04.母性本能

 事務所へ戻ると、小豆色のジャージに着替えたたまきさんが、所長席で夕飯に箸を伸ばそうとしているところだった。

 あまねくんが用意したのだろう。デスクの上に並べられているのは、肉野菜炒め、コンソメスープ、焼き鮭の切り身と炊き込みご飯、といった献立。


「やあ、お帰り」

「お帰り……じゃないですよ! またそんな格好で、そんな所で!」

「こんな時間だし、もう依頼人もこないよ。もっとも、時間に関係なくここに依頼人が来ることなんてほとんどないんだけどね」


 そう言ってクスクス笑いながら、環さんが肉野菜炒めをつまんで口に運ぶ。


「笑い事じゃないですよ。あまねくんがいなかったら、とっくにこの事務所だって引き払ってるところじゃないですか」

「そうだね~。あまねくんには感謝してるよ」


 その周くんは、といえば――。


 壁沿いに置かれた長机の上でノートパソコンを開き、何やらたくさんのグラフのようなものが表示された画面を眺めている。


「今週の成果はどうだったの、あまねくん?」と、食事をしながら環さんが尋ねる。

「…………」

「あまねくん? ……環さんが、今週の成果は?って訊いてるよ?」

「…………」

「あまねくん?」

「……ん? あ、あぁ……成果? まずまずかな」


 画面から目を離さずに、あちこちクリックしながら周くんが答える。

 何かに集中し始めると、他のことが耳に入らなくなるのはいつものことだ。


「ゴールデンウィーク中はマーケットも閉じるから、可能な限り余計なポジションは手仕舞てじまって利確したんだけど……」

「りかく?」

「利益確定のこと。前に教えたじゃん」

「そうだっけ? そういう、株とかFXとか……私にはさっぱりだから」


 何かを思い出したように、周くんが少しだけ首を回して私の方を流し見る。


「そういえば、咲々芽ささめはいいの? めし

「あ、うん、大丈夫、家で用意してると思うから。ありがとう」


 そっか、といって再びパソコンの画面に視線を戻す周くん。


「咲々芽も、今後もあいつに付き合うつもりなら、投資くらい覚えておかないと」

「私……数字とかダメなのよね……踊って見えるっていうか……」

「ミラージュワールドに入るときはあんな複雑な計算ができるんだから、トレードくらいすぐに覚えられるだろ」

「あれは別に、そういう能力ってだけで、私が計算してるわけじゃないし……」

「とりあえず今週は、為替は二十万くらいしかプラスにならなかったけど、株で数銘柄、上手く決算プレーがはまったから……」


 そういいながら、周くんが金融資産管理と書かれた画面を開いてチェックする。


「税抜きでざっと、四百万くらいの利益だな。半分は再投資に回しても、家賃半年分くらいのキャッシュは残るだろ」

「うわ! すご……」

「ギリギリだったけど、なんとか追証は入れずに済んだ」

「おいしょう?」

「追加証拠金! 含み損が拡大したりして有価証券の評価額が下がると、追加で必要証拠金額を回復する必要が――」


 だめだ……さっぱり分からない。

 それを聞きながら、再び環さんが口を開く。


「資産運用はあくまでも、余剰資金でやっておいてね、あまねくん」

「やかましい! 環が競馬なんてしてなければもっと余裕があったはずなんだよ!」


 周くんが、今度は首だけじゃなく、回転椅子オフィスチェアを回して環さんに向き直る。


「とにかく、これからしばらく競馬禁止だからな!」

「えぇ~……。今日買ってきた競馬BOOK、どうすれば……」

「知らん。捨てろ」


 会話だけ聞いてると、どっちがお兄さんか分からないな。


「あまねくんの方がそんなに調子よかったなら、わざわざクラスメイトを紹介する必要もなかったなぁ」

「いやいや、それは違うよ、咲々芽さん」


 環さんが首を左右に振る。


「彼女の……雪実ゆきみさんの依頼はあきらかに、警察よりも僕たち向きだからね。お金の件は抜きにしたって、ここに連れてきて正解だったと思うよ」

「ということは、やっぱり、特異点が?」

「うん。彼女の周囲の霊子に、明らかに不自然な〝ゆらぎ〟が見られたからね。あれは、長時間特異点のそばにいた人間に現れる特徴だ」

「手嶋さんにも〝ゆらぎ〟が……ということは、じきに?」


 眉根を寄せた私をみて、環さんが柔らかな微笑を返してくれた。


「いや、まだ〝霊現体ファントム〟化するほどじゃないし、時間的な余裕はあるよ。ただ、何が起こるか分からないし急ぐに越したことはないけれど」

「そっか。とりあえず、よかった……」


 ファントム――人間が長時間特異点のそばにい続けると、霊粒子の影響で人体そのものが特異点に似た性質……いわゆる、特異体質に変化することがある。

 当然、大気中の霊子はその人体の周囲で淀みやすくなり、個人差もあるが、最悪の場合は精神にまで変調をきたす。

 その状態になった者を、私たちはファントムと呼んでいる。


「明日は午後一時に訪問の約束だから……咲々芽さんのマンションに迎えにいくのは、正午頃でいいかな?」

「あ、うん、私はそれで、大丈夫……」


 そういいながら、チラリと周くんの方を流し見る。


「俺も、いつでもいいよ。ゴールデンウィークは帰らないって、本家じっかには言ってあるから」

「じゃあとりあえず、明日はそういうことで! 昼食はそれぞれ済ませておいてね」


 それだけ言うと、再び環さんが食べかけの夕飯に箸を伸ばす。

 打ち合わせなんて言いつつ、いつもながら適当だなぁ……。


「じゃあ私、そのへんを少し片付けてから帰りますね」

「ええ……!? 今食事中だし、埃が立っちゃうからもう少し待ってよ」

「私だって暇じゃないんですから……嫌なら隣の控え室で食べてください」

控え室あっちはほら……そうそう! このまえジュースをこぼして、床がペタペタしてるから……」

「そんなの、とっくに掃除しましたよ!」


 言い訳にしても、ひどすぎる。


「でも、なんていうか、一人で食べてても、ちょっと寂しいでしょ?」

「……分かりました。五分待ちますから、急いで食べちゃってください」

「ありがとう! ……何分オーバーまでオッケー?」

「ゼロです! きっちり五分後に片付け開始です!」


 残りの夕飯を急いで搔きこみ始める環さん……とはいっても、その所作は相変わらず、あくまで優雅。

 環さんなりに多少スピードはアップしてるんだろうけど、一般人の感覚からすれば、とても急いでいるようには見えない。


 ほんと、普段の環さんはゆるゆるというか……脱力させられちゃうのよね。

 でも、そういうところに、母性本能がくすぐられちゃうんだろうなぁ……。

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