アグロステンマのせい
~ 七月三日(火) 穂咲と教科書 ~
アグロステンマの花言葉 小国の王
麦畑に咲く王様の冠、アグロステンマ。
そんな、白から紫へのグラデーションが美しい五枚花と。
並んで歩く、学校からの帰り道。
冠を被る人は。
王様からは程遠いですけども。
下唇を突き出して、教科書とにらめっこをする猫背娘なのですけども。
……この、一文字消すと妖怪になってしまう子の名は
軽い色に染めたゆるふわロング髪を、今日は驚くなかれ、クラシックの人みたいにくるくるとカールさせておりまして。
アグロステンマの茎が、カールをぶすぶすと貫通して。
アスパラ巻きを止めるつまようじのように刺さっています。
「ねえ、穂咲」
「……ここにさぶらはむ」
「明日は宿敵、物理の試験があるので、俺も勉強したいのですが」
「人民の、人民による、人民のための政治」
「古典なの? 世界史なの?」
こいつが教科書に顔をうずめて歩くせいで。
俺が先導しなければならないのですが。
「……さぶらはむ・リンカーン」
「とうとう合体してしまいましたね」
穂咲がにらめっこしている教科書。
一体どちらなのかと、表紙を見てみれば。
【物理】
「……年に三百六十日ぐらい、君のことが信じられない日があるんですけど」
「1861年、南北エネルギー保存のハム・リンカーンいまそがりける」
「短期間に詰め込むからそんなことになるんです。ほら、顔を上げて深呼吸しなさい。今日は空気が澄んでて気持ちいいよ?」
「だめなの。顔を上げたら、せっかく頭にたまった知識がのどを通って胃に入っちゃうの」
「……鵜飼い気分で、君の首を押さえておきたいです」
そして再び、穂咲はぶつぶつとつぶやき始めましたけど。
世界史と古文の言葉をいくら駆使しても、振り子運動は計算できないよ?
穂咲は、学校ばかりか、この通学路上でも有名人。
すれ違うお姉さん、庭の手入れをするおばさん、植木にはさみを入れるおじいちゃん。
誰もが、ガリ勉穂咲の姿を見てくすくす笑っています。
でも、大人たちはいいのですけど。
これはいけません。
「……穂咲、勉強ストップ。子供たちがお前の真似してついてきてる」
いくら集中モードでも、子供と聞いて、反応してくれたようで。
振り返る穂咲の後ろを、ご近所の小学生でしょうか。
ランドセルから教科書を出して。
穂咲の真似をしながら。
くすくすと笑いながら。
アヒルの行列のように、五人のちびっこが並んで歩いていました。
「真似をしちゃダメなのです。電信柱にぶつかっちゃうよ?」
歩きスマホは危ないと言われていますけど。
歩き教科書は、もっと危ないのです。
「お兄ちゃんの言う通りなの。危ないの」
そう諭してみた穂咲ですが。
もちろん、こう反撃されてしまう訳で。
「じゃあ、なんで自分はやってんだよ!」
「そうだそうだ!」
色とりどりのランドセルが楽しそうに。
やーいやーいとお姉ちゃんをからかいます。
……でも、彼らとしては。
困った顔のお姉ちゃんを見たかったのでしょうけれど。
そこは相手が悪かった。
「じゃあ、みんなでやるの」
お姉ちゃんの予想外な返事に。
小学生たちが、困った顔を見合わせます。
「平気なの。人民の、人民による、人民のための交通ルールなの」
覚えたばかりの言葉を口にした穂咲は。
道行くみんなへ、大声で呼びかけます。
「全員集合なのーっ!」
……今日は試験終了と同時に帰路についていたおかげで。
通学路は、穂咲をよく見知ったうちの学校の皆さんで溢れておりまして。
こんな無茶な呼びかけにもかかわらず。
今度は何をやらかすのかと期待しながらぞろぞろと集まって。
あっという間に車道まで埋め尽くす黒山が出来上がりました。
「みんな、良く集まったの! これから、本を読みながら移動同好会の活動を開始するの!」
みなさん、きょとんとなさっていますけど。
でも、穂咲がみんなをかき分けて、先頭を歩き出すと。
何となくみんなでそれに従います。
そして驚いたことに。
左右も見ずに、立ち止まることもなく。
車が迫る交差点へ突っ込んでしまいました。
慌てて止まる自動車。
それを尻目に突き進む小山。
さらには正面から向かってきた車も。
道路を埋め尽くす一団を見て。
これは何事かと、コンビニの駐車スペースへ逃げ出しました。
「うわあ。今日の騒ぎは、いつにも増してめちゃくちゃなのです」
調子に乗った穂咲軍は。
止まることなく突き進み。
近隣の方々も。
半分の人が怒鳴りつけ、あるいは心配し。
半分の人が微笑んで、あるいは大笑いして。
悪ガキ軍団を率いるガキ大将を見つめるのでした。
……褒められた行為ではないけれど。
いえ、むしろ叱られるべき行為ですけど。
でも、穂咲パレードに参加したみんなは。
楽しそうに笑って。
無邪気にはしゃいで。
つい、俺も楽しくなってしまうのでした。
――ほんとに、君といると。
毎日ひやひやして、驚かされて。
それでいて。
毎日が本当に楽しくて。
だからかな。
あと一年半で、君と離れ離れになることを考えると。
急に寂しい気持ちになるのでした。
「……バカだな、俺は」
「どうしたの? 道久君」
本から顔を上げた穂咲が。
いつものタレ目で見つめてきますけど。
しまった、なんて返事しよう。
「えっと。……穂咲、王様みたいだな」
民衆を引き連れて。
そのみんなが、こんなに楽しそうで。
俺の言葉に気を良くしたのでしょうか。
こいつはふんすと鼻を鳴らすと。
錫杖のように丸めた教科書を掲げ。
マントのように、ピンクのカーディガンを翻して振り返ると。
「あたしは王! みなの者! あたしについてまいれ!」
そんなことを言って、国民から喝采を浴びるのです。
……叱らなければいけないのに。
つい甘やかして。
そして、こんな変な事ばかり思い付く君のことが、可愛く見えてしまうなんて。
やっぱり俺は。
「……バカの王様だ」
ぽつり漏らした自虐の独り言。
その瞬間、ぴたりと鎮まる王国民。
あれ?
みんなが、俺をにらみつけている理由。
先日も似たようなことがあったので、さすがに気づきました。
「違う違う! 今のはこいつの事を言ったんじゃなくて……」
慌てて弁明してみましたが。
勘違いを解く相手を間違えました。
王様は錫杖を掲げ。
国民に命じます。
「みなの者! この反逆者を
王の命に、従順に従う国民が。
駅前広場のランドマーク、妙なデザインの時計の柱に俺を縛り付けて。
そのまま放置して行ってしまいました。
「助けて! 誰か助けて!」
泣き叫ぶこと数分。
意外と世間が冷たいことに涙した俺に。
やっと差し出された温かな手。
……でも、それは。
「通学路が大騒ぎになっていると通報を受けて来てみれば。やはりあなたが犯人でしたか、秋山道久」
「げ。生徒会長さん」
こうして俺は、学校へ連行され。
生徒会長に引き連れられて職員室へ。
次に校長室へ。
夜中まで頭を下げて歩くことになりました。
……いよいよ本格的に。
明日の物理が心配です。
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