせた。
「明日からは僕と本気で戦ってもらおうかな」
振り返ってみれば、紫苑先輩がベストのポケットから取り出したバタフライナイフを煌かせて、にこりと笑っていた。菖蒲くんよりも、多分先輩の方が強い。私は全力で首を左右に振りながら先輩に詰め寄った。
「ま、待ってください。せめてもう一週間! もう一週間だけ菖蒲くんと戦いたいです!」
「そうですよ紫苑さん、ぼくももうちょっと浅葱さんと」
菖蒲くんまでそう言ってくれているのだから、紫苑先輩も受け入れてくれるだろう。そう期待を込めた眼差しで先輩を見上げると、その目が見開かれていて動揺した。
私の背後で、何かが落ちたような音が響く。
「菖蒲……?」
紫苑先輩の唇が震えながら小さく動いて、呟きが零される。傍にいた私にしか届いていないと思うくらい、微かな声だった。
私は先輩の視線を追いかけるようにゆっくり振り返る。私の心が、暴れていた。見てはいけないと騒いでいるような心臓が、どくんどくんと五月蝿い。
振り向いた先で、菖蒲くんは倒れていた。彼の周りにどんどん赤い液体が広がっていく。なんとか立とうとした小さな体は、痙攣しただけで立つことは叶わなかったようだ。ただ見ているだけなんて出来なくて、気付けば私は駆け出していた。
「っ菖蒲くん!!」
「――浅葱止まれ!」
紫苑先輩の制止の声を聞いても、私の足は止まらなかった。菖蒲くんの傍に駆け寄って、その体を抱き起こす。彼は背中を斬られたのかと思ったけれど、斬られただけではなさそうだった。どうやら、背後から貫かれている。
そんな痛々しい傷を見ていられなかったが、私は血を止めなければと思い傷口に手を当てる。どうしたらいいかなんて分からなかった。溢れ出す血を、外に出してはいけないと思った。必死に傷口を押さえた私は、荒い呼吸で胸を上下させる菖蒲くんの顔色を窺った。
「菖蒲くん、大丈夫だから……。死なせないからっ」
不意に、視界で何かが煌く。顔を上げると、白い髪を揺らした男の人が、長い刀を振り上げていた。その切っ先にこびり付いているのは、赤い――菖蒲くんの血液。
私が息を呑んだ直後、彼――月白さんの振り上げられた手は音を立てて折れ曲がり、手に持たれていた刀は地へ落ちた。
「……お前、どういうつもりだ」
全身が、凍りつく。
もう聞き慣れた、紫苑先輩の声。それが、淡々としているけれどいつにも増して冷たく、低く落とされた。孕んでいるのは怒気と殺意。それが向けられているのは私ではないのに、怖いという感情が全身に駆け巡って体を震わせる。
それでもなんとか自分を落ち着かせて、私は菖蒲くんに視線を戻した。息が、心配になるくらい小さい。それでもまだ、瞼は伏せられていなかった。
私と目が合うと菖蒲くんは笑う。笑って、なんとか声を出そうと、口を動かしてくれている。その声は聞こえなくて、私は菖蒲くんに顔を寄せた。
「――私は『ウサギ』の命令に従ったまでです。能力者一人を殺すこと。それを果たしたので、失礼させていただきます」
「……浅葱、さん」
背後から月白さんの無感情な声が響いてくる。それに掻き消されそうだった菖蒲くんの声を、私はなんとか聞いていた。弱々しい声が私の胸に突き刺さってくる。私は負傷したわけじゃないのに、息が苦しくなってくる。気付けば、私の目尻から涙が零れ落ちた。
菖蒲くんの手が震えながら持ち上げられて、私の頬を手の甲で撫でてくれた。泣かないでと言っているようだった。
「ふざけるな……」
紫苑先輩の静かな怒りを背中で感じながら、私は菖蒲くんの手を握り締める。菖蒲くんは、泣いていなかった。私が見えている傷も血も偽物なんじゃないかと思うくらい、いつも通りに微笑んでいた。けれど、その苦しげな呼吸が、偽物なんかじゃないと告げている。
「…………ぼくは、これで……いいんです」
私を安心させるためだろうか。枯れたような、小さな小さな掠れた声で、菖蒲くんはそう言った。私は涙のせいで喋ることが出来なくて、首を左右に振る。
嫌だ。嫌だった。こんな、小学生の子供が。どうしてこんな世界で、こんな理不尽な痛みを味わわなければならないのだろう。
どうして私は、目の前にいるのに助けられないの。
「っ菖蒲!」
紫苑先輩が、私の隣で膝を突いた。先輩の、悲しさと苦しさを噛み殺したような顔を見ているのも辛くて、私は握り締めている菖蒲くんの手だけをじっと見つめる。
「……ごめん、菖蒲」
ああ、もう駄目だ、と思った。先輩の声が、僅かに震えていた。菖蒲くんの傍にずっといたのに何も出来なかった私のせいで、先輩が悲しんでいるのではないかと感じるくらい辛かった。ただ手を握り締めることしか出来ない自分が嫌で、菖蒲くんに申し訳なかった。
「……なんで、謝るんですか…………いいんですよ……ぼく……」
菖蒲くんの手から力が抜けていく。私は滲んだ視界で、菖蒲くんの顔を見つめた。涙でぼやけているのに、それでも彼が笑っているのが分かった。
年相応の、純粋で綺麗な――笑顔。
どうして泣かないの。どうして、こんな時まで強がるの。そう叫びたい気分だった。どうしてという言葉ばかりが私の頭の中を滅茶苦茶に掻き混ぜていた。
その笑顔は年相応でも、この場では不相応なのに、どうしようもなく綺麗で、目が逸らせない。
菖蒲くんの唇が、喉が、震えた。
「ぼく……記憶、忘れたら、いい子になれる……かも、しれない……じゃ……」
そこから先の言葉は、もう、息でしかなかった。ただ風に攫われるだけの、最後の吐息。耳に届く前に溶けて消えてしまう、小さな小さな声。菖蒲くんの言葉を最後の最後まで、聞き取ってあげられなかった。
耳鳴りがした。――いや、きっと違う。これは、多分私の悲鳴だ。甲高い悲鳴が五月蝿いくらい響いて、意識が遠のいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます