日常ってそんなに大切?
僕は十六夜さんのエッセイが好きでよく読む。
で、今日読んだこのお話を元に僕の事を話してみてもいいだろうか。
https://kakuyomu.jp/works/1177354054885133860/episodes/1177354054887434869
雪ちゃん(Twitterとかだと十六夜さんのことを雪ちゃんと呼ばさせていただいている)は、
『物書きには何でもない、特別でない日々を尊いと感じ、そのなかの一時を切り取っていく、そんな人が多い。』
と言っていた。
仮に僕が物書きだと言ってもいいのなら、僕は日常なんて大事じゃない。特に、他人が関わる日常程不要だと思って生きてきた。日常で大事なのは僕の周りの音や匂いだけ。描写に必要なその部分だけなのだ。
そして綺麗な部分は日常には少ないと思っていて。日常は汚いから汚い部分を切り取って美化するのが、若しくは汚い部分だけをより鮮明にするのが物書きの仕事だと思ってる。
僕は小学校と中学校を捨ててきたせいで、ほとんどの記憶がない。高校以外の『学校生活』というものを捨ててきた。皆で頑張る体育祭だとか文化祭だとか。それは高校で知れたから良かったけれども。
もしかしたらその弊害がいつかやってくるかもしれない。それは仕方ない。だって捨てたのは自分だもの。
でも捨てて良かったとも思っている。僕の記憶にある小学校と中学校はイジメの温床でしか無かった。罵詈雑言が飛び交い窓が割れる場所。せいぜいそんな認識。中学に至っては部活以外では殆ど男子からいじめられてたから部活以外の記憶皆無だし。ストレスから記憶を飛ばしたのなら仕方ないでしょ。そう思ってる。これは自己防衛だ。
記憶にあるのは毎日死にたかった通学路と安寧の場所である音楽室。小2で仲良いと思ってた友達に面と向かって「嫌い、私の近くに来ないで」と言われたり、小5の終わりから中3まで男子にイジメられ続けたり、部活で恨みを買ってしばらく無視されたり。そんな僕の人間に対する不信感も、僕のものだ。
だからまあ、足りない部分はそれを知ってる人から聞いたりして補えばいいかな、と思ってる。もしかしたらその人は持っていないかもしれない、死への渇望だとか枯渇し続けてる愛情とかが役に立つ時が来るかもしれない。それならそれでいいじゃん。
必要な時に無い後悔はあるだろうけれど、僕はそれはその時考えればいいや、と思ってる。
当時は必要無かったのだから、仕方ない。
死への渇望が書けるのは、本当に経験した人間だけだから。そして死への恐れを書けるのも、渇望した人間だけだから。
必要の無かった日常に憧れるくらいなら、逃げた先に見つけた非日常を大事にしたい。
勿論、雪ちゃんの後悔の念も大事だと思うけれど、今までの経験の上に成り立つ雪ちゃんも大事にして欲しいな、と僕は思うのでした。
以上、自分語りの痛々しい独白でした。
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