02.特異点と意志

「僕たちはそれを〝霊子〟って呼んでいる」

「れいし?」


 たまきさんが、手嶋てじまさんから花音かのんへ視線を移してゆっくり頷く。

〝僕たち〟というのは、私を含めたこの事務所の面々……というわけではなく、霊子に関わるすべての人たちを指しているんだろう。


「うん。原子一粒って世界の話だから、肉眼で見ることはできないのだけど」

「げんし……」


 花音が、水でも掬うような手つきで、おわん型に重ねた両手の平を覗き込む。


――そんなことしても見えないでしょ、原子の粒は。


「観測される前の霊子は空間に広がる波の性質を持っているんだけど、人に観測されることで収縮し、ある一点で一つの粒子として確認されるんだよ」

「そういえば、同じような説明を聞いたことがあります。確か……量子りょうし?」


 半分独り言のように呟いた手嶋てじまさんに、人差し指を向けながら花音が可笑しそうに笑う。


「りょうし、って……バカじゃないのユッキー! いくら波がどうこうったって、海の話じゃないことくらいは、あたしにだってわかるよー!」

「バカは花音あんたよ」


〝りょうし〟といっても漁師それじゃない。

 花音と私のやりとりに、あまねくんがうつむいて肩を震わせている。

 一方、穏やかに微笑みながら私をたしなめたのは環さん。


雪実ゆきみさんが言ったのは量子力学のことだね。女子高生で知ってる子は多くないだろうし、バカなんて言っちゃダメだよ、咲々芽ささめさん」

「そ、そうだぞ、咲々芽! 友達に対してバカとか……酷いよ!」

「あんたが言う?」


 私と花音はともかく、今日初めて話すようになった人からバカ呼ばわりされて、手嶋さんもさぞ戸惑っているだろう、と思いきや……。

 そんなことには全く関心がなさそうに、環さんを食い入るように見つめたまま、


「その……霊子というのは量子と同じものなんですか?」

「それは、正直分からない。僕も物理学者ではないからね。ただ、耳にする一般教養レベルの知識によれば、かなり似た性質なのは確かだね」

「霊子と、さっき言っていた〝ミラージュワールド〟とは、どんな関連があるんですか?」

「うん……時間もないしくわしい話は端折はしょらせてもらうけど、霊子が収縮してできた〝霊粒子〟こそが、ミラージュワールドへの入り口なんだよ」


 正直、一般人が受け入れるにはあまにりも荒唐無稽な話だ。

 どんなふうに受け止めていいのか……信じるべきか呆れるべきか、感情を持て余したような複雑な表情を手嶋さんが浮かべているのも無理はない。

 でも、もともと一般常識や既成概念といった部分にいろいろと不具合を抱えている花音は例外だ。


「っていうことは、ユッキーの弟の部屋に、その……れいりゅうし? ミラージュワールドへの入り口が開いた、ってことですね!」


――ある意味、理解が早いなあ。


 余計なことは一切考えない、オッカムの剃刀かみそりならぬ、花音の剃刀だ。


「それは、実際に現場を調べてみないと分からないけれど……話を聞く限りでは、可能性がなくはないと思ってるよ」

「でも……」と、手嶋さんが再び、遠慮がちに口を開く。

「仮にそうだったとして、弟がその霊子というのを観測した、ということですか?」

「一般の人が霊子状態のものを観測するということは、まずあり得ないだろうね」

「では、どうやって霊粒子に……」

「実は、実際に観測をしなくても〝観測可能な状態〟になっただけで、霊子の状態は変化するんだ」


 そういって、環さんがルージュを引いた唇の端をわずかに上げる。

 薄い色であるにもかかわらず、鮮やかに紅が浮かび上がってくるような妖艶な微笑ほほえみ

 あれは、すでに何かを感じ取っているいるときの環さんの表情だ。


「でも、そんなんで霊粒子になっちゃうんじゃ、世の中隠れ里だらけにならない?」


 花音が、同級生の中では大きさの目立つバストを下から持ち上げるように、腕組みをしながら宙を睨む。

 意識的なのだろうけど……ちょっと、イラッとするポーズね。


「うん。だから、観測可能な状態といっても、それほど簡単に整う状況ではないよ」

「どんな時に観測可能になるんです?」

「まず、その場所が〝特異点〟であること」

「特異点?」と、花音だけじゃなく、手嶋さんも同じように首を傾げる。

「イメージ的には、川の淀みのように、霊子が留まりやすい場所というのがあちこちに存在しているんだよ」

「じゃ……じゃあ、ユッキーの弟の部屋がその特異点に――」

「それともう一つ……」


 花音の言葉をさえぎるように、環さんが人差し指を立てて言葉を繋げる。


「特異点の近くで〝この世界とは別の場所に行きたい〟という強烈な意志が存在することが必要になってくる」

「強烈な……意志……」

「うん。実は霊子は、観測効果ほどではなくとも、人間の意志によっても状態が変化することがあるんだよ」


 肉眼では無理でも、意志は人間であれば誰でもが持ち合わせいる。

 その〝意志〟こそが、霊粒子を形成するトリガーになるのだ。


「つまり、特異点と意志……その二つが揃うことで、ミラージュワールドって場所に行けるようになるんですね!?」

「必ずではないけれど、そういう可能性もあるという――」


 それじゃあ! ……と、手嶋さんが食い気味で質問を重ねる。

 霊子の話になってから、呆れるどころか、むしろ前のめりになっているみたい。


琢磨たくまが――弟が、この世界から逃げ出したいと思っていた、ということですか!?」

「それは分からない。弟さん……琢磨くん? は、充実した毎日を送っていたようだけれど……心の奥底のことは、外からはうかがい知ることができないからね」

「そんな……」

「とにかく……」


 環さんが組んだ脚を戻し、手嶋さんの方へわずかに身を乗り出す。


「琢磨くんの心の内を詮索する前に、まずは彼の部屋に特異点が存在するかどうか……そこからだよ。弟さんの部屋、見せてもらってもいいかな?」

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